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[特別無料公開]『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第二章 ヒーローと寓話の戦後文化簡史―宣弘社から円谷へ(後編)|福嶋亮大
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[特別無料公開]『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第二章 ヒーローと寓話の戦後文化簡史―宣弘社から円谷へ(後編)|福嶋亮大

2022-05-17 07:00
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    前編に引きつづき、5月13日の『シン・ウルトラマン』公開記念として文芸批評家の福嶋亮大さんの著書『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の第二章の後編を特別公開します。
    昭和ウルトラマンシリーズの物語構造には、戦後日本人のどんな精神性が刻まれていたのか? アメリカSFドラマや同時代文学との対比から考えます。

    ※本記事は、福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』(PLANETS 2018年)所収の同名章を特別公開したものです。 PLANETSオンラインストアでは、本書を故・上原正三さんと著者・福嶋亮大さんによる特別対談冊子付きでご購入いただけます。

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    福嶋亮大 ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景
    第二章 ヒーローと寓話の戦後文化簡史―宣弘社から円谷へ(後編)

    2 原初的なセカイ系

    『スタートレック』の神話構造

     ウルトラマンシリーズの視聴者は、その奇妙なご都合主義に誰もが一度はひっかかるだろう。そこでは全宇宙の関心が地球に集中しているかのようであり、多くの宇宙人が地球を美しい星として礼賛する。ウルトラマンもハヤタ隊員をうっかり殺してしまったという理由だけで、なぜか命懸けで地球を助けようとする。ウルトラマンを安保体制下の日本の保護者=超越者であるアメリカになぞらえる社会学的な見解も、このご都合主義から導き出されたものだ[*17]。しかも、この超人は「怪獣退治」の仕事が終わるとすぐに立ち去ってくれる......。民俗学者の折口信夫によれば、日本の神は人間界に常住せずに、定期的に「まれびと」(客人)として外からやってくるという特性をもつが、ウルトラマンにはまさにこのまれびと的な行動様式が再現されていた。
     この観点からすると、高校時代の金城哲夫が国語研究者で脚本家の上原輝男の民俗学講座に出席し、沖縄のニライカナイ信仰についての講義や、一九五二年に提唱されたばかりの柳田國男の「海上の道」の仮説(日本文化の源泉を南方に求める説)に深い感銘を受けたというエピソードは興味深い[*18]。ウルトラマンシリーズは前期のSF的・未来的な世界観から後期の怪談的・民話的な世界観へと次第に推移していくが、その萌芽はすでに若き金城の体験にあったと言えるだろう。先述したノンマルトの物語にしても、柳田の名高い「山人論」(大和王朝に敗北した原日本人が山中の漂泊者になったという説)との類似性が強く感じられる。
     宇宙人のヒーローが「まれびと」として彼方からやってくることの特殊性は、アメリカのSFドラマと比べるといっそう際立つ。ここでは『ウルトラQ』の原点となった『トワイライトゾーン』や『アウターリミッツ』、あるいは『ウルトラセブン』の初期構想段階で参照された『宇宙家族ロビンソン』よりも、むしろ一九六六年以降に放映された『スタートレック』との違いに注目したい。パイロットからテレビ業界に転じたジーン・ロッデンベリーを中心に製作された『スタートレック』は、アメリカの神話構造を宇宙空間という最後のフロンティアで再現した物語であったと考えられるだろう。
     アメリカの原型的な神話とは何か。宗教社会学者のロバート・ベラーによれば、かつてヨーロッパから新大陸アメリカに渡った初期の入植者たちは、聖書に記された「楽園」や「荒野」のイメージをシンボルとして使って、自らの状況を解釈した。ちょうどキリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後の四十日間を荒野で過ごした、それと同じように自分たちもアメリカという未知の荒野に送り込まれた使者であり、後に来るクリスチャンの「楽園」を準備する使命をもつというわけだ。この見立てが文学化されると、海洋小説の傑作であるメルヴィルの『白鯨』のように「landlessness(土地をもたないこと)の状態が神の広大無辺の真理を開く」という壮大な形而上学的ヴィジョンが展開されることになる[*19]。
     人間を厳しく突き放す空間こそが神の真理との出会いの場になる──、このアメリカの聖書的シナリオは『スタートレック』シリーズにも認められる。さまざまな出自をもつ艦長以下のクルーたちは、文字通り「土地のない」未知の「荒野」にして「大洋」である宇宙に乗り出し、常識を超える存在と出会い、知性について新たな啓示を受ける。なかでも、九〇年代後半に放映開始された『スタートレックヴォイジャー』の宇宙艦が白人の女性艦長とネイティヴ・アメリカンの子孫の副艦長のもと、地球から遥か遠くの宇宙に飛ばされたことは、新大陸アメリカへの「入植」の歴史を反復するような演出であった。『スタートレック』はアメリカの神話構造を宇宙に投影しつつ、哲学的エンターテインメントとして個性的なエピソードを生み出し続けた。

