ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。
今回から、21世紀に入ってから連載されたボクシング漫画『KATSU!』を取り上げます。過去のあだち作品でサブエピソード的に取り上げられることの多かったボクシングに、ついに真正面から取り組んだ本作。連載中に兄・あだち勉の逝去も重なった「死と隣り合わせのスポーツ」に、あだち充はどんな思いで臨んだのか?
碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春
第19回 ① 選ばれた者と選ばれなかった者を描いた『KATSU!』
歴代担当編集者からのバトンを受け取り、「少年漫画家」としてのあだち充を再生させた編集者・市原武法
「僕ら団塊ジュニア世代は、人がいっぱいいた。部活をやっても試合に勝つどころか、レギュラーにすらなれない。99.9%の人間が負けてきた。そこに現れたのが上杉達也だった。それまでのヒーローは、持てる才能や能力で、できうることすべてをやる。でも達也は、プロに行きたいからでも、甲子園優勝したいからでもなく、死んでしまった和也が果たそうとしていた夢を叶えようと思っただけで、その夢を叶えたら平然と『もういいよ』と手放せる。その才能、能力で大切なものを守ればいい。新しいヒーロー像にしびれたんです」〔参考文献1〕
1974年生まれの市原武法は中学一年生だった1986年に『タッチ』の最終回をリアルタイムで読んだ読者のひとりだった。あだち充作品の登場人物の中でも上杉達也は彼にとって特別であり、「人生における大切なことは、すべて上杉達也に教わったと言ってもいい」というほどに思い入れがある。
市原は記念受験として小学館の入社試験を受けた。志望動機は「あだち充が好きなので、会ってみたいんです」というもので、それを言い続けていたら、なぜか入社試験に受かってしまう。会社には言えなかったが「週刊少年サンデー」以外の配属なら辞めようと決めていた。1997年に小学館に入社することになった市原は「週刊少年サンデー」配属となった。
『タッチ』の二代目担当編集者だった三上信一は、『タッチ』が始まった1981年に小学館に入社し、希望する配属部署を聞かれるたびに、「『週刊少年サンデー』です! それ以外なら辞めます!」と言っていた。実際に希望通り「少年サンデー」に配属されており、市原の話と通じる部分がある。『タッチ』担当中に「ビッグコミック」へ異動となり、再び「少年サンデー」に戻ってきた三上は連載中だった『虹色とうがらし』の最後の時期を担当し、そのまま新連載となる『H2』を立ち上げる。
1970年生まれの小暮義隆が「少年サンデー」編集部に正式配属されたのは新連載『H2』が始まってすぐの夏のことだった。少年時代からあだち充作品を愛読していた木暮は編集長に「誰の担当をしたい?」と聞かれて、「あだち充!」と答えた。木暮のその願いは叶わず、すでに「少年サンデー」の宝だったあだちの担当にはすぐにはなれなかったが、『H2』のコミックスが20巻近くまで連載が進んでいた頃に三上から担当編集を引き継ぐかたちとなった。
木暮は『H2』とその次に連載した『いつも美空』も担当するが、次作ボクシング漫画『KATSU!』の連載開始前にボクシングのプロライセンスを持つ彼は異動になってしまう。このことはあだち充にとっても誤算だった。そして、連載が始まってすぐにかつて『陽あたり良好!』や『スローステップ』を担当していた都築伸一郎に変わって三上信一が「週刊少年サンデー」編集長に昇格することになった。
市原が「週刊少年サンデー」に配属されて、あだち充の担当となったのは入社してから8年後のことだった。編集者として新人漫画家育成のエースとなっていた彼にベテラン作家を任すような状況ではなかった。市原はそんな中でもずっとあだち充の連載を必ず読んでいた。
少年時代からずっとあだち作品を読み続けていた彼は『KATSU!』の連載が始まってすぐに、ある異変に気付く。どんなに遊びの回であってもあだちは登場人物の感情を追っていたのだが、それがまったくない回があったのだ。
