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記事 50件
  • 井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第34回 創発的現象としてのゲームの二次的フレーム

    2019-09-05 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。前々回に引き続き、共同注意の概念を通したゲームという現象の読解です。ゲームを成立させている多層的な合理性、その定義の困難は、同時的に複数の水準の要素が発生しながら、分解して分析できない、その特異な性質にあるとします。
    4.2.3 創発的現象としてのゲームの二次的フレーム
     本編の展開について、だいぶ間をおいてしまって申し訳ない。本筋としては、ゲームにおける学習と、共同注意が同時的に起こるとは、どういうことかについて議論をしていた。  なぜ、この「同時的に起こる」ということが重要なのかといえば、これがゲームに関わるさまざまな矛盾や、パラドクスを解く鍵になるからである。  ある、現象が同時に起こり、より複雑な水準の事態を引き起こすということは、そこに異なる水準の説明を生み出すということだ。そして、異なる水準の説明が可能になるということは、同時に矛盾やパラドクスに満ちた説明を可能にするということともつながっている。  いままで触れてきたとおり、ゲームを遊ぶということには、さまざまな矛盾した事態を内包している。いくつかの矛盾した事態を挙げてみよう。
    ・人は、通常においては失敗を避けるものであるにも関わらず、何度も失敗するであろうことが明らかにわかるような「ゲーム」という体験を自発的に遊んでしまう。(Juul,2013)[1] ・日常にしばられることから逸脱するために、ゲームをはじめる。しかし、ゲームをはじめれば、そこではまた別のルールに我々はしばられる。逸脱するためにゲームをしているのに、ゲームをはじめれば、そこではゲームのルールに従順になる。 ・ゲームを終わらせる(クリアする)ために、ゲームを始める。
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  • 井上明人 ゲーム市場の生態系とネットワーク構造の変化をどう捉えるか――Wii、DS、PSP以降の構造を考える(PLANETSアーカイブス)

    2019-08-02 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、『「ヒットする」のゲームデザイン』(オライリー・ジャパン、2009年)に掲載されたゲーム研究者・井上明人さんの論考を配信します。コンピュータゲーム市場を「高速に変則的な動きをする生態系である」と捉えたとき、どのようなメカニズムでゲームの購入が決定されるのかを、様々なモデルを例にとって考えます。 ※この記事は2014年9月24日に配信された記事の再配信です。

    ▲『「ヒットする」のゲームデザイン――ユーザーモデルによるマーケット主導型デザイン』(オライリー・ジャパン、2009年)
     原書の発行された後、2006年にはプレイステーション3やWiiがリリースされるとともに、携帯ゲーム機であるニンテンドーDSやプレイステーションポータブル(Play Station Portable : PSP)が大ヒットとなった。原書発行以後の4年間のこうした動きを考えると、4年前のアメリカ市場を念頭に置いての議論の一部は、そのままでは通用しにくいものとなってきていると言わねばならない。本稿では、こうした動きに対応して原書で提起されている枠組みをどう応用できるかを考えていきたい。
     この4年間の中でとりわけ大きかったのは、ニンテンドーDSの大ヒットである。ニンテンドーDSはすでに世界で1億台以上の売り上げを達成した(※1)。2006年以降のコンピュータゲーム最大の市場は、据え置き機型ゲーム機市場から携帯型ゲーム機市場へと交代したと言ってよい。

    (※1)任天堂株式会社2009年3月11日ニュースリリース「ニンテンドーDSシリーズ1億台販売」(http://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2009/090311.html)。