    「海岸民族」の神話

     面白いことに、ウルトラマンシリーズではこのアメリカ的な神話構造がことごとく逆転している。科特隊やウルトラ警備隊は、多種多様な種族の集う『スタートレック』的な宇宙艦ではなく、同じ制服に身を包んだサラリーマン組織に近い。人類とはまったく異質の知性との出会い(ファーストコンタクト)を描くという『スタートレック』さらには二〇世紀SFの主要なテーマも、ウルトラマンシリーズでは前景化されることはなく、『ウルトラマン』のメフィラス星人や『セブン』のギエロン星獣、ペガッサ星人等を例外として、宇宙人はおおむね邪悪な「侵略者」のカテゴリに収められる。ウルトラマンもアメリカ的な荒野の神ではなく、あくまで日本的な「まれびと」であった。
     この神話構造の違いは宇宙との関わり方にも及んでいる。象徴的なことに、『スタートレック』では人間やモノを瞬時にワープさせる「転送装置」が不可欠の装置となったのに対して、ウルトラマンは惑星間の「テレポーテーション」のためには、その寿命を縮めるほどの莫大な労力を支払わねばならない(二代目バルタン星人の登場する第一六話)。ウルトラマンシリーズは概して地球という既知の天体にこだわる反面、宇宙という未知の海洋への「転送」には及び腰であった。宇宙人はこちらから討伐するべき存在ではなく、あくまで向こうから勝手に地球にやってくる存在なのだ。
     冒険心豊かな海洋文学の伝統を思わせる『スタートレック』とは反対に、宇宙に対していわば戦後憲法的な「専守防衛」の構えをとること──、このウルトラマンシリーズの受動性は二〇世紀の日本の自己認識ともある程度符合するものである。
     例えば、一九三四年生まれの批評家・山崎正和は『ウルトラマン』や『セブン』放映と同時期の一九六七年のエッセイで、日本人を「海洋民族」ならぬ「海岸民族」だと鋭く論じている。「外へ外へとなにかを求めて駆り立てられる、いわゆる「ファウスト」的精神は、ほんらい日本人とは無縁のものであったように思われる」[*20]。確かに、日本文化はしばしば外界とのインターフェイスである「海岸」において世界を感知しようとしてきた。「名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実一つ」で始まる島崎藤村の有名な詩「椰子の実」(一九〇一年刊『落梅集』所収)にせよ、あるいは日本を外来文明の保存の場である「アジア文明の博物館」と評した岡倉天心の『東洋の理想』(一九〇三年)にせよ、外来物の流れ着く「海岸」に似た性格が日本に認められた。これらの海岸モデルは総じて、日本の受動性を前向きに評価しようとしたものである。
     逆に、山崎が言うように、四方を海に囲まれているにもかかわらず、日本には目立った海洋文学がない。戦前・戦中の大日本帝国はその慎みを破って「海洋」と「大陸」に進出し、大東亜共栄圏の理念を掲げたが、戦後の日本人は再び自らを「海岸民族」に限定した。このアジアからの撤退が『浮雲』のゆき子の身体を蝕み、富岡の心を空っぽにしたことは、すでに述べた通りである。

