今朝のメルマガは、現在先行発売中の成馬零一さんの新著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』からのピックアップをお届けします。今回は衝撃の最終回を迎えた『俺の家の話』が話題の宮藤官九郎・長瀬智也タッグによる2005年の作品『タイガー&ドラゴン』を特別無料公開!
前作『マンハッタンラブストーリー』の失敗からヒットを義務付けられた本作は、第一期クドカンドラマの集大成であると同時に、「笑い」が宮藤官九郎の思想として確立される最初のきっかけでもありました。
2005年の『タイガー&ドラゴン』
2004年に宮藤が手掛けた脚本は、映画は『ドラッグストア・ガール』、『ゼブラーマン』、『69sixty nine』の3作。舞台は大人計画ウーマンリブvol.8 『轟天vs港カヲル〜ドラゴンロック!女たちよ、俺を愛してきれいになあれ』と、第49回岸田國士戯曲賞を受賞した『鈍獣』の2本と、あいかわらず多方面で活躍していた。
それだけに、04年にテレビドラマの脚本が1本もなかったことは寂しかったのだが、年を明けて、すぐにSPドラマ『タイガー&ドラゴン 三枚起請』(TBS系)が放送されたことは、素直に嬉しかったと同時に、宮藤はまだテレビドラマを書き続けるのだなと安心した。
▲『タイガー&ドラゴン』
本作は落語を題材にしたドラマ。物語は借金取りを生業としているヤクザの山崎虎児(長瀬智也)が、借金回収に向かった落語家の林家亭どん兵衛(西田敏行)に林家亭小虎として弟子入りをするところからはじまる。
虎児は笑いのセンスがなく、話が苦手。一方、もうひとりの主人公・谷中竜二(岡田准一)は、裏原宿で洋服屋「ドラゴンソーダ」を営んでいる。しかし、ファッションセンスがないため、借金がかさんでいた……。
虎と竜が交差するノンフィクション落語
『タイガー&ドラゴン』は物語の冒頭に劇中の落語家が枕として本編にまつわる話をするのだが『三枚起請』は、林家亭どん吉(春風亭昇太)のこんな語りからはじまる。
昔から実力が伯仲する者同士が争う事を『竜虎にらみ合う』などと申します、竜と虎、しかしこれには大きな矛盾がございまして、竜てぇのは想像上の生き物で誰も見たことないんです、一方、虎は別に珍しくもない、上野行ったら会えるんで、つまり虎と竜は住む世界が違うから勝負になんない、これはそんな違う世界に住む虎と竜の話で……(1)
この語りの通り、本作は〝虎〞児と〝竜〞二が主人公の一種のバディものとなっている。物語は、虎児がどん兵衛に「三枚起請」という落語の演目を教わるところからはじまる。江戸時代の専門用語が多いため内容を理解できない虎児が七転八倒していると、周囲でその演目と似た事件が起こる。虎児は、「面白いこと」が大好きな竜二と一緒に事件を探偵のように調べていき、事件を解決することで、実話を元にした〝ノンフィクション落語〞を自己流に作り上げ、それを寄席で披露するという流れとなっている。
さながら「落語ミステリー」とでもいうような本作だが、現実の生き物である〝虎〞と想像上の生き物である〝竜〞という対比は虎児と竜二の対比だけでなく「現実と落語」、あるいは「現実と虚構」の関係となっている。
こういった虚実の相関関係、虚構の世界のキャラクターを演じることで現実の問題を乗り越えていくという物語は、宮藤が得意とするものである。
『木更津』なら北条司の漫画『キャッツ・アイ』(集英社、1981〜84年)から名前が取られた怪盗団・木更津キャッツアイに主人公たちが扮し、何かを盗むことが結果的に困っている人を助けるという物語となっていた。
一方、『マンハッタン』の最終回では、恋愛に悩む主人公が劇中で放送されていた恋愛ドラマ『軽井沢まで迎えにいらっしゃい』の登場人物たちの台詞によって後押しされ、ヒロインに告白するという展開となっていた。
『タイガー&ドラゴン』はそういったクドカンドラマに内包されていた虎(現実)と竜(虚構)の関係が、落語というモチーフを使うことで、より自覚的に打ち出されるきっかけとなった作品だ。
第一期クドカンドラマの集大成
『三枚起請』の演出は金子文紀、プロデュースは磯山晶。そして、『池袋』で主演を務めた長瀬智也と『木更津』で主演を務めた岡田准一のW主演となっている。本作について磯山は、『マンハッタン』で手痛い低視聴率を取った後の作品だったため、彼女にとっても宮藤にとっても、「受け入れられたい!」(2)という意識が普段よりも強かったのかもしれないと語っている。
「これでコケたら、もう二度とドラマは作れないだろう」と思っていたし、「思い残すことないように『集大成』的な作品にしよう」と無意識に考えていたのかもしれない。(3)
