ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第24回「日本は武の国なり、古来武を以て国を建つ!? 押川春浪・天狗倶楽部の(実は健康的な)身体思想」(前編)をお届けします。
精神主義一辺倒だった近代日本野球に対して痛烈な批判を浴びせた橋戸信の『最近野球術』。現代のスタンダードにもなっているコンディショニングや練習法が記された本書が伝えたかったこととは何なのでしょうか。
中野慧 文化系のための野球入門
第24回 日本は武の国なり、古来武を以て国を建つ!? 押川春浪・天狗倶楽部の(実は健康的な)身体思想」(前編)
「科学」を標榜する野球技術書
1905年のアメリカ遠征から帰国した早稲田の主将・橋戸信は、野球技術書『最近野球術』を執筆し、アメリカの野球技術を広く世に伝えた。この本には、「科学」という言葉が頻出する。橋戸が意図したのは、それまでの日本野球界のメインカルチャーだった一高式武士道野球、つまり精神力ですべてを突破しようとする文化に風穴を空けることであった。
一高野球部は、本来彼らが持っているはずの頭脳を活用せず、過剰に精神主義的であることをアイデンティティとしていた。その背景には、当時の日本でメインカルチャーとして君臨していた武道のプレッシャーに対抗するため、あえて猛練習を演じて「頑張っている感」を演出し、野球文化を守るという側面もあった。またそれは、一高生たちが受験勉強の際に行った「猛勉強」のエートスを応用したものでもあっただろう。そこでは「野球を楽しむ」という感情は、外側に向かって表現されるのではなく、あくまでも個々人の内面へと封じ込められていた。
その一高式野球を打破するために持ち出されたのが、「科学」という概念だった。たとえば橋戸の『最近野球術』では、「ピッチャーは肩を大事にしよう」「休みはきちんととろう」「練習や試合をする前にはウォーミングアップをしよう」というような、コンディショニングの重要性が説かれている。ユニフォームの下にアンダーシャツを着用する方法もこのときもたらされたものだ。暑い日に沢山汗をかいたときにアンダーシャツを着替えることは、今では野球文化のなかで当たり前のこととなっている。練習法に関しても、闇雲に猛練習をすることが否定され、「アメリカの選手の練習時間は1時間半〜2時間程度で、効率よくやっている」ということが強調されている。
現代では野球における科学というと、スポーツ医学の成果を活用した科学的トレーニング、ウェアラブルデバイスやトラックマンなどを活用した動作解析、ビッグデータを用いたプレイ分析(=セイバーメトリクス)がイメージされるが、120年前には当然そのようなテクノロジーが存在しない。当時の「科学」というのは、要するに「論理的思考」のことであった。一高式の「肩が痛いのであれば精神力で突破せよ」という精神主義を排して、「肩が痛くなるのは投げすぎだと考えられるから、あまり投げすぎないようにしよう」と論理的に考え実行するという、現代の一般市民の感覚からすれば何でもないようなことが、当時の日本野球界にとってはイノベーションだった。
もっとも、つい最近まで日本の高校野球にはピッチャーの球数制限ルールが存在しなかったので、「精神力ですべてを突破しよう」という一高イズムの生命力は非常に力強かったとも言える。早稲田のアメリカ遠征と橋戸信の『最近野球術』は、日本の野球界(といっても今のように大きいものではなく、非常に小さなコミュニティだったが)を支配していた、そうした一高式武士道野球論に最初に楔を打ち込む試みだった。
『最近野球術』には日本児童文学のオリジネイターである巖谷小波、そして冒険・SF小説の祖である押川春浪が序文を寄せており、当時の一大出版社であった博文館から出版されている。巖谷小波は、1900年の春浪のデビュー作『海底軍艦』を博文館に紹介した人物でもある。また博文館は、1904年に始まる日露戦争で写真付きの戦争報道に新しいメディアの可能性を見出して雑誌「日露戦争写真画報」を創刊し、春浪は巖谷の推薦で編集者として博文館に就職、のちに「写真画報」と改題した同誌の主筆となった。『最近野球術』が博文館から刊行され、巌谷と春浪が序文を書いているのは、そうした縁もあったのであろう。
そして春浪が『最近野球述』のために書き下ろした序文「最近野球術に序す」からは、後の天狗倶楽部の活動に通じる、現代から見ると不思議な──だが、それゆえに可能性に満ちた──身体観・文明観を見て取ることができる。
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