ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。
今回から、1990年代を代表する野球漫画となった『H2』の読み解きです。Jリーグ開幕でサッカー人気が過熱するなか、あえて国民的ヒット作『タッチ』以来の野球&ラブコメという王道テーマへの再挑戦となった本作の成立背景と作風の特徴に迫ります。
碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春
第16回(1) サッカー人気が過熱する中で始まった野球漫画『H2』
1990年代を代表する野球漫画『H2』
『タッチ』以来となる野球漫画『H2』は、前作『虹色とうがらし』の連載が終了してから、わずか4ヶ月後に連載が開始された。『H2』は「少年サンデー」1992年32号から1999年50号まで連載され、コミックスは全34巻まで発売された。
コミックス全34巻中、高校一年生編は1巻の第1話「おれの青春だよ」から9巻「まァ、いいさ」まで、高校二年生編は9巻「スタート!」から28巻「絶好調」まで、高校三年生(夏まで)編は28巻「土をまいているの」から34巻最終話「最初からないのよ」までとなっている。
「ゲッサン」で連載中の『MIX』は、2012年6月号から現在まで連載が続いており、連載期間では『H2』よりも長くなっている。しかし、『MIX』は月刊連載(何度か休載している)であり、連載回数があだち充作品で最も多い作品は今のところ、『H2』となっている。
1980年代には『タッチ』、1990年代には『H2』、2000年代には『クロスゲーム』、2010年代から2020年代には『MIX』。1980年代以降、あだち充はその時代の読者にとって、代表的な野球漫画を描き続けていることになる。それぞれの作品の合間には、あだちが好きなものを楽しんで描いた作品がいくつか存在する。あだち充が自らのコンディションやモチベーションを維持するという意味でも、合間の作品は必要不可欠なものだった。
『H2』が長期連載になった要因のひとつは、前作にあたる合間の作品である『虹色とうがらし』を描いたことだった。『虹色とうがらし』から『タッチ』や『ラフ』の時とは違うピッチングフォームにガラリと変えたことで、いろんな意味でリセットをすることができたと、インタビューであだちは答えている。また、この連載の終わり近くになってからは、『タッチ』の担当編集者でもあった三上信一が「少年サンデー」に帰ってきて、再びあだちの担当編集者になったことも『タッチ』以来の野球漫画を描くことにも繋がったのだろう。
当時サッカーJリーグが開幕した頃で、実はサッカー漫画にしたいという要望もありました。Jリーグの開幕戦も無理やり観に行かされました。でもやっぱり僕は、間のないスポーツがダメなんです。タイムアップがあるのもね。作風的にも合わなかった。それはいまだにそう思います。
だから、比呂が高校で野球を始める前にサッカー部に入るのは、完全に当てつけ。周りがあまりにもサッカーサッカーとうるさかったから。当時のサッカー熱は異常だった。〔参考文献1〕試合全体の結果については、最初に考えて始めることは一度もないんです。ここで三振を取ったほうが面白い。それなら次の打席ではどうしたらいいかなというくらいです。野球はスリーアウトを取るまでわからないんだから、どうにでも描ける。いくらでも逆転可能。そういう可能性が最後まであるスポーツは助かります。
サッカーは残り3分で5点差なら、そこでゲームは終わってますから。サッカーファンに嫌われると困るので細かいことは言いませんが。美意識や生き方で、やはり時代劇好きで、義理、人情好きの漫画家は、野球のほうが相性がいいみたいです。〔参考文献1〕前半の、千川高校のサッカー部と野球愛好会の野球の練習試合なんて、ほんとデッタラメだよね。でもこの試合のおかげで木根竜太郎というキャラクターが立ったし、この試合自体でちゃんと野球の面白さを描いてます。〔参考文献1〕
1991年11月に「社団法人 日本プロサッカーリーグ」(略称「Jリーグ」、2012年より公益社団法人に移行)が設立され、1993年の5月には初年度のリーグ戦が開始された。日本中が「Jリーグ」フィーバーに沸いた。
著者は当時小学生だったが、それまでサッカーに興味なかった同級生たちが、それぞれお気に入りのチームのアイテムを買ったり、下敷きなどの文房具を「Jリーグ」のチームのものにしたりしていたのを見た記憶がある。その流れはやがて、日本代表戦への過熱な応援にも向かっていき、初のW杯出場へと日本を導くことになった。