    意味を超えたヒーロー

     さらに、ヒーローの性格についても、ウルトラマンはアメリカのサブカルチャーのヒーローと比べて大きな違いがある。英文学者の遠藤徹によれば、スーパーマンやバットマンのようなアメコミのヒーローには、白人至上主義的な政治団体クー・クラックス・クラン(KKK)を一つの淵源とする「自警主義」が色濃く投影されている[*21]。そして、この自警主義──超法規的な武装によって自分たちの身は自分で守るという思想──は、アメリカ社会そのものの行動原理とも密接に関わるため、アメリカのヒーロー映画はときに現実の政治状況への批判にもなった。最近の事例で言えば、クリストファー・ノーラン監督のバットマン映画『ダークナイト』(二〇〇八年)やアベンジャーズを主役とした『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(二〇一六年)は、九・一一以来のアメリカの自警主義の肥大化に対する自己批評を含んでいる。
     逆に、ウルトラマンや仮面ライダーはそのような政治的な理念や主義に裏打ちされてはいない。大東亜共栄圏の亡霊を背負った『快傑ハリマオ』とは違って、『ウルトラマン』の第一話はウルトラマンとハヤタ隊員の「交通事故」から地球防衛の物語がなし崩し的に開始される。だからこそ、ウルトラマンが地球を守るという展開は、深い理由のない「ご都合主義」にも見えてくるのだ。それ以降の『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』のようなロボット・アニメも含めて、戦後サブカルチャーは主人公が超越的存在にたまたま変身できるようになり、その後に「主義」や「目的」が付随するという筋書きを好んできた。
     ヒーローを支えるイデオロギーがしばしば深みを欠いているせいで、日本の特撮やアニメでは何かに「なる」こと、つまり変身そのものが自己目的化する傾向がある。そして、その何かに「なる」変身の快楽を組織するために、戦後サブカルチャーは変身の演出に並々ならぬ力を注いできた。ヒーローの存在理由が突き詰めれば無根拠であったぶん、この快楽の設計が総じて作品の大きな魅力になったと言える。逆に、華麗に変身した後に何を「する」のか、つまり何のために変身するのかについては、日本のサブカルチャーはさほど強いモデルを提示してこなかった。例えば『エヴァンゲリオン』の内気な主人公である碇シンジは、なぜ自分がパイロットとして敵と闘わねばならないのかを自問自答するが、それはまるで、戦後日本のヒーローの闘いの無根拠さそのものに対する自己批評のようでもある。

    原初的なセカイ系

     繰り返せば、六〇年代後半の円谷のウルトラマンシリーズは、宣弘社のテレビドラマや東宝怪獣映画に見られた帝国=アジアの亡霊を払拭するとともに、宇宙に対する受動性=海岸性を際立たせた。そして、この宣弘社から円谷への移行のなかで、ヒーローは具体的な政治的根拠を失っていく......。これらの特徴とも深く関わる問題として、ウルトラマンシリーズでは「国家」や「社会」や「敵」の捉え方がしばしばあいまいであったこともここで注目しておきたい。
     前章で述べたように、前期ウルトラマンシリーズは『セブン』を典型として、明らかに日本を舞台にしているにもかかわらず、隊員たちは侵略者から「地球」を守るのだと頑なに言い続けている。その右翼的な外見にもかかわらず、ウルトラマンシリーズでは「国家」は具体的に輪郭づけられない。
    『ゴジラ』あるいは後の『シン・ゴジラ』と違って、少数の軍人を除いて政治家や官僚組織がほとんど出てこないのはウルトラマンシリーズの大きな特徴である。
     さらに、巨大な宇宙人と怪獣の闘いは明らかに社会に大きな打撃を与えるものであるにもかかわらず、社会生活への影響はろくに語られないまま、翌週には何もなかったように現状に復帰する。大人である隊員たちですら、「巨人」と「怪獣」の戦争が始まると、無力だが好奇心旺盛な子供時代に戻ったかのように、援護射撃を交えつつ「観戦」するばかりなのだ。このシリーズの作り手たちは、子供の視線からウルトラマンの戦争を描いていた。
     さらに、『快傑ハリマオ』のような宣弘社の勧善懲悪のドラマが等身大の人間としての「敵」を登場させたのに対して、円谷のウルトラマンシリーズではしばしばそのような明快な構図が崩れてしまう。ウルトラ怪獣は決して純粋な敵=悪ではなく、人間と和解することすらあった。特に、実相寺昭雄&佐々木守のコンビが亡霊怪獣シーボーズの登場する『ウルトラマン』第三五話で、歴代の怪獣たちの葬式を諧謔的にやってみせたとき、怪獣は早くも絶対的な「敵」ではなくなりつつあったと言えるだろう。逆に、続く『セブン』は「地球は狙われている」という深刻なメッセージとともに、外部の宇宙人の敵を改めて真面目に確立しようとし、『帰マン』は社会派的な見地から異常気象や公害を敵の源として設定したが、この路線もやがて変質していく。第一章で述べたように、『A』以降のポストモダン化したウルトラマンシリーズでは、敵は次第に人間の内なる「心」に接近していくのだ。
     ヒーローの政治的理念の不在、国家や社会の希薄化、そして敵=悪の心理化──、これらのウルトラマンシリーズの特徴は、ゼロ年代以降のサブカルチャー批評で頻繁に用いられてきた「セカイ系」という分類を思わせる。セカイ系とは「小さな人間関係」と「世界の終わり」を短絡させる一方、その中間の社会や国家には関心を示さないという、文化的想像力の一つのパターンを名指した用語である。九五年から翌年に放映された『新世紀エヴァンゲリオン』や新海誠の二〇〇二年の個人制作アニメ『ほしのこえ』、さらにゼロ年代に最も話題になったライトノベルの一つである谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズ等がセカイ系の具体例だとされる。
     そして、セカイ系の「脱社会性」は敵の抽象化として現れることが多い。セカイ系の作品ではしばしば戦争が背景となるが、敵の正体が何であり、主人公たちが何のために闘っているのかは概してあいまいなままである。この捉えどころのない敵は何らかの心理的な「不安」につながってはいるのだが、ゴジラやモスラのような社会的・歴史的な背景をもたない──、この寓話化された敵のイメージはセカイ系作品に独特の浮遊感を与えた。
     なかでも、『エヴァンゲリオン』のミステリアスな敵である「使徒」は『ウルトラマンレオ』の円盤生物のデザインにもいくぶん接近しつつ、東浩紀の表現を借りれば「対象なき不安」を喚起する「抽象性と物質性を兼ね備えた」敵のイメージを提示することによって[*22]、後のサブカルチャーにおける敵の表象に大きな影響を与えた。続く新海監督の『ほしのこえ』も『エヴァンゲリオン』と同じく正体不明の抽象的な敵との戦争を下地にしながら、「時間的な出会い損ね」(=男女のあいだの絶対的な時差)と「空間的な出会い損ね」(=宇宙規模の絶対的な疎隔)を重ね合わせた。その純度の高い作品世界は、まさにセカイ系の脱社会的な美学を結晶化したものである。
     セカイ系は八〇年代に徐々に表面化し、九〇年代からゼロ年代にかけてサブカルチャーを席巻し、二〇一六年の新海監督のアニメ映画『君の名は。』でメジャー化した。ただ、一度「セカイ系」という分類ができてしまえば、過去に遡行してその範囲を広げることも無理ではない。特に、実写のウルトラマンシリーズにすらセカイ系の特徴が部分的に見られることからは、セカイ系がたんに近年の日本の文化的症例であるだけではなく、六〇年代後半にすでに潜在していた戦後日本の現実認識の問題でもあることがうかがえる。

