今朝のメルマガは、書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」をお届けします。今回は小説家・氷室冴子が描いてきた母娘関係をめぐる考察です。「働く女」として従来の女性像を追求する「母」との対立を自らのエッセイに綴った氷室の母親観を、1984年の小説『なんて素敵にジャパネスク』での母の不在から読み解きます。
三宅香帆 母と娘の物語
第四章 氷室冴子──認められたい娘
1.弱い母──団塊の世代とその後
第一章、二章で扱った萩尾望都と山岸凉子はそれぞれ1949年生まれ、1947年生まれのほとんど同世代だった。つまりは団塊の世代である。
萩尾望都作品は、自らの弱さによって娘を支配しようとする母に対し、母をゆるそうとする方向に向かったことを第一章で確認した。第二章で扱った山岸凉子作品は、娘の性を抑圧し貞淑を求める母に対し、性を抑圧した先には他人を受け入れることのできない娘がただそこにいるだけであることを示していた。
萩尾・山岸両作品の共通点は、娘を支配や抑圧しようとする母自身が、基本的には「弱い母」であることだ。
萩尾作品においては、むしろその弱さの原因である傷を共有することによって、母娘は繋がっている。コンプレックスや罪悪感、その弱さやみじめさこそが、むしろ母娘を離れがたい関係性たらしめている。父息子ならば父は強い存在なので彼を倒して自分が強くなれば終わりなのだが、母娘は母が弱い存在でありその弱さを共有しているからこそ、娘は罪悪感から倒すという選択肢を取ることができない。ならば母から離れ、そして彼女の弱さをゆるすほかない、と萩尾作品は示す。
あるいは山岸作品は、自身の性を嫌悪し、貞淑を求められる娘たちを描く。欲望を去勢され、性を遠ざけた娘たちの、遠くない原因は母親にあった。山岸作品における母親は、母親たち自身もまた、父権制による被害者でもある。ただ娘を愛することができない弱い存在である。そして娘に、父権制が求めるとおりに、貞淑を求める。母と娘は、性の嫌悪というその一点を共有することになる。
両作品とも、母の弱さが前提となっているのである。
序章で見た通り、母娘問題は上野や信田、斎藤によって以下のような構造で説明されていた。
1 母と娘は身体を共有した分身であると感じられ、母に対して娘は自己嫌悪に陥る。
2 娘にとって母は、自分の犠牲になった存在であるからこそ、娘が自責の念を持つ。
つまり「娘が母の支配から抜け出せないのは、娘の自己嫌悪と自責感によるものだ」。これはまさに萩尾と山岸の描く、母の弱さを大前提としている。母は自分と同じくあるいは自分よりも弱い存在であり、だからこそ嫌悪したり罪悪感を覚えたりする、という構図だ。
しかしこれは、はたして時代が変わっても考慮すべき前提だろうか。母娘の問題をいつまでもこの同じ構造で説明してもいいのか、という疑問は湧いてくる。
萩尾と山岸はどちらも1969年デビュー(萩尾は「ルルとミミ」、山岸は「レフトアンドライト」)だが、デビューから10年以上経った1980年代以降になって、やっと母娘の物語を直接的に描くことになる[1]。男女雇用機会均等法が施行されたのが1986年だったことを考えると、母は父権制に従属する弱い存在であるという前提も、時代の影響を受けているだろう。
初回で取り上げた母娘批評の書き手たちのそれぞれの生まれ年は、信田さよ子は1946年、上野千鶴子は1948年、斎藤環は1961年。信田と上野はほぼ萩尾・山岸と同世代である。斎藤は第三章で扱った吉本ばなな(1964年生まれ)と同世代と言える。
もちろん信田や斎藤の問題意識は、臨床の場で母娘の問題をよく耳にすること、それが団塊ジュニアに多かったことなどを著作で挙げているので、彼女たちの問題意識は同世代と同じものだと言うのは早計だ。しかしやはりそれでも萩尾・山岸世代の後で、母娘の問題を取り上げたフィクションがいかにして変化していったか、を紐解いていくことは重要だろう。母娘問題を考える時に参照するときのフィクションの刷新が必要なのだ。
本章で取り上げる氷室冴子は1957年生まれである。次章で取り上げる松浦理英子は1958年生まれ。そして第三章で取り上げた吉本は1964年生まれだった。この氷室・松浦・吉本という、主に1980年代から活躍した三人の女性作家を紐解くことによって、時代の変化に伴う母娘問題の変化が分かるかもしれない。
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