同時に、サッカー日本代表の応援が、少しずつ違う形となって日本の中でファシズム的なものを形成していく要因のひとつにもなったように感じている。
話を戻すと、『H2』連載開始前には、あだちと「少年サンデー」編集長と白井康介と担当編集者の三上信一の4人で新連載の合宿を行ったもののなにも決まらなかった。編集部としては「Jリーグ」の人気にあやかって、あだちにサッカー漫画を描かせたがっていたようだが、あだちは次回作では野球漫画を描くと最初から決めていた。
上記のあだちの発言にあるように、物語の序盤には主人公の国見比呂がサッカー部に入部する。物語の舞台となる「千川高校」には野球部はなく、「野球愛好会」がほそぼそと存在していたが、運動神経のいいものたちが集まっているサッカー部に馬鹿にされ、その存在を校内でさえ知られていないありさまだった。
ひょんなことから「野球愛好会」とサッカー部の野球対決が持ち上がる。その試合の途中で、比呂はサッカー部のメンバーたちの野球を馬鹿にする態度に苛立ちを覚え、試合中に突如退部して「野球愛好会」に入会する。
「野球愛好会」のメンバーとして、サッカー部のピッチャーである木根から満塁ホームランを打った比呂は、「タイムアウトのない試合のおもしろさを教えてあげますよ」と印象的なセリフを放つ。これは編集部からサッカー漫画を描くように言われたことによる、彼なりの反抗が込められていたはずだ。また、あだち充が考える美意識や生き方について、この『H2』で描くという宣言のようにもとれる。
1986年に『タッチ』の最終回を迎えており、『H2』連載前には『タッチ』フィーバーの余波はほとんどなくなっていた。あだちも6年経った今なら、もう一度野球漫画を描いても大丈夫だろうという気持ちになっていた。
また、『タッチ』では野球の試合をすっ飛ばして描いていた(しっかりと野球を描いているのは地区大会の決勝戦の須見工戦だけとも言えなくもない)ことから、今度はしっかり野球をやろうという意識もあだちに芽生えていた。
そして、好き放題にやらせてもらった『虹色とうがらし』の次の作品では、ヒットする作品を狙わないとマズいということも強く認識していた。『みゆき』と『タッチ』は国民的な漫画となるほどの爆発的な売れ方をしたが、それに比べれば『ラフ』も『虹色とうがらし』もそこまで売れていなかった。
サッカー人気が出ているからと言っても、義理や人情のある時代劇が好きな彼の感性とサッカーという競技は合わないことも彼の中ではすでにわかっていた。だからこそ、あだち充流のラブコメ要素のある野球漫画を描いて、ヒットさせることが新連載の大きな目標となった。
タイトルの『H2』は「ヒーロふたり、ヒロインふたり」という設定から取られており、すんなり決まった。
主人公であるエースピッチャーの国見比呂、比呂の親友でスラッガーの橘英雄、比呂の幼なじみであり英雄の恋人である雨宮ひかり、比呂が入学した千川高校の野球愛好会でマネジャーをしている古賀春華の4人がメインとなった。
比呂と春華、英雄とひかり、それぞれのカップリングは順調に進んでいくが、高校二年生の終わり近くでひかりの母が急死したことから、4人の関係性やバランスに変化が起こり、いびつな四角関係となってしまう。
『H2』がヒーローとヒロインそれぞれふたりずつという設定は、ヒットさせたいというあだちの気持ちの現れだったのだろう。また、この四角関係の設定を作ることで、最後の最後まで比呂とひかりはどっちにいくかわからない展開になり、読者を強く惹きつけることになった。
あだち充のこれまでの作品では、主人公とヒロインが物語においていろいろあったとしても、最終的には一緒になるというのが当たり前だった。『H2』で言えば、幼なじみの比呂とひかりが最終的には一緒になるのではないか、という考えが大方の読者にはあった。このことは『みゆき』のラストにおいて、主人公の若松真人とヒロインの若松みゆきが一緒になり、ふたりそれぞれに振られたかたちとなった鹿島みゆきと沢田優一が旅先で出会って終わるという未来を感じさせるものだったことも影響していたはずだ。
比呂とひかり、英雄と春華、という組み合わせで終わる可能性が高いのではないか、と当時リアルタイムの読者だった私も思っていた。しかし、物語が進むにつれて、古賀春華の読者人気が高くなっていったことも関係し、その予想は見事に裏切られていった。
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