本日のお届けするのは、ファッション研究者・藤嶋陽子さんの特別寄稿(後編)です。
否応なく他者の視線に晒される衣服を、人はどのように選んでしまっているのか、現代の情報環境を踏まえながら思索します。
(初出:『モノノメ #2』(PLANETS、2022))
前編はこちら!
※2022年の配信は本日が最終日です。来年もPLANETSをよろしくお願いします!
凡庸な服は、いかに捉え得るか?──私的な身体技法をめぐる試論的考察|藤嶋陽子(後編)
服に、願いを。
自分の衣服に関する情報を積極的に発信するインフルエンサーたちに対して、これまで述べてきたような情報に触れながら服を選び、服を纏う私たちの実践は、どのように考えることができるのだろうか。
SNSにおいては自分と似た体型や属性のユーザーの投稿画像を眺めて服の情報を得るわけだが、今日ではECサイトでも同様の体験がもたらされている。モノとしての商品そのものよりも、その衣服を纏ったときのイメージを強調するような写真を中心に置くファッションECサイトが特に韓国系通販サイトなどを中心にして増えており、まるでSNS上の投稿のような写真が商品紹介として掲載されている。*6 服に合う雰囲気のカフェや家で、まるで友達や自ら撮影したかのようなものだ。これらを見ながら服選びをするということは、その服を纏ったときに自分はどのような姿になるかという想像を搔き立てることにもなるだろう。SNSにおいても、ECサイトにおいても、他人が「みられている」姿を通じて、自分が「みられる」ことを想像しながら服を選んでいるわけだ。
それでも、誰もがインフルエンサーになりたいわけではない。「みられる」ことを強く意識する環境下にあるからといって、「みせる」という自己提示の実践と直結しているのかというと、そうではないだろう。SNSという舞台が用意されたことでみせる自分/みせない自分の線引き、投稿するもの/しないものの線引きがそれぞれにある。他者からは「みせている」のと変わらないようであっても、自分のなかでは「みせている」積極的な意図がない場合もあるだろう。「みられる」対象である一方で、必ずしも「みせる」対象ではない。このことが、今日の私たちにとっての衣服というものを考えるうえで示唆を与えてくれるように思う。そもそも、どんな衣服を手にするか、纏うかという選択は私的な行為でもある。同じような服ばかり買っているように見えても、それでも欲しくなる。他人からみて大して変わらないものであるかもしれない、わかりやすい違いなどないのかもしれない、それでも新しい服を手にしてしまう、それは服というものに自らの期待が託されているからではないだろうか。
私たちは生活のなかで、短時間しか裸にはならない。だからこそ、衣服を纏った身体こそが自分そのものとなり、見た目も中身も、衣服は望む自分自身を「装う」ことを通じて手助けしてくれるものでもある。私自身の思春期を振り返ると、何かに特化した才能もない自分の凡庸さが怖くなり、「変わった人」だと思われたくてロリータからパンクスといった周囲では見かけない奇抜なファッションに手を出していた。この場合は、他者からどうみられたいかという願望だ。だが、衣服に込める願いは必ずしも他人からのまなざしを前提としたものだけではない。自分を鼓舞するために華やかな服、自分だけのジンクスとしての験担ぎのアイテムもあるだろう。もしくは、体型のコンプレックスのある部分を「細見え」させてくれることを期待して服を選ぶこともある。ここでは間接的に他者が意識されているものの、この段階では実際にどうみられるかということよりも、自分自身が自らのコンプレックスを少しでも受け止めるためのものとなっている。容易には変え難い自分という存在を受け入れる手段のひとつとなっているわけだ。衣服には数多の願いが込められている。衣服は手軽に、わかりやすく、自己像への願いを叶えてくれるーーと、少なくとも購入時には思わせてくれる手段だ。私たちは服を選ぶとき、単にモノを手にしようとしているだけではなく、自分の可能性を手に入れようとしているとも言えるだろう。まだ見ぬ、まだ得ぬ、私。だからこそ、他人からみてどれだけ手持ちの服と似ているものでも、その人にとって新たな可能性を導くものであれば手にする意味のあるものとなるわけだ。これは見た目だけではない。肌に触れる感触、洗濯のしやすさ、そうしたものが自分にもたらすことを期待して手にしている。そこに込められた願いを他人と相対化することはできず、この強度はあくまで自分の身体や自分の生活への意識のなかで決まるものだ。それゆえ、服を選ぶ、身につけるという実践は、他者から「みられる」自分に想像を巡らせながらも、極めて私的な領域での実践と位置づけられるのではないだろうか。