     本書の内容と絡めて言えば、この事態から大きく2つのことを汲み取ることができる。
     1点目は、本書で比喩として使われたような生態系のモデルを用いて市場を語るという方法(13章)を再考せざるを得なくなった。生態系をモデルにして社会を語る観点にはさまざまなものがあるが、生態系を語る際に、本書のように生態系の「安定」に着目することを重要と考えるのか。それとも生態系の「変化」や「多様性」に着目することが重要だと考えるのか。その観点の差によって、同じ生態系の比喩を使うにしても、得られる結論は大きく変わってくる。生態系の安定は確かに重要な指標だが、変化がきわめて激しい環境の中で、生態系を考えるということはいったいどういうことだろうか?
     もう1点は、ハードコア層の影響力を重視した、エバンジェリストという発想の有効性(2章)だ。この数年間にわたって任天堂が掲げてきた基本戦略は「ゲーム人口の拡大」だった。これは必ずしも本書の提唱するようなハードコア層の影響力を考慮したものではない。むしろハードコア層を経由せずにカジュアル層にそのままアプローチしてしまうための戦略だ。そして、この戦略を用いた2000年代後半の任天堂は、誰が見てもゲーム産業で最も強いプレイヤーたりえていた。この事実を、本書の提起した視点からどのように捉えればよいのだろうか?
    A.1 ゲームマーケットはどういう生態系なのか? 
     まず簡単に市場を生態系のモデルで捉えることの意義について確認しておこう。
     人間社会の全体性を、生態系で捉えるという発想自体は非常に古くからある。生態系の比喩で社会を捉える議論にありがちな展開の1つは、現状肯定的なもの言いの根拠付けとして生態系がダシにされる、というものだ。
     どういうことか。
     社会の中に存在するほとんどのシステムは、ほかのシステムとかかわる形で意味を持たされている。一見何のために必要なのかということがわかりにくかったり、非効率なものに見えたりしても、まったく意味のないものは珍しい。例えば、何のためにやっているか今ひとつ理解が及びにくい、判子を押すような事務仕事も、会計的な透明性を上昇させるために必要だということにされ、ひいては効率的な予算管理を可能にするための部分的な制度である、と言いうる。ほとんどすべての社会システムには、何かしらの意義が与えられ、社会システムの一部となっている。いま存在している社会システムや、社会的な方向性(クレオド)は、何かしらの点で意味があり、生態系の安定に寄与している、と捉えることができる。これは、きわめて古典的な論法であり、保守的選択が肯定される際には、過去に何度もこうした社会観が用いられてきた。
     この、当たり前ともいえるような伝統的な社会観には、伝統的な反論もある。1つは、本当に既存のシステムすべてが効率的なのか?という反論。もう1つは、あるサブシステムが関連づけられているメインシステムが変更されたら、サブシステムはただの非合理なシステムでしかなくなるでは?という反論だ。
     この2つの反論を象徴的に表すものが、「ピアノのふた」の話だろう(※2)。船の難破に遭った人が、海上を漂っているところでピアノのふたを見つける。そして、その人はピアノのふたにしがみついて一命を取り留める。そのとき、その人にとって、ピアノのふたは「あれがなかったら死んでいた。ピアノのふたは、欠かすことができない」というものになる。だけれども、本当はピアノのふたより浮き輪とか、ゴムボートが漂っていたなら、そっちのほうがずっとよい。だけれども、一度ピアノのふたを選んでしまった人は、ピアノのふたのすばらしさを説く人になってしまって、なかなかゴムボートや浮き輪を発見しようという気分になることがない。

    (※2)バックミンスター・フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』(バックミンスター・フラー著、芹沢高志訳、筑摩書房、2000年)

     これはたとえ話だが、社会にはこういうことがよくある。産業によっては、ある部品を調達するためにとても効率の悪いことをやっていたり、会計処理にすごく変なことをやっていたりすることがあるが、効率の悪いやり方であっても、一度それで物事が回るようになってしまうと、その方式で物事が回ってしまうということがよく起こる。選んでしまった後には、どうしても、一度選んでしまったことのシガラミというものから人は簡単には抜け出せない。ピアノのふたがどんなに非効率なものかが明らかにわかるような場合であっても、ピアノのふたにアイデンティティを重ねてしまうような人も出てくる。過去に行われた選択それ自体が、未来の別の選択に対して自己拘束性を持ってしまうということは頻繁に起こる。
     そのほかにも、さまざまな反論や、別の見方を体系的に語る切り口(※3)が登場した結果、ざっくりとまとめれば、近年の社会科学では現状肯定のために生態系を比喩として用いるという論法は、あまり重要なものではなくなっている。現状の生態系の安定のみを考えるのではなく、むしろ生態系における淘汰や変化といった事象が起こる点に着目し、生態系の変化がなぜ起こるかといった要素に説明を加えようとすることが重要性を増している。一見、安定的な生態系であっても、ほかの生態系と接触したときに、そこから持ち込まれた一種類の菌や虫によって生態系の維持が困難になったり、生態系の主役が大きく交代してしまったりということは歴史上きわめて頻繁に起こってきた。例えば、よく訓練された先進国の巨大な集権型軍事組織が、第三世界のネットワーク的な分散権力構造を持ったゲリラ部隊に必ずしも容易に勝利できないというような事例や、「破壊的イノベーション」という言葉で知られる産業における不連続な市場の主役の交代劇など、あげればいとまがない。