主演の二人やスタッフの座組、そして作品のテーマから見ても、本作はクドカンドラマの第一期集大成と言える作品だろう。同時に、本作の成功がなければ、宮藤×磯山の作品はもちろんのこと、宮藤がテレビドラマを書き続けることはなかったのではないかと思う。
シナリオ本に掲載された宮藤の「まえがき」には、宮藤と磯山が「相当にリキんでいた事だけは間違いありません」「これ面白いのか、本当に面白いのか、面白いのは自分たちだけじゃないか。何度も何度も二人で確認しました」と書かれている。(4)
これは、『木更津』や『マンハッタン』が、「自分たちが楽しいものをまずは作ろう」という志で作ろうとするあまりに、どこかで「自分たちだけ楽しめればいい」という内輪ノリが強まってしまったことへの、反省にも聞こえる。
現実パートと落語パートが入れ子構造になっているストーリーはあいかわらず複雑で、落語の話がわからないと若干敷居が高く感じるが、本作は他のクドカンドラマと比べても外に開かれた作品となっていたと思う。それは落語というモチーフをわかりやすく噛み砕いてみせていたことと、ファミリー層も楽しめる人情ドラマとして作られていたことが大きいのだが、同時に視聴率対策として、下準備がしっかりとおこなわれていたことが大きいだろう。
まず、『タイガー&ドラゴン』は2005年の1月9日に2時間のSPドラマ『三枚起請』が放送された。その時に15・5%(関東地区、ビデオリサーチ)というクドカンドラマとしては高い視聴率を獲得。その後、3月にDVDが発売され、4月クールから満を持して連続ドラマ版『タイガー&ドラゴン』が放送された。全話の平均視聴率は、12・8%(同)。決して大ヒットというわけではないが『マンハッタン』の惨状を考えれば、首の皮一枚でつながったと言えるだろう。
宮藤のドラマには毎回、独自の設定と作品内ルールが登場する。そのため、第1話は、その説明に、時間を費やすことになる。『木更津』なら表と裏という構成、主人公たちが怪盗団を結成して毎回何かを盗むこと、そして主人公が悪性の癌で余命わずかだという難病モノだということ。『マンハッタン』なら、各話の恋愛話がつながっており、片思いの連鎖で物語が進むこと。そして、劇中で放送される恋愛ドラマ「軽井沢まで迎えにいらっしゃい」が実は重要な意味を持つ、といった具合に。
この作品内ルールをベースにした物語構成の面白さこそ宮藤のオリジナリティなのだが、そのルール説明についていけないと、視聴者は振り落とされて、番組から脱落してしまう。逆に、最初にルールさえ理解できれば、あとは何を見ても面白いという状態になり、どっぷりハマることになる。しかし、多くの視聴者が何かの作業をしながらダラダラと鑑賞することが多いテレビドラマの世界において、クドカンドラマのスタイルは隅から隅まで番組に集中してみることを求められるため、どうしても敷居が高くなってしまう。そんな構成上の弱点を『タイガー&ドラゴン』ではSPドラマを先に放送するというやり方で乗り切ったのだ。
物語としては、これまで以上に複雑な構成だが、基本的に一話完結の人情モノの枠組みを使ったミステリーとなっているため、キーアイテムが「落語」だとわかれば、どこから見ても楽しめる。もしもこれが連続ドラマからスタートしていたら、視聴者の参入障壁は相変わらず高かったのではないかと思う。
『三枚起請』の2時間という長さも情報過多なクドカンドラマにおいてはちょうどよかった。特に見やすかったのは、竜二の本格的な登場がドラマの折り返し地点となる1時間を過ぎてからだということだろう。
それまでに描かれるのは虎児から見た噺家の世界だ。落語に感銘を受けた虎児は、どん兵衛の借金返済と引き換えに10万円で落語の演目を一つ教わるという師弟契約を交わす。しかし、すぐには落語が覚えられずに寄席に上がってもうまくしゃべれずに失敗する。
この過程を丁寧に見せることで、虎児の話が下手でヤクザゆえに今まで暴力で物事を解決してきた性格、そして細かなお約束が多い落語の世界を、しっかりと印象づけているのだ。
長瀬智也と岡田准一
「三枚起請」が理解できない虎児は、どん兵衛の妻・谷中小百合(銀粉蝶)の紹介で、竜二の元へと向かう。実は竜二はどん兵衛と小百合の息子で、かつて天才落語家と謳われた林家亭小竜だった。竜二は噺家を引退し洋服屋を営んでいた。その開店資金こそがどん兵衛が借金返済に困っていた400万だというのが実におかしいのだが、そんな事情はさておき、竜二は虎児を連れて、友人のチビT(桐谷健太)の働くレコード屋へと行く。
そこでチビTが「六本木でキャバクラ嬢に騙された話」を聞かされた竜二は「話してみて」と虎児に話の内容を言わせようとする。しかし虎児の説明は要領を得ず、笑えない。同じ話を2回聞いてもつまんねぇよという虎児に対し竜二は「落語もそうなんじゃないスか?」と反論する。
