ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第16回「『横浜の地で外人に勝利する』ということは何を意味したのか──1890年代の日本野球」をお届けします。
19世紀末、「鹿鳴館外交」時代から日清戦争での勝利を経て徐々にナショナリズムの機運が高まっていた時期、外来スポーツはどのように受け止められていたのか。「野球」とナショナリズムの結びつきから、「体育会系的態度」と「興行としての野球」誕生の源泉に迫ります。
中野慧 文化系のための野球入門
第16回 「横浜の地で外人に勝利する」ということは何を意味したのか──1890年代の日本野球
2021年の東京五輪では、それまで当たり前のように受け止められてきた「スポーツ」というものの価値に大きく疑問符がつけられた。ひとつ象徴的な例として挙げられるのが、サッカー五輪代表の主将・吉田麻也の発言と、それに対する人々の反応だろう。五輪開催前の7月、東京を中心にコロナ患者の受け入れ増による医療逼迫がメディア上で盛んに報じられていた。そんな状況のなか、吉田は大会前最後の親善試合直後に「有観客での開催を再度検討してほしい」という趣旨のコメントを行った[1]。このコメントに対し、SNS上やニュースプラットフォームの一般ユーザーを中心に「アスリートのワガママだ」といった批判の声も多く上がった。
いわゆる「体育会系」に対する批判の声は、近年特に高まってきている。大きなきっかけは、2018年に起こった日本大学アメリカンフットボール部の選手による反則タックル事件だろう。日大の選手が、対戦相手の関西学院大学のキープレイヤーに対して後方から危険なタックルを行い負傷させた、というものである。「日大の指導者から選手に対して具体的な指示があったのではないか」ということが取り沙汰されたが、真相はいまだに明確になっていない[2]。
しかし、そもそも今の日本で言われるような「体育会系」という集団はどのようにして形成されてきたのだろうか。また、その体育会系に対して「批判」は行われてこなかったのか──。
こういった問題を考える上で、草創期の日本野球で起こった出来事は大きなヒントを与えてくれるように思う。そこで今回から、19世紀末から20世紀初頭の「世紀の変わり目」に、日本野球の揺籃の地となった一高で起きた3つの事件について論じてみたい。
重要な事件は下記の3つである。
①インブリー事件(1890年)
②横浜外人倶楽部戦(1896年)
③一高生・藤村操の自殺(1903年)
今回はまず、①と②について見ていきたい。
野球版生麦事件? インブリー事件からわかる一高生たちの背景
1870年代〜1880年代の日本の野球は、一高以外にもさまざまな場所で野球の同好会的な団体が発足していた。まず、後の札幌移転を念頭に現在の芝公園内に設置された開拓使仮学校(現在の北海道大学の前身)、波羅大学(現在の明治学院)、東京英和学校(現在の青山学院)、駒場農学校(現在の東京大学農学部などの前身)、立教大学などの学校をベースにした同好会が存在していた。さらには、アメリカで鉄道技術を学んだエンジニアであった平岡凞(ひらおか・ひろし)を中心に新橋鉄道局内で作られた有志団体・新橋アスレチック倶楽部、かつての徳川御三卿の一角・田安徳川家当主の徳川達孝(とくがわ・さとたか)が設立したヘラクレス倶楽部、都下の慶應義塾や東京高等商業学校(現在の一橋大学)などの野球好き学生が集まった連合チームである溜池倶楽部……といったクラブチームが次々に生まれた。
現代と大きく違うのは、どれも基本的に有志の自発的な結社だったという点だ。これは草創期のアメリカで生まれたクラブチームとも同じである。学校内部で制度化された「部活」というものはまだなく、「学校」はあくまでも、仲間が集まるきっかけとしてあった。
そのなかでも、明治学院の「白金倶楽部」はエール大学で野球をプレーした経験を持つアメリカ人教師マクネアの指導を受けて無類の強さを誇っていた。野球史のなかで「日本野球最初の覇者」として扱われがちな一高も、1890年時点までは日本野球界の頂点にいたわけではなかったのだ。