    (※3)社会科学において、こうした展開を持ち込んだのは、ジョン・メイナード=スミスによる進化ゲーム理論(『進化とゲーム理論―闘争の論理』ジョン・メイナード=スミス著、寺本英+梯正之訳、産業図書、1985年)の影響がきわめて大きい。こうした観点から、社会変化について述べたものとして、簡単に読めるものでは『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳、草思社、2000年)などはおもしろい。

     生態系的な社会観をバックグラウンドとする「進化」という概念と、一直線の発展を想定するような「進歩」という概念の違いはよく強調される。「進歩」という観念はドラゴンボールの戦闘力よろしく、強いものは強く、文明化された社会は野蛮な社会よりも進んだ社会だということになる。ベジータは絶対にクリリンよりも強い。しかし社会というものは当たり前だが、そんなに単純なものではない。かつて流行していたものが新しいものによって淘汰されて絶滅するということももちろん起こるが、それだけではない。同一の事象の繰り返し、予想外の不連続な展開……といったことが頻繁に起こる。こうした社会変化の中では、プレイヤー(生物)とプレイヤー(生物)同士のさまざまな組み合わせによっては、一見、「弱い」とされていたものが、「強い」とされていたものを駆逐するようなことが頻繁に起こる。再び、ドラゴンボールの例で言えば、ブルマの戦闘力がそこまで強くないにせよ、ブルマが物語展開の鍵を握り、戦闘力が中途半端なヤムチャなんかよりも、よっぽど重要な役割を果たしてしまうことがあるようなものだろうか。生態系の比喩というのは、複雑な要素が組み合わされ、新たな事象が引き起こされるプロセスを考えることに適している。繰り返しになるが、生態系という概念は、「絶滅と淘汰」という本書でも重視されている事象に対する説明力も持つが、「変化」や「多様性」といった要素に対して説明力を持ちうることにこそ醍醐味がある。
     さて、本書では2Dゲームが3Dゲームの登場によって絶滅の危機に追いやられ、恐竜が鳥類になることで生き残ったように、携帯ゲーム機市場へと展開することで絶滅を免れたという説明が登場する。だが、ゲーム市場で起こったことは、単なる2Dゲームの衰退ではなかった、ということがDSの大ヒットによって明らかになったと言えるだろう。据え置き型ゲーム機の開発規模の高騰や、コアゲーマー層の消費市場の先細りといった現象の対抗する解決策に近いものとしてニンテンドーDSのヒットという現象は起こった。そこに2Dゲームも再び市場を席巻するゲームデザインのスタイルとして世界中に復活を遂げることになった。これは、明らかに進歩という概念ではなく、進化的な生態系のモデルを通して観察したほうが適切な事態であったといえる。本書が採用している生態系のモデルによって市場を考えるという観点は生きている。だが、絶滅→淘汰という観点から生態系を考えるだけでは十分ではない、ということもまた明らかだ。2Dゲームは絶滅したのではなく、単に一時的に少し影を潜めただけで、2Dゲームが繁殖するのに適した環境が訪れれば、また再び生態系の中で巨大な力を持つに至った。競争優位となる要素の変化が激しい市場ではあるが、A→B→C→Dというような単純な交代劇で捉えられる生態系ではなく、A→B→C→A ́→Ć→Dというような、高速に変則的な動きをする生態系である、ということだ。
     また、もう1点は生態系の変化の問題に加えて、生態系の多様性の問題も重要になってきた。ゲームのジャンルの安定化や、シリーズタイトルの比率増加に対するオリジナルタイトル数の減少といった要素がしばしば取り上げられ、ゲームの多様性が減少した(=安定性が増した?)という側面はある。欧米の据え置き型ゲームの市場や日本の携帯ゲーム機といった個別の市場を観察すれば、確かにそうした側面はある。だが、個別の市場における内部での状況から、少し視野を広げてみると、性質の異なる市場のバリエーションが飛躍的に増加していることがわかる。具体的に言えば、欧米と日本という2つのゲーム市場だけでなく、中国と韓国を含む東アジアの市場が、既存の市場とはかなり異なる性質の市場としてさらに拡大してきた。加えて、据え置き機市場、携帯ゲーム機市場、携帯電話市場、PCゲーム市場などの市場の多面化も激しくなったし、流通形態も小売店やレンタル、中古販売といった流通経路に加えて、オンラインでのダウンロード販売などの新しい流通経路の影響力が一挙に高まりつつある。つまり、1つの閉じた生態系を構築していられる状況とは違い、多様な環境を持った生態系が、相互につながりあうような世界になってきている。これらのプレイヤーがすべてアメリカを中心に、あるいは日本を中心にして、生態系の一部となっているのならば生態系は安定するかもしれないが、そのような産業構造が自生的に組み上げられるかどうか、ということは現状では不透明な状況下にある。国際分業や、さまざまなレベルでのプラットフォーム競争、標準化争いなどが繰り広げられることで、こうした多様な生態系が全体としてどのようなバランスをとるかという方向性が決まってくるものと考えられるが、一国内の閉じた生態系の安定性を考える、という形でのアプローチでは難しい状況が当面は続くだろう。
    以上、簡単に要約すると次のようになる。
     