    子供の眼から見た戦争

     議論を明確化するために、セカイ系の発生を世代論的に考えてみよう。ここで注目に値するのは、前期ウルトラマンシリーズの中心的な作り手がいわゆる「少国民世代」から「焼け跡派」までを含む一九三〇年代生まれであったこと、そしてこの世代が戦争との出会い損ねという一筋縄ではいかない問題を抱え込んでいたことである。
     例えば、一九三二年生まれの大島渚は、一九三五年生まれの大江健三郎がノーベル文学賞を受賞したその翌九五年、ニューヨークでの講演で日本の戦後史の本質に関わることを述べていた。以下は大江原作・大島監督の映画『飼育』(一九六一年)を踏まえた日本映画批判であり自己批判でもあるが、同時にウルトラマンシリーズへの批評として読むことも十分可能なので、あえて長めに引用する。

     私は「飼育」にあたる子どもたちの眼で「敵」の兵士を見ていたと思います。実際私はこの子どもたちと同世代、戦争中の子どもです。
     その子どもたちには当然「敵」の兵士は人間には見えません。ただただ恐ろしい不可解な生物なのです。だからこそ「飼育」なのです。そして登場人物としての子どもたちにとってはそれ以外にはありえなかったと思います。
     しかし戦争中には子どもであったとはいえ、この映画をつくっている時の私はそれ以後十数年経って年齢も三十歳近くになっています。にもかかわらず私が「敵」の兵士を見る眼が依然として映画の中の子どもが「敵」の兵士を見ている眼と同じであるとすればそれは一体何でしょうか。
     私は戦争中に子どもであった時から、映画監督になり三十歳になったその時まで、「敵」を見る眼という点では何ら変わって来なかったということなのでしょうか。
     そうなのです。私は言葉を尽くして日本の「戦争映画」は戦前、戦中、戦後を通して「敵」を描いて来なかったと非難してきました。残念ながら私は自分の作品である『飼育』さえもこの長い日本映画の停滞の中に投げこんでしまわねばなりません。〔...〕私は『飼育』をつくった時「敵」を描かなかったのではなく描けなかったのです。日本映画は長い間「敵」を描かなかったのではなく、描けなかったのです。
     力不足ということです。私は戦争中子どもであり、戦争が終わって十数年が経ち三十歳になってもまだ子どもの時の眼しか持っていなかったということです。それは「敵」が見えていなかったということです。「敵」を描くためにはまず「敵」が見えていなければなりません。その意味で日本人は長い長い間「敵」が見える場所にいなかったのです。[*23]