当時のあだちは兄の勉の体調が悪かったこともあってかモチベーションがうまく上がらない状況だった。そのことを知らない市原は「こんな漫画を描く人じゃない、このままでは廃業してしまう」と心配するほどだったという。
また、小学館社内でも「あだち充少年誌限界説」が流れていた。このままではあだち充が少年誌で描き続けることができなくなってしまうと危機感を覚えた市原は、早く自分を担当につけてほしいと思うようになっていた。
そして、2004年の秋に編集長である三上に市原は急遽呼び出される。
三上は「あだち先生、まだ担当したいか?」と聞き、市原は「永久にしたいですよ」と答えた。入社してから市原がずっと夢に見ていたあだち充の担当編集者となることがその時決まった。その2週間後に三上は「週刊ヤングサンデー」に異動することになる。ほんとうにギリギリのタイミングであだち充をめぐる編集者のバトンが渡されたと言ってもいいだろう。三上はおそらく異動することがわかっており、あだち充の状況がかなり悪いこともわかっていた。だからこそ、入社してからずっとあだち充を担当したいと言い続けていた市原に最後の可能性を託したのではないだろうか。この判断は間違いなく英断であり、「少年漫画家」としてのあだち充を再生させることに繋がった。
市原は自分がどれほどあだち充作品に影響を受け、担当したかったかという思いを一回目の打ち合わせの際に伝えた。そして、三度目が勝負だと思った市原は本題に切り込んだ。
「少年漫画家として死んでほしい。もしも、先生の葬儀があったら、『青年誌で連載中のあだち充』と報じるニュースを見たくない。『少年誌で連載中の少年漫画家あだち充』と報じられてほしい。そのためには『KATSU!』を終了させ、新連載に切り替えたい。僕は、すぐにでもと思っていますが、あとどのくらい描けば終わらせられますか?」〔参考文献1〕
市原は1年という返答を予想していたが、あだちは「4話で」と答えた。編集部に帰って、そのことを三上の次の編集長に伝えると、「連載をやめるという話は聞いてない」と大喧嘩になってしまう。最終的にはあだちはそこから14話描いてコミックスの16巻を発行できる分の連載を続けて『KATSU!』は終了した。
そして、あだち充が不本意な終わり方をした『KATSU!』の次にどんな新連載をするべきか、市原は悩んでいた。何度もシミュレーションをしてから打ち合わせに行くと、あだちは思っていた通り、「次は何描きゃいいんだよ?」と聞いていた。市原はあだちがきっとそう聞いてくるだろうとシミュレーションしていた。彼は用意していた殺し文句を言った。「逆『タッチ』を描いてほしんです」と言うと、数秒の沈黙のあとであだちが「面白いな。それで行こう」と言った。そして、始まったのが『クロスゲーム』だった。
以前にも連載で紹介したあだち充のデビュー以降を第四期まで分けたものがある。下記に第三期と第四期を引用する。
第三期は『H2』(1992〜1999年)、『じんべえ』(1992〜1997年)、『冒険少年』(1998〜2005年)、『いつも美空』(2000〜2001年)、『KATSU!』(2001〜2005年)、『クロスゲーム』(2005〜2010年)。連載誌が「少年サンデー」と「ビッグコミックオリジナル」の二紙であり、『クロスゲーム』が現状では最後の「少年サンデー」で連載した野球漫画となっている。
第四期が『アイドルA』(2005〜現在まで不定期連載中)、『QあんどA』(2009〜2012年)、『MIX』(2012年〜現在まで連載中)。『アイドルA』は当初は「ヤングサンデー」連載だったが、休刊になり「ゲッサン」に連載場所を移動した。また、他の二作品も「ゲッサン」での連載作である。
市原は第三期の後期からあだち充の担当編集者となった。また、彼は創刊企画者として『月刊少年サンデー』を立ち上がるために奔走し、実際に『ゲッサン』が創刊されることになった。その『ゲッサン』では「死んだ兄貴が幽霊になって帰ってくる話」である『QあんどA』の連載を立ち上げる。そして、『QあんどA』の連載が終了したあとに打ち合わせで『クロスゲーム』が始まった時のように、次の連載であだち充に描いてほしいと思っていることを伝えようと決めていた。