竜二「知ってる話を知ってる客に面白おかしく喋るのが落語なんじゃないの? 分かんないけど、誰が喋っても一緒だったらCDとか本で充分なんじゃないの? 分かんないけど」(5)
同じ話でも喋る人によって印象が大きく変わる。これは物語冒頭ですでに示されていたことだ。
虎児と竜二は、表参道のカレー屋で、デス・ロマンティックという人気ハードロックバンドのメンバーで、今はバンドを解散したデス・キヨシ(ヒロシ)が電気工として上司に怒られている姿を目撃する。そしてそこで起きた一部始終をそれぞれ別々の場所で、違う相手に話すのだが、面白おかしく状況を説明して笑いをとる竜二に対し、虎児の語りはたどたどしく状況をただ要約することしかできなかった。
そんな(面白くない)虎児が噺家になろうとするギャップが本作冒頭の面白さなのだが、それが出落ちではないところが『タイガー&ドラゴン』の奥深いところだろう。
虎児はどん兵衛にヤクザになった理由を語る。虎児の父親は、地元のヤクザに借金があり、精神的に追い込まれていた。ある日、母親と虎児が寝ている隙にガスの元栓をひねり一家心中を図り両親二人は命を落とす。
幸か不幸か、生き残った虎児は施設に預けられ中学卒業後は地元でチンピラをやっていた。そして、18歳の時に新宿流星会の若頭・日向(宅間孝行)にスカウトされて、ヤクザとなった。
虎児「思えば両親が死んでから、俺は一回も笑った事がなかった、笑う事も笑わせることも俺の人生には必要ねぇと思ってた……あんたの落語を聞くまではな……どうした」(6)
話を聞いたどん兵衛は号泣するのだが、虎児はどん兵衛が何で泣いているのか理解できない。これは虎児の中に相手に共感するという気持ちが大きく欠落していたからだ。
つまり、「笑い、笑わせる」というコミュニケーションと無縁の世界で虎児は生きてきたのだ。
弟子入りを願い出た虎児に対して、借金取りの虎児に金をふんだくられた人が寄席の高座で虎児を見たとして、その噺で笑えると思うか? と、どん兵衛が尋ねる場面がある。この場面も実は重要だ。ここではヤクザという「暴力」の世界と落語という「笑い」の世界が本来は相容れないということを密かに暗示している。
無論、この対比はそのまま「虎と竜」の対比でもある。虎児が面白くない具体的な会話しかできなかったのは、彼が「虎」という暴力に満ちた現実の世界の住人だったからだ。
対してどん兵衛や竜二は「竜」という虚構の世界を生きている。この非合理で無駄なものの集合体である虚構の世界が虎児をどう救うのかが、本作のみどころなのだが、この「虎と竜」の対比はそのまま、長瀬智也と岡田准一という本作の二大看板俳優の対比にもなっている。
今では日本を代表する名優となった二人だが、この『タイガー&ドラゴン』の時点では演技のアプローチは真逆だった。
長瀬が『池袋』で開眼した荒々しい野獣のような身体性を感じさせる生々しい存在感を見せているのに対し、岡田の演技は『木更津』のぶっさん以上にコミカルでまるで漫画のキャラクターのようである。同時に立ち回りの器用さの裏にナイーブな感情が見え隠れしており、器用すぎて不器用に見える当時の若者像を象徴している。
対して長瀬が演じる虎児は不器用な生き方をしているのだが、それが愛嬌につながっており、周囲からは珍獣扱いされて愛されていく。もちろんその愛嬌の裏にある本当の暴力性に直面すると周囲の人々は心を閉ざしてしまうのだが、この荒々しい獣とつるんとしたキャラクターの対比が、そのまま虎と竜、現実と虚構、ヤクザと落語の対比となっているのだ。
そして本作における「笑い」とは無論、虚構と同義のものだが、ここで面白いのは宮藤の考える虚構あるいは物語が、一つの作品として独立したものではなく、落語のような誰かに話して聴かせることで成立するものだということだろう。
物語は、やがて六本木のキャバクラ嬢・メグミ(伊東美咲)の正体をさぐる中で、彼女に騙された男たちを探す物語となっていくのだが、その過程で虎児は、かつてひと悶着あったヤクザの田辺ヤスオ(北村一輝)と出会う。
身の危険を感じて逃げようとする虎児。しかし、竜二はこう言う。
竜二「そりゃ怖えッスよ、めちゃめちゃ怖えッスよ、でも面白いじゃないスか」
虎児「……」
竜二「オレ、追い込まれた時とか、後で誰かに喋る時のこと考えるんスよ、それこそヤクザにからまれた事もボッタクリに遇った事もありますけどね、そういう時にこう、その状況を友達に喋ってる自分を想像して、まだ足りねぇ、こんなもんじゃ笑い取れねぇぞって……小虎さんだって今この状況を誰かに喋りたくねえっスか? 喋って笑い取りたくねえッスか?」(7)
虎児は竜二に対し「今まで会った事がないタイプ」(8)だと言うが、それは虎児の周りにいた人間が(虎児も含めて)生存欲求とわかりやすい欲望に駆動された人々であるのに対し、竜二が「面白いか、面白くないか」という動機で行動する人間で、面白い話があれば、めんどくさいイザコザにも進んで巻き込まれようとする面白主義の男だからだろう。しかもその笑いは自己完結したものではなく、誰かに話すことではじめて成立するものなのだ。
