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ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門‌』の‌第‌24回「日本は武の国なり、古来武を以て国を建つ!? 押川春浪・天狗倶楽部の(実は健康的な)身体思想」(後編)をお届けします。
阿部磯雄や押川春浪ら、比較的外来文化にも寛容だった明治期の野球人たちが体育教育に見出していた重要性を、スペンサーの社会ダーウィニズムと三育思想を手がかりに分析します。
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中野慧 文化系のための野球入門
第24回 日本は武の国なり、古来武を以て国を建つ!? 押川春浪・天狗倶楽部の(実は健康的な)身体思想」(後編)

理想のヒーローはジェイソン・ステイサム!?

 春浪はテクノロジーの進歩とは裏腹に進行する「健康」の退歩を批判した上で、以下のように続ける。

 世人かくもすれば、強壮頑健、石上に寝ね猛虎を撲殺すがごとき体力を、野蛮人の特色のごとく云うなれど、青白き顔色と疲労しやすき身体とは、文明人の特有物として誇るに足るか。肺病と脳病と蚊のごとき脛と火箸のごとき細首とは、第二十世紀の産物として欠くべからざるものなるか。余輩は三間(引用者注:約5.4m)の小河にも鉄橋のかかる今日を誠に目出たく思えど、それよりは人類一同しかる物質の発達すると同じく、その肉体も驚くべき自然力の発達を遂げ、三間ぐらいの小河は平気で飛越し得る程の体力となる方が、一層便利にはあらざるか。十里(引用者注:約40km)の道を一時間にして達しうる汽車の発明は、文明の産物として余輩の大いに歓迎するところなれど、人類も汽車と同じほどの速力を持って十里の道を走り得るごとき体力とならば、その方がさらに愉快にはあらざるべきか。我らの祖先には日に百里を走り、月に千里を歩み、獅子を蹴殺し鰐魚を引き裂くごとき勇者もありけるが、片輪の文明の進歩するに従い、我らの体力は次第次第に柔弱となり、これよりますます柔弱を加えんとす。もしこの傾向にして底止するところなくんば、今より幾百年後余輩の子孫は何人も空中飛行艇に乗じ、自由自在に天外を飛行して、あるは天女を唸らす新体詩を朗吟し、あるは無より有を生ずるがごとき魔術然たる事を成すなど、いわゆる物質的文明の発達の極致を見するやもしれずといえども、恐らく万人皆その身体は幽霊の如くなり、一事語るにもまず肺病の血を吐いて、この美しき世界を汚すに至らん、かくのごときに至っても世人はなお片輪の文明を謳歌しうるか。

 第17回で、一高生・魚住影男が、個人主義を説いて野球部を始めとした体育会系の野蛮を批判する議論が生まれたことに触れた。魚住論文が発表されたのが1905年の10月末で、『最近野球術』の出版が11月であることを併せて考えると、春浪の「強壮頑健、石上に寝ね猛虎を撲殺すがごとき体力を、野蛮人の特色のごとく云う」という記述は、魚住をはじめとした個人主義論・体育会系批判論の台頭を意識したものであると考えられる。
 そしてこの文章からは、春浪の身体観・ヒーロー観が見えてくるのも面白い。「我らの祖先には日に百里を走り、月に千里を歩み、獅子を蹴殺し鰐魚を引き裂くごとき勇者もありける」とあるが、これはのちのターザンやコナン・ザ・グレートのようなヒーローを彷彿とさせる描写だ。春浪はおそらく、現代のハリウッド映画でいえばアーノルド・シュワルツェネッガーやシルヴェスター・スタローン、ヴィン・ディーゼルやジェイソン・ステイサムのようなヒーローを理想としていたのだろう。というのも春浪の「海底軍艦」シリーズでは、段原剣東次という剣客ヒーローが世界を舞台に見せる大立ち回りが見どころとなっていたりもするからだ。
 ただし、春浪自身は運動は好むものの、ジェイソン・ステイサムのような身体ではなく、華奢で青白い文学青年然とした佇まいで、野球もそれほど上手くないのにピッチャーやショートなどの花形ポジションをやりたがる男であったという。運動能力はさておき、「元気」や「気合い」に関しては、突出していたらしい。

 そして春浪は、藤村操の華厳の滝への投身自殺事件以降、若者たちのあいだで沸き起こった「煩悶ブーム」、哲学・文学ブームに対して強烈な違和感を抱えていたらしいことが、以下の記述から伺える。

 夫(そ)れ人類は研究と錬磨とによって、その智力の驚くべき発達を成し得るごとく、その体力もまたある理法に従って鍛錬を成せば、真に驚くべき発達を成し得る者なり。しかるに物質的文明にのみ酔える人々は、智力の宿る肉体、自然力の発達を度外視す、愚昧と言わんか滑稽と言わんか、余輩その真意を解する能(あた)わず。かの「健全なる精神は健全なる身体に宿る」との格言は、世人のすでに耳に胝(たこ)の出るほど聞きしところならんも、この格言を守りて健全なる身体を養わんとする者まれなるは何故なるか。智力もあまり発達しすぎてかえって愚となりしにはあらざるか。たとえ多少の智力を有すとも、頑健なる体力を有せざるもの、いずくんぞ天下の大事に当るを得ん。今日の世界は表面才人の舞台と見ゆれども、その実は猛者の舞台なり。今より後はますます奮闘乱戦の舞台とならん。強き者はすなわち勝ち、弱き者はすなわち敗る。智力もとより欠くべからずといえども、蛮勇なくんば不可なり、胆力なくんば不可なり、エネルギーなくんば不可なり、しかして蛮勇、胆力、エネルギーは、多くの場合において頑健なる体力の産物なり。体弱く気従って弱く、恋歌を唸って滝壺に身を投ずるが如き輩、何をか成し得ん。

 「恋歌を唸って滝壺に身を投ずるが如き輩」は、明らかに藤村操のことである。だが春浪が文学ぎらいかというとそういうわけでもないようで、そもそも自身が(SF・冒険小説というエンタメ寄りとはいえ)小説を執筆しており、『海底軍艦』の直接の続編『武侠の日本』のはしがき(文武堂版)では、恋愛小説への共感を表明していたりもする。
 おそらく春浪のなかで、哲学・文学と体育は対立するものではなかったのだろう。藤村の死に深い共感を示し体育への傾倒を痛烈に批判する魚住らの個人主義論・体育会系批判論は、春浪自身が対立するものと考えていなかった文学とスポーツを引き裂く試みに感じられ、それゆえ強い反発を覚えたのではないだろうか。


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