第13回で述べたように一高は、1889年に東京の向ケ岡(現在は東京大学農学部などが入る弥生キャンパスとなっている)に移転し、1890年には寄宿舎が完成した。そこでは次世代の日本を担う若者を育成するために「籠城主義」「校友会」という2つの思想・仕組みを軸にした学生文化が形成されつつあった。それまでの一高の学内スポーツではボートが人気と実力を誇っていたが、寄宿舎完成以降は野球部がしだいに人気を集めるようになった。校内ではノックが熱気を帯び、昼休みにはキャッチボールと試合がおこなわれ、それを見守る者たちが自然発生的に応援団の起源となる集団を形成していった[3]。
その明治学院・白金倶楽部と一高が、1890年5月に向ケ岡の一高グラウンドで相まみえた。しかし蓋を開けてみると6回時点で6−0と白金倶楽部が大量リード。そんな中、当時明治学院で教えていたアメリカ人宣教師ウィリアム・インブリーが教え子たちを応援しようと、試合開始から遅れて一高グラウンドにやってきた。最初は正門から入ろうとしたところ、守衛が英語を解さないため、いくら説明しても校内に入れてもらえない。そこでインブリーは、正門ではなくグラウンドそばの低い垣根をまたいでグラウンドに入っていった……。すると、一高を応援していた一高生たちがインブリーを見咎めて詰め寄り、激昂した学生のうちの一人がインブリーに重傷を負わせた[4]。これが「インブリー事件」である。
ここまで書いてきて、一体何が起こったのかが皆目、見当がつかないはずである。アメリカ人教師インブリーは、なぜ重傷を負わねばならなかったのだろうか。
まず単純に、そもそも一高チームが白金倶楽部に大差で負けており、応援していた一高生たちのあいだにフラストレーションが溜まっていた、ということがあるだろう。しかし彼らの抱えていたフラストレーションには、単純に「大差で負けていた」ということにとどまらない背景があった。
ちょうど1890年頃から一高の校是となったのが「籠城主義」だった。籠城主義は、校長の木下廣次が「汚濁に塗れた世間から青年たちを隔離する」必要性を感じたことによって生まれたものだが、その「世間の汚濁」というのは色事・賭事などに限らず、明治前半期の日本を覆った過剰な欧化主義から守る、という意味合いもあった。
1880年代の日本は、世に言う「鹿鳴館時代」であった。当時の日本の大きな課題のひとつは欧米列強との不平等条約の改正であり、当時の外務大臣であった井上馨は外交交渉を首尾よく進めるには日本人が西欧文化を受け入れている様子を外国人に伝えることが必要だと考え、西洋風の迎賓館「鹿鳴館」を、現在の千代田区内幸町付近に建設し、連日のように外国の高官や商人たちを招いて園遊会や舞踏会、夜会、バザーなどを催した。しかし庶民の生活向上をよそに宴会に明け暮れていること、過剰な欧化政策に対する批判が次第に高まるようになっていたのである。
▲鹿鳴館。Rijksmuseum, Public domain, via Wikimedia Commons(出典)
1880年代の日本では、それまでの「脱亜入欧」からしだいに、日本という国が持つ伝統的な価値を見直すナショナリズムの時代へと移行しつつあった。1890年はちょうど、前年に発布された日本初の近代憲法「大日本帝国憲法」のもとで帝国議会が初開催され、戦前の道徳の支柱となった「教育勅語」も宣下された年である。日本が近代国家としての枠組みの整備をようやく完了したタイミングでもあった。
そんな中、インブリーが正門を通るのではなく垣根を越えて入ってきたことも、一高生たちにとっては問題であった。なんといっても一高は「籠城主義」であり、校内は清浄の地、校外は汚濁の地である。したがって一高校内にもし部外者が入ろうというときには必ず「正門を通る」という儀礼を行わなければならない。そういった強烈な観念が一高生に浸透しているなかで、こともあろうに「アメリカ人」が「垣根を越えて入ってくる」というのは、彼らにとって許しがたいことであった。