これまでにも宮藤の作品には、「ダサい」のような、いわゆる善悪や道徳的な倫理観とは違う価値観を登場人物に語らせる場面が何度か登場した。中でも「笑い」にまつわる価値基準は、クドカンドラマの中に一貫してあるものだ。この「面白さ」を基準とする審美眼のようなものが、より具体的なものとして姿を見せ始めたのが『タイガー&ドラゴン』だったのではないかと思う。つまり「笑えるか? 笑えないか?」を価値基準とした思想のようなものが、宮藤の中で生まれようとしていたのだ。
茶の湯
本作では「芝浜」「饅頭こわい」といった古典落語を下敷きに、現代(2005年)を舞台にしたドラマが展開されるのだが、ドラマ評論家を名乗っている筆者にとって耳が痛かったのが、第3話「茶の湯」だ。竜二の店「ドラゴンソーダ」はメッシュ素材のダサい服ばかりなので閑古鳥が泣いていたが、そこに「原宿ストリートファッションの神様」と言われるトータルプロデューサー・BOSS片岡(大森南朋)が現れ、「キテるね」「ヤバいね」と絶賛する。竜二はBOSS片岡とコラボすることになり、彼が主催するクラブイベント・ドラゴンナイトの入場券代わりとなるリストバンドのデザインを発注される。
一方、虎児の前には淡島ゆきお(荒川良々)という男が現れる。淡島はジャンプ亭ジャンプという高座名を持つ落語家でアマチュア落語のチャンピオン。古典落語を得意とする淡島はどん兵衛に弟子入りするが、どん兵衛が口座にかけようとしていた演目「茶の湯」を先に喋り挑発する。どん兵衛と淡島、二つの「茶の湯」を聞いた虎児は「どっちが面白かった?」と、どん兵衛に聞かれ「笑ったのは淡島のだ、でも、もう一回聞きてえと思ったのは師匠のだ」と答える。
どん兵衛「……なるほど、確かに演る人間によって印象はガラッと変わる、それが古典落語の面白いところだ、正解なんてのぁ無いんだ、お前さんがどうアレンジするか……」
虎児「いや……アレンジしねぇ」
どん兵衛「んん?」
虎児「こいつのを見てて思った、若いとか経験が浅えとかそんなの言い訳になんねえよ、今度こそ古典をきっちりやりてえ……いや、やる」(9)
一方、淡島はどん兵衛から「人に何かを教わるという姿勢が出来てない」と、弟子入りを断られる。師匠から教わった古典落語をそのまま高座で話す虎児。寄席ではそこそこ受けるがネットの掲示板では「子虎も終わったね」と酷評の嵐、荒々しいキャラクターと古典を下敷きに現代を舞台にしたデタラメな落語が受けていたのだが、その持ち味を壊してしまったのだ。
対して竜二には、デザインのOKがなかなか出ない。打ち合わせの席には代理店や雑誌編集者、クラブのオーナー、ミュージシャンが同席して意見を言う。一方、BOSS片岡は要領を得ず、挙げ句の果てに、決まったはずのデザインは別のものに変えられてしまう。商品は売れたが、自分のものではないと思った竜二は、売上と商品を突き返し、BOSS片岡とのコラボを解消する。虎児はイベントに押しかけ、BOSS片岡に啖呵を切る。
虎児「お前等が軽々しく『来てる』だの『終わってる』だの言うたんびに一喜一憂してるヤツがいるんだよ、何故だか分かるか? 必死だからだよ、必死にどーにかなりてえ、カッコいいもん作りてえ、面白えもん作りてえって身体すり減らしてやってるからだよ、分かるか? 自分の言葉に責任持て」(10)
竜二は落語家でありながらテレビで汚れ仕事をして家族を養う兄のどん太(阿部サダヲ)とも、寄席で古典落語にこだわる父親のどん兵衛とも違う「自分の好きなものだけ作って、それで売れてみせますよ、直球ですけど」(11)と言う。
これに対し虎児は「俺も自分が面白えと思う話で笑い取ってやるよ」(12)と返す。
落語やファッションを題材にしているためか『タイガー&ドラゴン』にはタレントやクリエイターの心の叫びが透けてみえる。特に面白いのは虎児の立ち位置で、本人は古典をやりたいと思っているが、世間が求めているものは、粗暴な振る舞いだったりする。ヤクザで「笑い」がわからない粗暴な男が、寄席とは場違いゆえにそのキャラクターが消費される姿と、竜二のダサいファッションセンスが気まぐれに消費されていく姿が対になっているが、若者向けサブカルチャーの一つとして色モノ的に消費されたくないが、古典をしっかりと演じるほどの基盤もまだ出来上がっていないという、宮藤たち作り手の心境が〝直球〞で描かれていたと思う。
モラトリアムの着地場所
ヤクザで笑いのセンスがないのに落語家を目指す虎児と、ファッションセンスがないのに洋服屋を経営する竜二は、現在の自分と本来の自分の間に齟齬を抱えている。これは虎児が在籍する新宿流星会の跡取り息子・中谷銀次郎(塚本高史)にも言えることだ。
