今月から、書評家の三宅香帆さんによる新連載がスタートします。
国内のさまざまなフィクションで幾度も反復して描かれてきた「母」と「娘」の物語。しかしその膨大さとは裏腹に、これまでその物語に潜む本質を読み解こうとする行為は僅かでした。連載初回では、既存の「母娘問題」の議論をひもときつつ、これまで多くの物語で象徴的に論じられてきた「父殺し」との対比を通じて、「なぜ『母殺し』は難しいのか?」という問いを投げかけます。
三宅香帆 母と娘の物語
序章 父殺しは簡単だが母殺しは難しい?
「人間はさ 人を殺しちゃあいけないんだ 人を殺したらそいつはもう人間じゃなくなるんだ」
「あたしのお母さんはもしかして 人間じゃあなかったの?」
(萩尾望都「由良の門を」『ネオ寄生獣』所収)
1. 語りづらくて、語られない──母と娘の物語
(それは世間が、ゆるさない)(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)[1]
太宰治はそう言ったが、娘たちにとって、「世間」とは、あなたではなく、母親なのではないか。
そう思うことがある。
日本の、「女性を主人公とするフィクション」のなかで、母と娘の物語は、枚挙に暇がない。
漫画も、小説も、映画やドラマにおいても、「母と娘」はひとつの大きな、大きすぎるテーマである。とくに日本の少女漫画や小説は、あの手この手で常に母と娘の物語を語ってきたと言っていいのではないだろうか。
しかしこの現状に、あえて問題提起を行いたい──母娘のフィクションの膨大さとは裏腹に、その物語たちを読み解く言葉は、意外と少ないのではないだろうか。
たとえば少女漫画の歴史を紐解けば、萩尾望都や山岸凉子といった「花の二十四年組」が母娘をテーマとした物語を多数生み出してきた。その傾向は下の世代にも引き継がれる。今もよしながふみ、芦原妃名子、ヤマシタトモコといった多数の漫画家たちが、母娘の関係を子細に描く。さらに、よしもとばなな、村田沙耶香、川上弘美、川上未映子、島本理生、宇佐美りん等さまざまな現代の女性作家たちが、母娘のありかたを小説に落とし込もうとしている。
しかしその膨大な母娘の物語たちは、はたしてそれらの物語に適した言葉で、語られているのだろうか?
たしかに漫画や小説を批評する言葉はたくさん存在する。しかしそれらの母娘物語の膨大さ豊潤さに対して、語る言葉がどこか追いついていないのではないか、と思わざるを得ない。というかそのような疑問を拭い切れないのは、どこか母娘というテーマが、「まだ語られていない何かを隠しているのではないか」と思うほどに複雑であるからかもしれない。
小説を読むとき、本当は「そこで語られているもの」よりも、「当然語られるべきなのに、語られていないもの」こそが、その作家の固有性に繋がるものだ。それと同じで、母娘の物語は、フィクションのかたちをとってこそ、雄弁に語られてきたのではないか。
つまりフィクションのかたちでないと、私たちは母娘の物語をうまく語る言葉を持っていなかったのではないだろうか。
そう思えてならない。
だとすれば、せめてフィクションのなかの母娘たちを、「つまりそれはどういうことだったのか」、語る言葉をひとつでも多くこの世に送り出すこと──それが本連載のもっとも目指したい地点、である。
これまで無数の母娘たちに、フィクションのなかで出会ってきた。昔読んだ少女漫画雑誌の片隅で、ふと手にとった文庫本の上で。彼女たちがいったい何を葛藤し、何から抜け出そうとしていたのか、それを言葉にしたい。本連載は、主に昭和から平成、令和にかけて日本で発行された小説と少女漫画における母と娘の物語を読み解くことによって、彼女たちが語らなかった、語れなかった言葉を探しあてたいのだ。
2. 自責と自己嫌悪──斎藤環、信田のぶ子、上野千鶴子の母娘言説
ではこれまで母娘のフィクションを批評する言葉はどのようなものがあったのだろうか。斎藤環、信田のぶ子、上野千鶴子という三人の著作を用いて、その言説を読み解いてみたい。
というのも、2008年に斎藤と信田が母娘関係の問題を取りあげた著作を出版し、その年の暮れには『ユリイカ 誌と批評』で「母と娘の物語―母/娘という呪い」という特集が組まれるほど、斎藤と信田が母娘問題を語り始めた時期というのは日本ですこし母娘問題が盛り上がった時期だったのである。その後2010年には上野が『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』において二人に触発されて母娘問題を取り上げる章を加える。さらに2012年には田房永子の『母がしんどい』というエッセイ漫画が出版され、フィクションというより現実で母娘の問題に実際に苦しんでいる人々の言葉が発信されるようになった。
このような状況下で、日本の母娘問題を語るとき、しばしば用いられる言葉が「母が娘を支配する」というものである。
たとえば前述した斎藤環の著作のタイトルは、そのまま『母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』[2]である。
この本は精神科医である斎藤が、自身の臨床体験とフィクションの読解を踏まえ、母娘の関係性についての問題を綴ったものだ。本書で斎藤が導き出した結論が、「息子の父殺しは可能だが、娘の母殺しは困難である」というものである。
それゆえ母親は、この人の良い父親のようには、簡単に「殺され」てはくれません。父親とは簡単に対立関係に入ることができますが、母親とは対立できません。なぜなら、母親の存在は、女性である娘の内側に、深く浸透しているからです。それゆえ「母殺し」を試みれば、それはそのまま、娘にとっても自傷行為になってしまうのです。
もう一度繰り返しましょう。象徴的な意味において、「父殺し」は可能であるばかりか、むしろ続けることのできない過程とすら考えられます。しかしおそらく「母殺し」は不可能です。母親の肉体を現実に滅ぼすことはできても、象徴としての「母」を殺害することは、けっしてできません。おそらく、こうした母殺しの不可能性は、父殺しの可能性と表裏の関係にあるでしょう。
(p16-17『母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』)
なぜ娘の母殺しは難しいのか。その理由を、斎藤は「身体」という言葉で説明する。
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