今回のPLANETSアーカイブスは、人類学者・奥野克巳さんへのインタビュー後編をお届けします。 現代社会に広く浸透している「多文化主義」。現代ではそこからのオルタナティヴとして、ヒューマンとノンヒューマンとの関係を探る「多自然主義」が台頭してきていると奥野さんは指摘します。落合陽一さんの提唱する「マタギドライヴ」と、文筆家・上妻世海さんの提唱する「制作論的転回」を、人類学の視点から解説します。(聞き手:宇野常寛・中川大地 構成:石堂実花)
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※本記事は2019年4月10日に配信した記事の再配信です。
「存在論的転回」としてのデジタルネイチャー
──最近の人類学がラディカルな多自然主義に向かっていく流れがある一方で、資本やテクノロジーに密着した人工知能のようなものをフラットな対象とすることに反発するようなアンチ・テクノロジー的な傾向は、人類学者の中にはありませんか? やはり人類学には左翼的な気分というか、文明化以前の弱者に肩入れする学という意識を持つ人たちもいそうなイメージが若干あるんですが。
奥野 どうでしょう。最近は久保明教さんがAI将棋の話を扱った『機械カニバリズム』という本を出しましていますね。欧米でも徐々に、自然の中の動植物と結びついた精霊や神々だけではなく、人間が作り出したもの、例えば性の文脈であればラブドールやセックスロボットといったものに広がっている流れがあります。そういうものと人間との関係を考えていこうとする文脈が広がってはいるし、実際わたしの研究室の学生でもセックスロボットと人間の性愛の関係が近未来にどうなっていくのかを研究している学生もいます。
だから、わたし自身はまったく抵抗感はないです。むしろそういったノンヒューマンなりポストヒューマンなりといった研究分野は、人間を超えた人類学の一部になっていくはずだと思います。
──マルチスピーシーズ人類学の射程には、生物学的な意味では「種」とはみなされないものとの関わりも含まれるということですね。
奥野 そうです。だから私は、『PLANETS vol.10』の落合さんと宇野さんの対談を読ませていただいて、すごく面白いと思いました。上妻世海さんなんかが言っていることにも非常に近い。多自然主義なんですよね。
文化人類学の多文化主義は、自己同一性が確保された安定的なところから、安定したものがいくつかあって、Aという文化からBという文化に出発して、差異そのものをとってきて、その蓄積の中から「これは普遍だ」というようなことを言ってきた。そうではなく、人間の計り知れない力を持ったものと対峙することによって自己変容する、といったことを含めた多自然主義的な自然観こそが面白いですよね。
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