大学に通いながら虎児の弟分として行動をともにする銀次郎は、今どきの若者で、卒業後の進路をどうするべきか悩んでいる。何より自分はヤクザに向いていないのではないかと思っており、だからこそ親父とは違う自分なりのやり方で手柄を立てようとする。第6話「明烏」では、多額の借金を抱えた白石克子(薬師丸ひろ子)に追い込みをかける中で、彼女がブログを更新していることを突き止めるが、肝心なところで取り逃がしてしまう。
銀次郎は第三の主人公とでもいうような存在で、本作の落語的世界観をもっとも体現している弱くて情けない男だ。
第8話「出来心」では、学生時代の友達で警察官の金子準(高岡蒼祐)と共に、ヤクザの隠し持っているシャブや拳銃を見つけて一山当てようとするが、逆にヤクザに捕まってしまい虎児と若頭の日向に助けられる始末。その時に虎児は「似合わねぇもんに手ぇ出そうとすんなよバカ」(13)と言われるのだが、このセリフは、虎児にも竜二にも当てはまるものだ。その意味で「似合わねぇ事」は「落語」と並ぶ本作の重要キーワードだ。
何度かの失敗を重ねた後、竜二は落語の道に戻り、銀次郎は流星会の二代目を襲名する。最終話、3年ぶりに再会した虎児に、銀次郎は「俺ね、今すげえ似合わねえ事してんですよ、30人近いヤクザが(眉間)ここに力入れて、二代目二代目って、おう、なんつって、似合わねっすよ、代わってほしいすよ、マジで」と言い、ヤクザの世界に戻ってこようとする虎児に対して銀次郎はかつて虎児に言われたことをなぞるように「似合わねぇ事してんじゃねえよ!」と言って拒絶する。(14)
『タイガー&ドラゴン』における「似合わねぇ事」という言葉は、『池袋』と『木更津』に登場した「ダサい」と同じ意味だろう。この「ダサい」の使われ方にも変遷があり、仲間内での「〜をしない美学」という倫理観の表明として「ダサいことするな」と言っていたのが、2013年の『あまちゃん』では「ダサいぐらい何だよ、我慢しろよ!」(15)という、楽しいことをやるために、あえて苦しいことにも耐える〝やせ我慢の美学〞に変化している。
『タイガー&ドラゴン』の「似合わねぇ事」も、はじめは「〜するな」という禁止の言葉で、虎児や竜二にとっては自分にあった仕事や生き方を見つけろ、という意味合いだったが、銀次郎の「あえてするやせ我慢の美学」を間に挟むことで二人とは違う着地方法を描いたと言える。
伝統の継承 笑いとテレビドラマ
竜二が落語家に戻り、銀次郎がヤクザの二代目となったように『タイガー&ドラゴン』は、宮藤にとって古典芸能の伝統を継承する通過儀礼のような作品だった。第3話に作り手の心境が透けてみえると先程指摘したが、そもそも師匠から落語を学び、それを自分なりの物語として語り直していくというプロセス自体が、宮藤の核にある創作論にみえる。
演芸評論家の相羽秋夫は、『落語入門百科』(弘文出版)の中で、落語は作られた時期によって「古典」「改作」「新作」に分類できると語っている。
「古典」とは、辞書を引くと、昔作られたもので現代までその価値を認められているもの、一般的には江戸時代以前のものをさす、と記されている。落語の場合は、もう少し時間を遅くして明治、大正時代までに作られたもの、としてもいいと思う。その数は四百はあろうかと推測されるが、実際に演じられている噺は半分ぐらいになる。それは、時代の推移とともに舞台設定や風俗、習慣が激変してしまって、現代人には理解しがたい噺が増えているからである。
そうした問題を解決しようと、噺の骨子を残して現代風にアレンジしたものを「改作」という。こちらは、それぞれの演者の工夫によって出来栄えが違うわけで、むしろ「新作」的な印象を与える。(16)
その後、相羽は、昭和初期以降に作られた噺を新作と言うが、すでに50年以上経っているものを新作と呼んでいいのだろうか? と疑問を呈している。他にも上方落語では現代風新作、創作と呼ばれることがあると書かれているのだが、おそらく重要なのは制作時期ではなく、古典をそのまま再現するか、古典を踏まえた上で新しい物語を作るか(改作)、古典を踏まえず、オリジナルの噺を作るか(新作)という手法の問題に行きつくのだろう。
この分類で言うと『タイガー&ドラゴン』は改作にあたる。
元々、宮藤は原作や特定のジャンルを下敷きに、自分なりの物語を語り直していくという作家だった。『池袋』なら石田衣良の原作小説があり、『木更津』なら自身の戯曲「熊沢パンキース」と難病モノ、『マンハッタン』なら1980年代テレビ文化とトレンディドラマといった具合に。元ネタやジャンルに対する距離感によって辛辣なパロディになるか、愛のあるオマージュになるか変わってくるのだが、落語を下敷きにした『タイガー&ドラゴン』は後者の色合いが強くなった。その意味で宮藤の作劇手法自体が落語の改作的なのだろう。