     大島の苛立ちは、自らの世代ひいては戦後の日本人が「敵」を具体的な人間として認識できず、いつまでも子供の眼に囚われていることに向けられた。この発言がちょうど『エヴァンゲリオン』の放映と同時期になされたことは、きわめて興味深い。大島はまさに怪獣や使徒のような非人間的な敵のイメージにこそ、批判の矛先を向けていたのだから。
     戦時下の開拓村を舞台とした大江健三郎の一九五八年の原作『飼育』は、外界から閉ざされた密室的空間のなかで、主人公を含む子供たちが、村の捕虜になった黒人兵を「たぐいまれなすばらしい家畜、天才的な動物」と見なして飼育するさまを描いた。この奇妙な状況に生きる「僕ら」は、戦争に対して差し迫ったリアリティを感じることができない。大江はそれに鮮明な表現を与えている。

    戦争は、僕らにとって、村の若者たちの不在、時どき郵便配達夫が届けて来る戦死の通知ということにすぎなかった。戦争は硬い表皮と厚い果肉に浸透しなかった。最近になって村の上空を通過し始めた《敵》の飛行機も、僕らには珍しい鳥の一種にすぎないのだった。[*24]

     山間の子供にとって、戦争は他人事であり、敵の黒人兵も敵機も珍しい動物、つまりは怪、獣、でしかない──、これはまさに大島の言う「敵が見えていない」という状況そのものである。敵は顔をもった「人間」ではなく「ただただ恐ろしい不可解な生物」にすぎない。大島はこの子供たちの密室から逃れるようにして、映画版『飼育』では、主演の三國連太郎を中心とする大人たちの社会的な対立に焦点を当てたが、それは必然的に原作のもつ瑞々しさを犠牲にする結果にもなった。
     大江は一九五九年のエッセイ「戦後世代のイメージ」でも、自らの立場を世代論的に語っていた。

     ぼくらの兄たち、かれら戦争のなかで暗い青春をすごしたものたち、戦火にたおれていったものたちは、やはり日本人としてかけがえのない体験をした若者たちであった。
     そして、ぼくらの世代の若者たち、兵士の弟たち、特攻隊員の弟たちもまた、かけがえのない時代を生きてきた。ぼくらは銃のまえに立たされてもいないし、自爆のために飛行機にのりこむこともしなかったが、ぼくらは《戦後》を戦ってきたというべきなのである。ぼくらの世代のものたちは《戦後》にのみ、生きたといってもいい。したがって、ぼくらが日本を考え、日本人を考えるとき、それは戦後の日本であり、戦後の日本についてである。[*25]

     戦時下においては、ちょっとした年齢の違いが運命を決定的に分かつ──、当時二十代の大江は「弟」の世代としてそのことに強くこだわっていた。『万延元年のフットボール』も含めて、大江の小説では兄弟あるいは「男の二人組」という関係がずっと繰り返されてきたが、この二人組の原点には、敵を「不可解な生物」としか見られない「弟」(戦後世代)と生身の敵と出会った「兄」(戦中世代)の差異がある。
     そして、この「弟」の問題はまさにウルトラマンシリーズの作り手の問題でもあった。例えば、大江の二歳年下の実相寺昭雄は、円谷のスタッフたちが子供好きで、誰もが「少年の心を持ち合わせていた」ことを述懐しつつ「あの番組は、子供たちが大人向けにつくった作品なんじゃないかな」と記している[*26]。繰り返せば、ウルトラマンシリーズの隊員たちは、巨人と怪獣の戦争をまるで子供のような態度で観戦するが、ここに大江の『飼育』との共振を見るのは難しくないだろう。ウルトラマンシリーズは戦争に大人として直面することがないまま、敵を非人間的な怪獣に置き換えざるを得なかった「弟」たちの世代の作品なのだ。