    ●主要なプレイヤーの交代と、プレイヤーの数の増加という現象がこの数年で顕著に起こってきた。
    ●すなわち、ゲームマーケットという生態系は、かなり高速に変則的な動きをするような性質を強めてきており、1つの大きな生態系が強い連結を保って存在しているというよりは、さまざまな特徴を持つ生態系がある程度のつながりを保ちつつ独立して散らばるようになってきた。
    ●このような状況下では、生態系の「安定性」に着目することの価値以上に、生態系の「変化」や「多様性」について考えることのほうが相対的に重要性を増してきた。
    A.2 影響力のあるユーザーとは誰なのか? 
     では、こうした、多様性に満ちており、変化の激しい市場に対してどのようなアプローチを考えていくことができるのだろうか?
     そのアプローチは、実に多種多様な解がありうるだろうが、ここでは、初めに提出したもう1つの問題―コアゲーマーの影響力を起点とするエバンジェリストのモデルがどこまで有効なのか?―を考えるという形で、1つのアプローチを提示してみよう。
     さて、本書の中で紹介されているエバンジェリストモデルのベースとなっているものの1つは、おそらく『キャズム』(川又政治訳、翔泳社、2002年)のジェフリー・ムーアなどに代表される新製品の普及モデルだろう。普及論などの議論では、この段階的なモデルが新製品の普及を考える上ではよく知られている。
     
    I.新製品の発売初期にまっさきに購入を行う初期ユーザー(イノベーター)が最も数が少なく、
    II.その次に先端的な製品だと察知すると購入を行うユーザー(アーリーアダプター)、
    III.そしてクリティカルマスと呼ばれる一定規模を越えて普及が進むと一挙に大規模な数のユーザー(アーリーマジョリティー)を獲得することができる(※4)。

    (※4)この段階の後に、衰退の段階もある。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』番外編 幸福な善人の異世界物語