あだちが「次は何描きゃいいんだよ?」と言うと、市原は「明青学園を、もう一度甲子園に連れていってください」と南っぽく言った。そして、『ゲッサン』2012年6月号から『タッチ』の舞台となった明青学園を再び舞台にした『MIX』の連載が開始され、現在も連載は続いている。
2015年の初夏、市原は編集長として「週刊少年サンデー」に戻るように異動を告げられる。編集長になった市原は「サンデーを大革命する」という所信表明を紙面で発表し、大きな注目を集めることになった。
市原が歴代のあだち充の担当編集者から受け取った「少年漫画」のバトンは、次世代の漫画家と編集者たちに引き継がれている。
ヒーローはいかに誕生したか
1年ほどの連載で終了した『いつも美空』の連載が終わった2001年5月末からわずか2ヶ月少しで始まった新連載が『KATSU!』だった。連載は同年の8月から2005年2月までの3年7ヶ月続くことになった。
木暮がボクシング漫画をやって欲しいと思っていたことは知っていたし、僕も一度ちゃんとボクシング漫画を描きたいという気持ちはずっとありました。ボクシングと野球は、少年漫画の王道ですから、過去に、読切では何度も描いてるし、長編の中でもボクシングを描いたことはあったけど、中心に捉えて書いたことはまだなかった。〔参考文献1〕結果的には、これまでのボクシング漫画の中でも、変なものができたかもしれない。望んだかたちではないけど、結果として「あだち充のボクシング漫画」になりました。
『あしたのジョー』まではいかなくとも、僕の漫画で真っ白な灰になっちゃ困るんだけど、もう少しいきたかったですね。そこまでいったら、自分でもどんな漫画になったのかわからない。それは見てみたかった気もします。
「KATSU!」の絵は今でも気に入ってます。絵の調子の良い時だったから、あの絵をもう少し描きたかったという気持ちもありますね。〔参考文献1〕
私が熱心にボクシングを見ていた時期のスター選手は鬼塚勝也と辰吉丈一郎が全盛期の時であり、いつも父親と一緒に興奮しながらテレビで見ていた。
『KATSU!』はあだち充の兄・勉が連載中に亡くなったりしたことで、生死が関わるボクシングを描くこと、そして学生ボクシングの先のプロを描こうとしていたが、それができなくなった作品だった。もちろん、そこは大事な部分なので外せないのだが、上記の引用のようにあだち充にとってボクシングは「少年漫画」の王道であり、彼が若い頃にはボクシングのタイトルマッチが多く行われていた。
ということを踏まえれば、あだちがボクシングを描いたのは彼が戦後の復興に生まれ育ったことも大きいはずだ。私の父は戦後すぐ生まれの現在74歳で、あだち充は70歳、兄のあだち勉は弟の三つ半上だから父と同学年である。
戦後生まれの団塊の世代である彼らの成長と敗戦後の日本の復興は重なり、そこに野球とボクシングとプロレスというスポーツも時代と共に発展していき、彼らにとって身近で楽しんでいた娯楽だったのは間違いがない。
野球で言えばやはり王貞治と長嶋茂雄、ボクシングではファイティング原田や輪島功一など世界王者が誕生し、プロレスでは力道山とその弟子だったジャイアント馬場とアントニオ猪木たちが活躍していたのをリアルタイムで見ているはずだ。その団塊の世代である彼らが20歳前後になると「安保闘争」や学生運動が始まる。
1970年代に革命は頓挫し、学生運動と共に「劇画」も終焉していく。「劇画」における三大ヒーローは『巨人の星』の星飛雄馬であり、『あしたのジョー』の矢吹丈であり、『タイガーマスク』の伊達直人だったが、彼らは物語において「象徴的な死」を迎えた。勝つために己の信念を曲げたり、試合に負けるが相手が死んでしまったり、子供を救うために車に轢かれたりしてしまう。
学生運動の敗北をトレースするように劇画のヒーローたちは表舞台から退場していった。そのことは『タッチ』を取り扱った際にも取り上げたが、上杉達也の双子の弟である上杉和也は星飛雄馬や矢吹丈や伊達直人の末裔だった。だからこそ、彼は最初から死ぬことを運命づけられていたと言える。