    大江健三郎のウルトラマン批判

     ところで、大江にとって、世代の違いは社会性の濃淡と直結していた。例えば、彼は一九二五年生まれの三島由紀夫についてこう述べる。「三島由紀夫氏は当時、もう見上げるような大家で、私より十歳年上にすぎないのに、二十五歳も三十歳も上の感じがした。そして、自分がやる文学的行為、社会的行為がどのように受け止められるかについての確信が、三島氏にはあった」[*27]。いわば「兄」である三島が社会との関わり方を熟知した経験豊富な大人の作家であったのに対して、いわば「弟」である「遅れてきた青年」大江は、社会への順路をつかみ損ねた、辺鄙な片田舎出身の子供の作家であった。金城哲夫らも含めてこの「弟」の世代が、新興メディアのテレビと特撮怪獣ドラマに活路を見出したのは、決して偶然ではない。
     自らの社会性の希薄さを埋めるように、大江は過去の詩や小説からの引用を多用し、四国の森の神話を再話し、敗者の霊を呼び出したが、その際に『飼育』における動物のイメージだけではなく、「怪物」や「巨人」のイメージが導入されたのは興味深い。例えば、一九六四年の『空の怪物アグイー』では亡くなった幼児の霊が「アグイー」という怪物として想像され、一九七九年の『同時代ゲーム』では「壊す人」という謎めいた存在が「巨人化」したり縮んだりしながら死を反復する。これらは世界の縮尺を変える試みであり、特撮の想像力とも決して別物ではない。
     そう考えると、金城哲夫ら作り手たちに大きなショックを与えたという大江の厳しいウルトラマン批判も、どこか「弟」たちの同族嫌悪のようにも見えてくる。大江は一九七三年のエッセイ「破壊者ウルトラマン」で、怪獣映画が核兵器について「科学的・実証的な認識に立たぬ」こと、及び「被爆ということについて、いいかげんにタカをくくった妄想をくりひろげ」ていることを「根本的に差別的」だと糾弾しつつ、こう述べていた。

    怪獣映画は一九七〇年代のわれわれ自身にとっていかなるメッセージをあらわしているだろう? 深くわれわれの内部にひそんだ無意識の暗号を、あるいはわれわれ個人を超えたこの社会全体の圧力の情報を? アリブンタは、ドラゴリーは、カメレキングは、ガランは、泡怪人カニバブラーは、鳥人ギルガラス、そしてすでに古典となっているゴジラ、ラドン、アンギラスは......

    東京タワーが幾たび破壊され、東京港の巨大なビルディングが叩き倒され、江東区の民家が踏みにじられても、幼児たちは無感動だった。やがてウルトラマンが怪獣をねじ伏せ、そいつを緑色のドロドロのかたまりにかえてしまうのだから。〔...〕すくなくとも僕は破壊された都市の整理、再建の光景すらを、かずかずの怪獣映画のフィルムにおいて見たことがない。[*28]

     大江の批判は一見して野暮に見えるが、日本の戦後サブカルチャーが、被爆国の作品であるにもかかわらず放射能を万能の魔術のように描き、不正確な知識をばらまいてきたことは否定できない。さらに、ウルトラマンシリーズには破壊ばかりで再建がないという指摘も、その脱社会性を鋭く突いたものだろう。
     とはいえ、繰り返せば、この大人の社会性の希薄さは大江自身の問題でもある。『同時代ゲーム』でも「壊す人」や「巫女」のイメージが突出する一方、社会の「整理」や「再建」は描かれないのだから。そもそも、『ウルトラマンA』の怪獣と『仮面ライダー』の怪人に具体的に言及したこのエッセイは、大江が子供向けのテレビ番組に相応の関心をもっていたことをうかがわせる。彼はここで図らずも文学とサブカルチャーの「想像力」を橋渡ししたのではないか。