    2019-06-06 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は番外編として、ウェブ小説の新ジャンル「幸福善人系」について考察します。物語制作上不可欠とされるはずの、主人公の欠落や進行上の障害を全て排除し、ひたすらストレスフリーを徹底した作品群。その指向性の先にあるものは……?
    究極のストレスフリーとしての幸福な善人の話
     さまざまな異世界もの物語の中でも、ここ数年になって「幸福善人系」とでも呼ぶべき一群の作品が増加している。アニメ化までいった作品としては、吉岡剛『賢者の孫』(2015-)がこうしたタイプの代表格だが、もとから恵まれている幸福で善良な人間が、スーパーマンとして大活躍する話である。私見では、この「幸福善人系」の作品群の台頭は、一時期の「空気系」の作品が登場してきたときのそれに近いインパクトを持っているように思う。そのインパクトというのは、何なのかということを説明したいと思う。
     さて、こういったものが増加してきた経緯のそもそもは、ウェブ小説界隈で近年よく意識されるようになってきた「ストレス展開」の排除だとか、「ストレスフリー」などという言葉が関係している。つまり、主人公が喪失や挫折を経験したり、差別に苦しめられたり、誰かとの深刻な対立を経験したりすることのない小説である。7,8年前であれば、この傾向はそこまでは顕著ではなかったが「ストレスフリー」は、ウェブ小説の中での流行りを意識する書き手にとっては、近年かなり意識されている。「異世界転生」「チート」「ハーレム」といった要素に次ぐ、もう一つのウェブ小説の鉄板要素なのではないかといった感すらある。「ストレスフリー」自体ネタとしたメタ小説(注1)まで書かれている状況だし、もちろん、コミカライズされている作品も数多い。  もっとも、これといって強いストレスのない物語それ自体はそこまで珍しいわけではない。初期『ドラゴンボール』だってそうだ。ただ、そういった最強主人公モノは何かしら変わった人格──いわゆる「キャラが立っている」人物──であったり、設定の面白さをもっていたりする。  つまり「ストレスフリー」展開の話を順当に面白くしようと考えた書き手たちの考えることの一つは、ヒキの強い設定やキャラ立ちをさせようという発想に落ち着くことになる。  ホモ・サピエンスという種族がエルフやドワーフといった種族を遥かに超える伝説的な種族だったという設定の柑橘ゆすら『最強の種族が人間だった件』(2016-2018)だとか、あまうい白一『俺の家が魔力スポットだった件~住んでいるだけで世界最強~』(2015-)などは、タイトルだけでもすでに極端なストレスフリーっぷりがうかがえる、ヒキの強い設定をもっているストレスフリー作品であり、こうした作品は数多くなされている。
     たが、こういった設定や、キャラクターのヒキの強さで話を面白くしようとする努力とは、逆方向にストレスフリーの作品のあり方を突き詰めてできあがったきたのが、「幸福な善人」たちの話である。  これらは、キャラクターや設定のヒキの強さで話を面白く盛りあげない。キャラクターや設定も含めて、刺激の低い作品であり、ある意味で究極のストレスフリーを目指した帰結とも言える。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第33回 叙述的共同注意のネットワーク

    2019-04-17 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ネット上に存在している他者との親密な関係の生成を促すシステム。ゲームは同様の媒介性を備えながら、同時に他者との衝突を本質とする面も持ち合わせています。容易には接合しえない諸要素からなるゲームの本質、その概念的な整理を試みます。
    4.2 叙述的共同注意のネットワーク
    4.2.1コミュニケーションとルール
     一時期、他人のひどくプライベートな話を様々な人から集中的に聞いていたことがあった。虐待から逃げてきた子の話、障害のある弟を抱える姉の話、トランスジェンダーの人の話。糖尿病で苦しんでいる人の話。同性愛者の人が結婚した人の親(義理の親)がまた同性愛者で、その義理の親にレイプをされていて悩んでいるという話を一晩じっくり聞いたこともあった。  カウンセラーの仕事をしていたわけではない。その話を聞いていたのはインターネットの中でも、とりわけ匿名性の高いチャットサービスに出入りしていた時のはなしだ。私とは、なにか全く違う人生を歩いている人たちが、同時代の日本のなかにこれほどいるのか、ということを知ることができるということが衝撃で、一時期はほんとうに毎晩通っていた。  性、病気、家族、借金。そういった、私的領域に関わることを、多くの人が私にむかって話してくれた。そこで、信頼されていたのは彼/彼女らにとって、見知らぬ私ではない。信頼されていたのは、私ではなく匿名性を担保するシステムのほうだ。  このサービスの匿名性はTwitterの匿名とは質が違う。Twitterでは固定のIDを原則として使い、人によっては実名と紐づけたアカウントを利用している。このサービスでは、固定のIDもない。ログも残らない。名乗り出ない限り、実名に辿り着かれることはなく、誰も実名を名乗らない。Pfitzmannらの概念【1】を借りるのであれば、リンク不能であり到達不可能【2】という意味での強い匿名性が担保されたサービスだということになるだろう。完全な「名無しさん」同士が会話をするというスタイルのサービスだ。別の例をいうのならば、「王様の耳はロバの耳」と叫ぶための穴のようなものだ。誰かに話してしまいたい自分の秘密を叫ぶための穴のような場所が、インターネットにはいろいろな形で存在している。
     そこで話される話は、5chやはてな匿名ダイアリーにはたまに書かれることはあっても、Twitterや、Facebookにはなかなか出てこない話だ。かつての2ch(現5ch)には獣姦や、自慰などについての具体的な体験談を綴った「名作」と言われる過去ログがある。確かに、獣姦が趣味だという人に会うことはまずないし、たとえ会うことがあったとしてもカミングアウトされることもまずない。極限まで匿名性が高く担保されたようなサービスは、ニュースになることはないが、インターネットのどこかで、今日も盛んに話されているはずだ。  よく知られているように、我々のコミュニケーションは、対話をする環境に大きな影響を受け、そのありようを変化させる。  フェイクニュースや炎上の問題など公共的な領域に関わる議論はもちろん、さきほど述べたように私的な領域にわたっても起こっている。初対面の私に向かってプライベートなことを話はじめる人はほとんどいないだろうが、高い匿名性が担保された場所であれば、人はふつう言えないようなことも言ってしまう。  行為を行わせる環境を信頼して行為の構造を変える、というのはネットサービスに限った話ではなく、むろんゲームでも起こっていることだ。  初対面の相手とトランプなどのゲームを通して仲良くなったという経験がある人は多いだろう。それほど社交力のない人にとっては、初対面の相手と仲良く話すというのはそれなりに面倒なことでもあるが、ゲームはその面倒な部分をうまくやらないでいいようにしてくれる。ババ抜きをするときに、相手にババを引かせたからといって相手の心証を悪くする心配はしなくてもいいし、自分が何者なのかといった自己紹介を相手の興味を測りながら話すようなこともしなくていい。多くのゲームでは、見知らぬ他人とゲームをすることは、それほど苦労のいることではない。法や、貨幣といったコミュニケーションを媒介する環境が、我々の社会におけるコミュニケーションの焦点を変化させ、複雑性を縮減するのと同様な形で、ゲームのコミュニケーションも機能していると言っていい。【3】
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』番外編 2018年の「推し」ゲーム 三選