上杉和也は70年代の劇画ヒーローたちの亡霊であり、メタファだった。そして、伊達直人同様に子供を助けることで自らは死んでしまった。最初から和也を殺すことだけはあだち充は決めていたというが、無意識に上記のことがあだちの頭の中にあったのではないか。
和也と彼らのバトンを受け取ったのが80年代的ヒーロー像となる兄・上杉達也だった。ここで「劇画」から「ラブコメ」へとバトンは渡され、達也と和也の双子と共に育ったヒロインの浅倉南は和也の死によって、物語では野球部マネージャーをクビにされ、新体操に打ち込むことになった。和也が亡くなるまでの南は70年代的「劇画」における見守るヒロイン像の要素が強かったが、和也の死と彼の意志を引き継いだ達也が本格的に野球を始めることで、自らも新体操に打ち込み自らも表舞台に立つことで、成長していく主体性を持ったヒロインへと進化していった。
『タッチ』とは70年代的な「劇画」の敗れ去っていったヒーローやヒロインたちから受け取ったバトンを引き継ぎ、新しい時代を生きていくヒーローとヒロインを描いた「ラブコメ」だった。
達也は野球部に入部しようとした際に、先に南がマネージャーになってしまったために入部届を出せずにいたところを同級生の原田に強引にボクシング部に入部させられた。また、『スローステップ』では主人公の中里美夏に好意を寄せる3人の男たちはボクサーであり、美夏の父親はプロレスラーだった。あだち充作品には脇役などにちょこちょこプロレスラーや元プロレスラーのような人物も登場している。
戦後生まれのあだち充にとって「少年漫画」の王道であった野球を描くのもボクシングを描くのも違和感はなかった。それを見て育ったのだから。高校三年の夏過ぎまでの「青春の終わり」をずっと描いているあだち充からしてみれば、プロレスは部活動では描きにくいが、野球とボクシングは部活動としては描けるものであり、しっかりと描きたいテーマだった。
次はボクシングにしようというのは、自分で決めました。長編連載で何を描くのかは、いつも任せてもらっていましたから。まぁ、見切り発車は毎度のことで、気楽に始めちゃいました。
僕が若い頃は、ボクシングのタイトルマッチがすごい視聴率を稼いでいた時代だったし、ボクシング漫画の名作も数多くありました。そういう漫画もだいたい読んでますが、意識してもしょうがない。スタイルがまったく違う漫画家なんで。
「タッチ」「スローステップ」などでボクシングを扱ってきましたが、それまでは漫画の中でボクシングをおちゃらけて扱ってました。でも本来、ボクシングは死と隣り合わせだし、選手はみんな人生を賭けているというとんでもない世界です。そういうところも逃げずに描いていこうと、連載当初は思ってました。ボクシングが持ってる暗さ重い部分を、自分なりに描いてみたかった。〔参考文献1〕連載の途中でうちの兄貴が癌になって、人の生き死にだとか、親子だとか、そういうテーマを描くのがえらく辛くなっちゃった。自分でも、段々中途半端になってきたのが分かったんで、描けないんだったら描かなくていいや、と開き直って終らせたんです。〔参考文献2〕
あだち充がこれまでずっと描きたかったが描くことができなかった死と隣り合わせのスポーツであるボクシング。今回は逃げずに描こうと決めていた。その思いはかつての担当編集者だった武居や兄の勉、そして高橋留美子にも伝えるほどに彼は本気だった。しかし、あだち充の才能を一番最初に見抜き、漫画業界に引っ張り込んで、ある時点からはマネージャー兼アシスタントを務めた兄の勉の癌がわかり、彼は漫画で生と死に向き合うボクシングを描くことはできなくなっていく。
そんな時に三上の置き土産のように担当編集者となった市原がやってきたことで連載を畳むことを決めた。そのため、あだち充作品では初となっていたかもしれない「プロ編」は描かれることなく、物語は終わりを迎えることになった。そして、連載中だった2004年6月18日に兄の勉は胃癌のため死去した。