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ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。「レベル上げ」や「素材集め」などの「作業」が一概に攻略のための「手段」とは言い切れないように、ビデオゲームにおける「目的ー手段」の関係は構造的に不安定さを抱えます。今回はゲームにおける「目的ー手段」関係の揺らぎを理論化し、ゲームを楽しむ体験がどのように構築されているか考察します。
井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて
第38回 第5章-4-5 循環のバリエーションを考える:4つの観察モデル
5.4.5.1 共通の性質をもったものたちは、どこまで同じものか?
さて、少し話の論点が増えてきたので、話をあらためて整理していきたい。ここまで大雑把に、逸脱と循環の双方があるようなプロセスについて述べてきたが、逸脱と循環の双方の側面を持ちうるようなプロセスとして、いままで挙げてきたものは次のようなものだった。
・プロスポーツ選手による、上達戦略のメタ的再構築(意図的な再構築によるもの)を通した訓練[19]
・プロスポーツ選手による、同じ訓練に「飽きる」ことを肯定した上での訓練[20]
・組織における旧式の評価基準の見直しを伴う、組織の再構築や訓練[21]
・社会における旧式の評価基準の見直しを伴う、社会制度の再構築や訓練[22]
・子供の砂場遊び[23]
・パフォーマンス芸術[24]
・意図せざる行為の自己目的化が起こり、行為自体が複雑化し、当初期待されていた範囲から抜け出ていくもの(やりこみなど)[25]
このように並べてみると、これらは逸脱であると同時に適応であるような側面のある一連のリストになっているのかもしれないが、冷静に見つめ直してみると、本当に同じものだと言っていいのか不安になってくるリストでもある。共通する性質を見出すことはできるのかもしれないが、これらの中にはかなりの違いもある。
遊び-ゲームを循環としてみなす議論の類型について、なるべく基本的な概念からはじめて整理をしてみよう。
5.4.5.2 固定層モデルと可塑層モデル
循環をめぐる観察のバリエーションについて、上記のリストを眺めてみて思うのは、これらは安定と変化のようなものをどのように構造化し、どのようなバランスで共在させているかということのバリエーションだという印象を持つことができそうだ。この、安定と変化というものを、もう少し丁寧に概念化していくための概念を導入しよう。
何かの力を加えられたとき元の構造を維持する力が強いものと、元のあり方自体が変化してしまうものを区分する概念として「可塑的(plastic)」という概念が、人間の認知について語る上でしばしば用いられる。
この概念を用いて遊び-ゲームをめぐる観察のモデルの差を、まずは二つに分けてみたい。
第一の観察のモデルは、ゲームの展開を生み出す前提自体は確固たる不変のものとして存在し、ゲームプレイヤーはそこから生成されるものと戯れているものがゲームであると考えるモデルである。この発想では、ゲームを遊ぶということは(1)固定されたゲームメカニクスの構造と、(2)そこから現象する活動、という複層構造を持つものとして記述することができる。あらかじめ設定されたゴールや勝利条件を達成する行為だけがゲームを遊ぶというものだと考えるものだ。こうしたゲーム観はビデオゲームにおいては一般的なものだといえるだろう。この発想からすると、ゲームプレイヤーは、もともとプログラムされたビデオゲームによって展開しうるバリエーションを実行するための媒介者に過ぎない。ビデオゲームの前提自体は固定されており、ゲームプレイヤーが何をしようともビデオゲームのプログラムに影響を与えることはない。この複層的だが、前提が固定されて変わることのないモデルを、固定層モデルとしてここでは名付けよう[26]。