また、本作には落語だけでなく、様々な先行作品や作家、芸人に対するオマージュに溢れている。例えば、劇中に噺家の高田亭馬場彦として出演している高田文夫。そもそも本作の着想は、高田文夫から新作落語を書いてほしいと言われたのがきっかけだったらしい。
04年頃か、低迷する落語界。たしかに若手は伸びてきているのだが、落語界全体にとってインパクトがない。私はクドカンを呼び出し、「渋谷のパルコ劇場3日間くらい、オレの金で押さえるから、志の輔、昇太、志らくのために3本新作書いてくれないか」と懇願した。半年、1年、何の答えもない。そして1枚の企画書を持ってきて私に見せた。「普通に落語やってもダメだと思うんです。これはドラマです。ジャニーズが落語をやれば世間はおどろくでしょ。岡田クンと長瀬クンが落語やるんですよ。カッコいいでしょ」
これが2005年の大ヒットドラマ『タイガー&ドラゴン』になった。この年、世の中は〝落語ブーム〞と騒ぎ出した。(17)
宮藤が芸能界を志したのは、ラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」で、たけしの横で合いの手を入れる高田文夫に憧れてのことだった。
その後、『いだてん』では、ビートたけしが古今亭志ん生役で出演という、宮藤にとっては、自分の作品で、憧れの落語家の役を、憧れの芸人が演じることになるのだが、1980年代におけるビートたけしの影響力は絶大で、たけしは優れた芸人であると同時に思想家のような役割を果たしていた。
たけしの影響でクリエイティブな世界を志した人々はお笑いのみならず他ジャンルに溢れており、宮藤もまた、そんな「ビートたけしチルドレン」の一人だった。
その影響は笑いのセンスや対象への距離感などに強く現れているのだが、この『タイガー&ドラゴン』の冒頭で、落語家が枕を喋った後に「タイガー&ドラゴン」とタイトルを言う場面は、1982年にビートたけしが主演を務めたドラマ『刑事ヨロシク』(TBS系)へのオマージュとなっている。(18)
市川森一 淋しいのはお前だけじゃない
他のテレビドラマでは、1982年に放送された市川森一脚本のドラマ『淋しいのはお前だけじゃない』(TBS系)からの影響が強くうかがえる。
本作は大衆演劇を題材にした作品で、借金取りの沼田薫が、多額の借金を返済させるために旅一座の俳優と債務者を集めて劇団を始めるうちに大衆演劇の魅力に引き込まれていくという物語だ。
物語冒頭では、「一本刀土俵入り」「四谷怪談」「瞼の母」といった有名な演目の一場面を演じ、その芝居と本編がリンクする。この入れ子構造は『タイガー&ドラゴン』の落語と現実が交差する関係を思わせる。
沼田を演じたのは西田敏行。彼にとって本作は特別な作品で「実験的でクオリティの高いドラマだったんだけど、ぶつけた時代がちょっと早かったために高い成功を収めることはできなかった。ただ、「モノ作りの醍醐味はものすごく感じられる現場で、本当に楽しかったんです」(19)と語っている。
そして、『タイガー&ドラゴン』の企画の話を聞いたときに、『淋しいのはお前だけじゃない』をやっていた時のようなモノ作りの喜びを、また味わえるんじゃないかと、久しぶりにワクワクしたという。(20)
借金取りの沼田を演じた西田が借金返済に追われる噺家を演じるというのは、クドカンドラマらしい俳優の文脈を活かした配置なのだが、市川と宮藤の作風には、シンクロする部分がとても多い。
評論家の切通理作が執筆した『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社文庫)は金城哲夫、佐々木守、上原正三、市川森一という4人の脚本家について書かれた評論集だ。本書で切通は、市川作品における夢の描き方を以下のように書いている。『港町純情シネマ』(80年)と『淋しいのはお前だけじゃない』(82年)は、潰れかかった映画館の映写技師と、借金返済のために大衆芝居をやる人間たちを主人公にしたものだが、そこでは現実に追い詰められ、「家族」すらも崩壊したなかで生きている人間たちが、「映画」や「芝居」の持つ虚構の世界にのめり込み、今度は物語の力で現実の自分を救っていく。
市川ドラマの夢は、いつしか現実逃避のための夢でなく、夢によって現実を反転する「力」となっている。それは、別に親がいないわけでなくても、孤独な日々を送ったすべての少年たちの姿と重なり合う。(21)
虚構の世界にのめり込むことで自分を救い、夢の力で現実を反転させるという市川の作風は、宮藤の作品全般に当てはまる。中でも『タイガー&ドラゴン』はそのこと自体がテーマだった作品だと言えるだろう。
粗忽長屋、もうひとりの虎児
最後に、家業を継ぐ竜二や銀次郎に対して、虎児の物語はどのように描かれたのか?