    オフビート感覚とアイデンティティの不在

     改めてまとめれば、セカイ系の原点は、戦争を「弟」として経験した一九三〇年代生まれの少国民世代にあるというのが私の考えである。彼らは大人の戦争に関与できないまま、ただそれを傍観するしかなく、したがって戦争のイメージも巨人と怪獣の闘いに置き換えざるを得なかった世代、もっと単純に言えば「子供の眼」を引きずっていた世代である。金城哲夫や大江健三郎はこの子供の眼によって独自の寓話的世界を作り出し、逆に大島渚はいつまでも子供の眼から抜け出せない自分と日本人に苛立っていたのだ。
     むろん、大島の言う「敵の見えない場所」が一概に悪いわけではない。例えば、『ウルトラQ』や『怪奇大作戦』等の円谷プロの作品を高く評価する一九五九年生まれの社会学者・宮台真司は、実相寺昭雄&佐々木守の手掛けた『ウルトラマン』のガヴァドン(ただ寝ているだけの怠惰な怪獣)の回を例に出しながら、ウルトラマンシリーズの特性が「善悪二元論から距離をとって共存可能性を志向する「オフビート感覚」にあるという絶妙な言い方でまとめている[*29]。硬直した二元論をゆるめて、すべてを戯れのなかに置く円谷的な「オフビート感覚」は、一方的な正義感が横行しがちな今日の息苦しい世界において、確かに批評性をもつだろう。
     しかし、大島の観点から言えば、この「オフビート感覚」は何が敵なのか分からないという混濁した現実を生み出す。そして、敵を具体的な「人間」として見定められないとき、その敵のイメージはまさに「怪獣」のようにどこまでも際限なく膨れ上がってしまうだろう。現に、社会的なコミュニケーションを希薄にしたセカイ系的感受性は、ひとたび危機が起こると容易にヒステリックな排外主義やレイシズム、無根拠な中傷へと変化しかねない。大衆の不安や屈辱感が「社会」によって安定化されないとき、彼らの敵意はそのつど場当たり的な敵に向けられることになるからだ。
     このような戦後日本のあいまいさを克服するために、大島は日の丸や春歌のような「日本的」なシンボルや儀式を強引に自らの監督作品に導入し、小松川事件を踏まえた一九六八年の『絞死刑』(佐々木守が脚本で参加)では在日朝鮮人の立場も擬態しながら、日本のアイデンティティの輪郭を象ろうとした。一九七一年の大作『儀式』はその集大成である。大島は「敵の見えない場所」にいる戦後の自分自身に悩みながら、ひどく錯綜した道をたどりながら何とか「日本」へと抜け出そうとしていた[*30]。そこでは、左翼か右翼かというイデオロギーの選択以前に、その選択の主体(アイデンティティ)そのものの希薄さが問題であったわけだ。今では大島の映画を一昔前の観念的な映画として敬遠する向きもあるが、むしろ大人のアイデンティティの不在に苛立ち、必死に「日本」というシンボルを(いわば右翼的に)「儀式」として確立しようとしながら、なおかつそれを(いわば左翼的に)批判しようとした、このドン・キホーテ的な苦闘こそが大島の映画の本質だと私には思えてならない。

    不純なセカイ系

     ともあれ、大島渚が「敵」を不可視化した戦後日本に苛立つ傍らで、九〇年代以降セカイ系の想像力はむしろオタク系のアニメを中心にさまざまなジャンルに拡散していった。ただ、ここで強調しておきたいのは、特撮はアニメほど人工性の純度が高くないということ、合成映像を「自然」に見せるための技術が不可欠であったことである。アメリカではウィリス・オブライエンやレイ・ハリーハウゼン、ジョージ・パル、日本では円谷英二がパイオニアとなり、特撮にリアリティを与えるためのさまざまな創意工夫が積み重ねられてきた。ウルトラマンシリーズはまさにこの「技術の歴史」の生み出した果実である。
     特に、日本の特撮は物の大きさを偽る技術を発達させた。『ゴジラ』やウルトラマンシリーズを支えたのも、小さな人間と大きなヒーローや怪獣を同一画面上で並べるトリック映像の面白さであった。その面白さを実現するには、三次元の素材を二次元の平面に「自然」に見えるように変換しなければならない。成田亨は次のように記している。

    特撮映画のリアリズムは自然の再構築です。〔...〕空間感覚と平面感覚の両方の感覚を行ったり来たりしながら作らなければなりません。スクリーンという平面に映ったものがリアルでなければならないのです。[*31]

     この三次元のイメージの平面的再構築に加えて、日本の特撮のリアリティは現実の素材と虚構の素材をうまく隣接させることによって得られる。もちろん、ウルトラマンと怪獣の闘いはセットで行われるが、怪獣があたかも本物の風景のなかに現れたかのように見せる合成技術も随所に見られる。例えば、『ウルトラマン』第四話(監督は野長瀬三摩地)で海底原人ラゴンが葉山マリーナのホテルの隣に合成されるシーンは出色である。
     繰り返せば、ウルトラマンシリーズは総じて「子供の眼」が優勢であり、大人の社会の細部を深く掘り下げることはなく、政治家や官僚もほとんど出てこないが、実写の特撮作品である以上、現実の風景を手放すこともできなかった。正確に言えば、ウルトラマンシリーズには社会がまったくないわけではなく、あくまで大人の社会性や国家が希薄なだけであり、したがって現実の子供たちの住む風景そのものは常に何らかの仕方で怪獣の隣に映り込んでいたのだ。その意味で、純度の高いアニメのセカイ系とは違って、ウルトラマンシリーズはいわば不純なセカイ系と呼べるのではないか。
     私はここまで、もっぱら物語内容に即して、ウルトラマンシリーズとその前後の作品に分析を施してきた。続く二つの章ではむしろ特撮という「技術」の問題と絡めながら「ウルトラマンの風景」がいかに生み出されたのかを考えてみたい。そのためには、ウルトラマンシリーズを支える特撮のリアリズムについて文化史的な検証が必要になるだろう。本書はそろそろ、この技術の起源である円谷英二に遡行しなければならない。