第二は、ある程度まで安定的な構造があり、その構造から現象するものが循環的に構造を自己変容させていくという観察だ。ゲームプレイヤーは、ゲームの遊び方や上達の仕方に、しばしば変化を加えていく。コントローラーを変えたり、裏技を使ったり、縛りプレイもあれば、ズルとみなされる類のテクニックを使うプレイヤーは少なくない。遊ぶ活動を通して、ゲームメカニクス自体に変化をもたらしたいという欲求が生じ、その結果としてゲームのそもそもの構造自体を改変させていくという関わり方は遊び方としてかなり広範に観察される行為である(Consalvo 2009)[27]。この状況下では(1)ゲームメカニクスの構造は少しずつ変化を加えてよいものであり、(2)ゲームのメカニクスとゲームを遊ぶという二層の構造は、相互作用を起こすもの、という形で整理できる。この構図は「循環」という概念によって想起されうるモデルだろう。このモデルでは、もともと設定された勝利条件から離れた遊び方は、特殊なものではない。むしろ遊ぶという行為のごく標準的なあり方として捉えることができる。この可塑的で複層的なモデルを可塑層モデルと名付けよう。
可塑層モデルと固定層モデル
5.4.5.2.1 可塑的なものと固定的なものの並列
固定層・可塑層という二つのモデルは、同じものを再生成しつづける構造と、何かを生成することを通じて生成の構造自体が変化するものという区別である。この固定層・可塑層といった二つの説明モデルを通じて、ここまで述べてきた議論――学習の仕方が固定されているものと学習の仕方自体を再構築されていくもの――という二つを考え直してみよう。ざっくりと言えば、学習の仕方が固定されている前者が固定層モデルで、学習の仕方の再構築があるものが可塑層モデルにあてはまるように考えたくなるところだ。しかし、そのように直接的な当てはめをするのであれば、丁寧な概念化をする必要ない。
人間が学習し、上達するというプロセスはそれ自体が可塑的なものだ。人間の理解の枠組み自体は(脳の病気などが無い限りは)可塑的な柔軟性を持っている。つまり、学習や上達を含む一連のプロセスは、可塑的な側面を持つ。
一方で、「目標」については、目標自体が固定される場合と、固定されない場合とで分けてしまうことができる。目標の方向性が固定されていれば、シングル・ループの学習となり、飽きることや学び方の目標を変更することのできるものであればダブル・ループの学習に繋がりうるものだ。
すなわち学習の仕方が固定されている場合というのは、「認識は可塑的に変化しているが、目標は固定的」で、学習の方策自体が再帰的に変化するものは「認識が可塑的であると同時に、目標も可塑的である」という形をとる(下記の図を参照)。
下部二層:シングルループ/ダブルループ
これで、シングル・ループの学習と、ダブル・ループの学習の間の差は整理できそうだ。
しかし、これでもスポーツ選手の訓練と、ゲーマーが様々なモードを揺蕩うことの差は区別できない。 スポーツ選手など、自己の行為を律するタイプの人が行為のメタ認知を行いながら学習を再帰的に変化させていくのと、ゲーマーが思いがけず行為の自己目的化を行ってしまった結果として、どう評価すればよいのかわからないような複雑さを手にしていくようなプロセスはどちらも、行為の目標の水準で学習を再帰的に変化させていくという意味では同じものだ。
ゲームを遊ぶという行為のなかで、社会的評価が変わりやすい、これらの行為の違いはどこにあるのか。少し注意深く考えれば、この両者には「目標」の制御の内実に違いがある。
スポーツ選手による訓練方針の再構築では、行為のおおもとの大目標の部分はあまり変化しないことの方が多いだろう。スポーツ選手であれば、訓練の方針が変わったとしても、スポーツで良い結果を残すという基本的な方向性自体は変わらないはずだ。
一方で、自宅でゲームをする人が、うっかりゲームをやりこんでしまうときには守らなければならない大目標はそれほど固定的ではない。ゲームを楽しむとか、ラスボスを倒すとか、ゲームに上達するといった大目標が変化することを許容する性質をもっている。(下記の図を参照)
下部三層:目標だけが可塑性を持たないケース
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最終更新日:2024-11-13 07:00
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