第8話「出来心」以降、描写の比重が増していくのが虎児のいるヤクザの世界だ。虎児は(どん兵衛の)借金返済が終われば、ヤクザを辞めて噺家になるはずだった。そのことは組長(笑福亭鶴瓶)も了解しており、むしろ自分がなれなかった噺家になる夢を、虎児に託していた。
新宿流星会は、麻薬にも拳銃にも手を出していない借金の取り立てを生業にしているアットホームなヤクザだ。クドカンドラマでいうと『木更津』に登場する地元の暮らしに密着したモノマネ教室を営んでいる山口さん(山口智充)に近いフィクションの中にしかいないような牧歌的存在だ。一方、「出来心」に登場した神保組や、第9話「粗忽長屋」から登場する目黒ウルフ商会は『池袋』に登場する京極会のような暴対法以降のリアルなヤクザ。2019年に注目された反社(反社会的組織)、半グレと呼ばれるような組織に近く、ヤクザの世界で、虚構(新宿流星会) 対 現実(目黒ウルフ商会)という衝突が始まるのだ。
そして、かつて虎児を殺そうとした田辺ヤスオが再登場することで、物語は一気に血なまぐさくなる。
第9話の下敷きとなる「粗忽長屋」は、行き倒れの死体が、同じ長屋の住人・熊五郎だと気づいた八五郎が長屋にいる熊五郎を連れてくるという、ナンセンスな噺だ。
話の中で熊五郎は粗忽者(そそっかしい奴)だから死んでることにも気づかないのだ。と言われるのだが、『タイガー&ドラゴン』では、自分を死んだことにして人生をやり直そうとするヤスオの話という、(死体)の入れ替わりミステリーに仕立てている。
面白いのは、虎児とヤスオの関係自体が合わせ鏡のような関係になっており、粗忽長屋の死んだ熊五郎と生きている熊五郎の対比と重ね合わされていること。虎児にとってヤスオは、自分の中にあるコンプレックスを刺激する不快な存在で、「お前あれだろ? 親とかいねえんだろ? 死んでも誰も悲しまねえよな」(22)とか「おめえや俺の代わりはいくらでもいんだぞ」(23)といった、虎児が言われて一番嫌なことを言う。
それでも虎児がヤスオを守ろうとしたのは、彼が(落語に出会わなかった場合の)もう一人の自分だったからだろう。つまりユング心理学で言うところのシャドウ(影)である。ヤスオの計画は成功し、ヤクザの世界から逃げ出すことに成功する。しかし皮肉なことに虎児の方が逆に暴力の世界に呑み込まれていく。(24)
落語共同体は虎児を包摂できるのか?
ウルフ商会に銀次郎と殴り込み、暴力沙汰を起こした虎児は一人で罪を背負い逮捕される。それから3年後、出所した虎児はみんなの近況を知る。
借金を返済した竜二は七代目・林家亭どん平衛の襲名を間近に控えていた。ドラゴンソーダは芸能人が冗談で着た服が話題となり店は繁盛。一方、どん平衛はなぜか、二代目林家亭小虎の名を襲名。口では小虎が帰ってこれないように襲名したと言っているが、虎児の帰りを待っていたことは誰の目にも明らかだった。
師匠に迷惑をかけられないと、どん平衛の元に行くことを躊躇する虎児と、口ではあんなヤツは弟子ではないと言いながらも、虎児のことが気になって仕方がないどん平衛。そんな師弟のもどかしい気持ちを「子は鎹(かすがい)」に重ねて描かれる最終話は、虎児が再び寄席に戻ってくる姿を泣き笑いで見せる人情劇となっている。
ラストは客と虎児の「タイガータイガー、じれったいガー」というコール&レスポンス。ライブ的高揚感の中で物語は幕を閉じるが、元ヤクザで暴力事件を起こした虎児を受け入れた林家亭一門がその後、どうなるのかは描かれない。
物語冒頭では、マスコミからの厳しい糾弾や、落語芸能協会から林家亭一門が脱退し、一時は路頭に迷ったと竜二によって語られた。それでも、どん太はテレビに出ていたが、それが可能だったのは、虎児を破門にして林家亭とは無関係だと証明したからだ。しかし虎児が復帰すれば協会を敵に回し、竜二の真打ち昇進もオジャンになるかもしれない。「どんな人間でも包摂できるのが落語なのだ」と、あえてお噺に徹したのかもしれないが、あまりにもきれいな終わり方であるため、「芝浜」ではないが、あれは虎児が見た夢だったのかもしれないと思えてくる。
前述した『怪獣使いと少年』の中で切通理作は、市川がクリスチャンであることに言及し「彼にとってのキリスト教は、キリスト本人のように、連帯を求めずに、たった一人でも、自分だけの人生を生きること。孤独をまぎらわすためではなく、孤独に生きることの意味を問うことだった」(25)と書いている。もしも市川森一が書いていたら、虎児はヤクザの世界からも落語の世界からも追われ、一人孤独に去っていったのかもしれない。
寄席が虎児を受け入れるというオチは、虎(現実)と竜(虚構)の物語を描いてきた本作の理想の落としどころかもしれない。しかし個人的には、枕でどん平衛が「これがやりたかったんでございます」(26)という第10話「品川心中」こそが本作の最終回であり、作家としての宮藤の本質がもっとも現れていたのではないかと思う。
品川心中と笑えない噺
落語家の立川談志は、落語を「人間の業の肯定を前提とする一人芸である」(27)と定義している。談志は浪曲や講談には存在する『忠臣蔵』が落語にはないことに注目し『忠臣蔵』は討ち入りに参加した四十七士ではなく「逃げた残りの人たちが主題となるのです」(28)と語っている。談志が語る「業の肯定」はそのままクドカンドラマにも当てはまる。