    (続く)

    *17 例えば、大澤真幸『戦後の思想空間』(ちくま新書、一九九八年)第一章参照。

    *18 山田輝子『ウルトラマン昇天』(朝日新聞社、一九九二年)二九頁。上原輝男は円谷英二からの依頼で、加藤道夫の戯曲『なよたけ』をもとに『竹取物語』のシナリオも作っていた(五二頁)。成瀬巳喜男監督・円谷特技監督を予定していた映画『竹取物語』は、しかし残念なことに日の目を見なかった。

    *19 ロバート・N・ベラー『破られた契約』(松本滋他訳、未来社、一九八三年)三八、四一、二八七頁。

    *20 山崎正和『このアメリカ』(河出文庫、一九八四年)一九三頁。

    *21 遠藤徹『スーパーマンの誕生』(新評論、二〇一七年)四九頁。

    *22 東浩紀『郵便的不安たちβ』(河出文庫、二〇一一年)二三二頁。

    *23 大島渚『戦後年映画100年』(風媒社、一九九五年)六三–四頁。

    *24 大江健三郎『大江健三郎自選短篇』(岩波文庫、二〇一四年)一〇七頁。

    *25 大江健三郎『厳粛な綱渡り』(講談社文芸文庫、一九九一年)五四頁。

    *26 実相寺昭雄『怪獣な日々』(ちくま文庫、二〇〇一年)二七頁。

    *27 大江健三郎『大江健三郎作家自身を語る』(新潮文庫、二〇一三年)六六頁。

    *28 大江健三郎「破壊者ウルトラマン」『状況へ』(岩波書店、一九七四年)六八、六九、七九頁。

    *29 宮台真司「かわいい」の本質」東浩紀編『日本的想像力の未来』(NHK出版、二〇一〇年)九〇頁。ちなみに、この回には本来、ガヴァドンショックで買いだめに狂奔する大人たちが撮られていたらしい。実相寺昭雄『ウルトラマン誕生』(ちくま文庫、二〇〇六年)七三頁。この大人社会への風刺が尺の都合でカットされたことも象徴的である。

    *30 大島渚も七〇年代以降は、返還直後の沖縄を舞台にした観光絵葉書のようなメルヘン的映画『夏の妹』──そこでは「観光客」である若者の屈託のなさに対して、大島世代の大人たちのあけすけな猥談が空虚な夢のように演出される──を経て、阿部定事件をモデルとする『愛のコリーダ』では「官能の帝国」としての日本に傾斜し、ついには新撰組のホモエロティシズムとその崩壊を描いた一九九九年の遺作『御法度』に到る。『夏の妹』で自らの世代の「性」を巧みに戯画化したにもかかわらず、それ以降の「世界的巨匠」となった大島の映画では、「政治」も「日本」も誇張された「性」に覆われていく。ポストモダン期の大島は、弱体化した政治的主体をスキャンダラスな性によって粉飾するというパターンに傾いた。

    *31 成田亨『成田亨の特撮美術』(羽鳥書店、二〇一五年)一八、二〇頁。

    プロフィール
    福嶋亮大(ふくしま・りょうた)
    1981年生。文芸からサブカルチャーまで、東アジアの近世からポストモダンを横断する多角的な批評を試みている。著書に『復興文化論』(サントリー学芸賞受賞作)『厄介な遺産』(やまなし文学賞受賞作)『辺境の 思想』(共著)『神話が考える』『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』『百年の批評』 がある。


    ※毎月話題作を取り上げて徹底的に語り合う「PLANETS批評座談会」では、5/18(水)に『シン・ウルトラマン』を取り上げます。
    企画・脚本 庵野秀明さん、監督 樋口真嗣さんのタッグで制作されている本作について、公開直後に感想戦を行います。
    庵野さんの作り出す世界で、日本の特撮作品史はどう更新されるのか。現代におけるウルトラマンというヒーローの存在意義とは。ネタバレ全開で語ります!
    ご視聴はこちらから

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