しかし、考えこんでしまうのは、「業」とはどこまで肯定されるのだろうか? ということだ。人間の「弱さ」、怠け癖や借金、酒での失敗といった「情けなさ」が「しょうがないなぁ」と「笑い」の対象として愛されることはよくわかるし、そんな弱い人たちを受け入れるのが落語であり寄席を中心とした共同体だった。
しかし世の中には「笑い」にならない「業」もある。
第10話の題材となる「品川心中」は、落ち目の花魁・お染が主人公の噺だ。お染は衣替えに必要なお金をカンパしてもらうため、あちこちに手紙を書くが返事が来ない。悔しい、こんな思いをするならいっそ死んでしまいたい。しかし一人では格好がつかない。だから客の金蔵を巻き込んで心中しようとする騒動を起こすのだが、サゲ(オチ)の意味が虎児にはわからない。実はどん兵衛が話したのは前半だけだった。
どん兵衛「後半は『仕返し』と言ってね、金蔵がお染に復讐するって噺なんだが、今じゃ誰もやんないの」
虎児「なんで」
どん兵衛「暗くて笑えないからだよ」
虎児「……」
どん兵衛「笑えない噺なんか誰も聞きたくないだろ? 我々の商売はね小虎、それから小竜、お客様を楽しませる事なんだ」(29)
このやりとりは『忠臣蔵』が落語にないことに対する、談志とは違う視点からの回答に聞こえる。当時の武家社会の構造や儒教的価値観を取り除いた時に見えてくる『忠臣蔵』は、ある種の復讐譚、今風に言えばテロ行為である。しかも四十七人の侍が一人の老人に大義の元に襲いかかるのである。そんな噺、笑えるわけがない。
第10話では虎児の代わりに竜二が寄席に出て、メグミが練炭自殺を目論む自殺志願者に巻き込まれる噺として「品川心中」が語られる。一方、寄席を放棄した虎児は、襲撃を受けた組長の復讐をするために銀次郎とともにウルフ商会に殴り込みをかける。そして(銀次郎を庇って)一人で罪をかぶり、警察に逮捕される。暗くて笑えない噺だからこの噺は落語にはならない。しかし宮藤はテレビドラマという枠組みを使って「笑えない現実」を描く。そしてその先も。
テレビに映る、逮捕された虎児を目撃するどん平衛と竜二。しかし、虎児は笑っていた。
稽古の席で、組のことが気になって笑顔を作れない虎児に、どん兵衛が言ったことを思い出す。
「ダメでも笑うんだよ、どんなに追い込まれても平気で笑ってられんのが本物なんだ」(30)
(つづく)
(1)(5)(6)(7)(8)(22)
宮藤官九郎『タイガー&ドラゴン(上)』(角川文庫)「「三枚起請」の回」(2)(3)同書「あとがき」磯山晶(TBSプロデューサー)
(4)同書「まえがき」宮藤官九郎
(9)(10)(11)(12)同書「茶の湯」の回
(13)宮藤官九郎『タイガー&ドラゴン(下)』(角川文庫)「「出来心」の回」
(14)台詞のやりとりは、宮藤官九郎『タイガー&ドラゴン(下)』(角川文庫)「「子は鎹」の回」からの引用。
(15)宮藤官九郎『NHK連続テレビ小説「あまちゃん」完全シナリオ集 第2部』(KADOKAWA)
(16)相羽秋夫『落語入門百科』(弘文出版)「第三章 落語の分類 1・制作時期による分類」
(17)高田文夫『面白い人のことばっかり!』(小学館)「特別描き下ろし 関東高田組 江古田支部〜立身出世篇〜04宮藤官九郎」
(18)宮藤官九郎『いまなんつった?』(文春文庫)に収録されたエッセイ「2008年9月18日号」を参照。
(19)(20)宮藤官九郎『タイガー&ドラゴン(下)』(角川文庫)「温故知新││『タイガー&ドラゴン』 西田敏行(俳優)」
(21)(25)切通理作『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社文庫)「Ⅳ 市川森一 永遠の浮遊者」
(23)宮藤官九郎『タイガー&ドラゴン(下)』(角川文庫)「「粗忽長屋」の回」
(24)その後、ヤスオはヤクザの世界に戻り、新宿流星会に入る。最終的に虎児が落語の世界に戻ることを考えると、二人が鏡像関係にあることがよくわかる。このような本体と影(シャドウ)が入れ替わるモチーフは『あまちゃん』でも展開されている。
(26)シナリオ本では、「(しみじみ)これがやりたかったんだよねえ」となっているが、ドラマ本編の映像ではどん兵衛が「これがやりたかったんでございます」と言った後、巻き舌で「タァイガー&ドォラゴォン」と言って満面の笑みを浮かべる。(おそらく西田のアドリブと思われる)シリアスと悪ふざけが混在したトーンだが、こちらの方が作品のテーマと合っていると思ったため、映像の台詞を引用した。
(27)(28)立川談志『あなたも落語家になれる││『現代落語論』其二』(三一書房)
(29)(30)宮藤官九郎『タイガー&ドラゴン』(角川文庫)「「品川心中」の回」
▼プロフィール
成馬零一(なりま・れいいち)
1976年生まれ、ライター、ドラマ評論家。テレビドラマ評論を中心に、漫画、アニメ、映画、アイドルなどについて、リアルサウンド等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生 テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)、『テレビドラマクロニクル 1990→2020』(PLANETS)がある。
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