    2019-03-05 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、井上明人さんが2018年にプレーしたゲームの中から「推し」のタイトルを紹介します。。国内外・ハードを問わず、ゲーム研究者ならではの鋭い考察と、いちゲーム好きとしての愛情に溢れた視点から語ります。
     今回の原稿は、2018年に出会った「推し」ゲームというでお届けさせていただきたい。というのも、2018年は、個人的に、相性の良い「推せ」る作品に出会えた率がかなり高かった。なので、今回は、そういった「推し」作品を中心に2018年に触れた作品について述べさせていただきたい。  なお、今回紹介させていただくものは、基本的にリリースのタイミングではなく2018年に筆者が遊んだ作品なので、2017年以前の作品も含まれている(とはいえ、あまりに古い作品は省いた)。  今年遊んだものの中で、特に印象に残った作品名だけ、まずザラッっと挙げておこう。  まずは、ニッキー・ケースの作品群である『We Become What We Behold』『Coming out Simulator』『the wisdom and/or madness of crowds』。すでにインディー系ではだいぶ注目が集まっているものとしては『Deltarune』『My Child Lebensborn』『Florence』『CHUCHEL』。国内でほとんど知られていない作品としては『カウンターヒーロー第1章』『Attentat 1942』『Unmanned』。また、ボードゲームとしては有名どころであるが、『キャットアンドチョコレート 日常編』。2018年に出たコンシューマー系からは『Detroit』。時間をもっとも費やしてしまった作品として『ダンジョン・メーカー』。  なお、積みゲーにしてしまっていたもので今年になって時間をかけて遊んだもの(ごめんなさい…)としては『Her Story』『Splatoon』『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』『THE PLAYROOM VR』『Undertale』あたりである。  全ての作品をとりあげるわけにもいかないので、今回は、この中から『We Become What We Behold』、『カウンターヒーロー第1章』『My Child Lebensborn』の三作品を取り上げたい。  なお、「XXXを挙げていないのはわかっていない」系の定番のご批判はもちろん、ありうるだろうと思うが、網羅的なものは全く目指していないというか、目指せない。その点はご容赦いただきたい。  また、媒体の性質上、ネタバレは基本的についてくるものだと思っていただきたいので、ネタバレをされたくない読者は注意していただきたい。
    不幸な均衡への自発的加担を経験させる:ニッキーケース(Nicky Case)の作品群
     さて、まずニッキー・ケースの『We Become What We Behold』である。これは今年もっとも印象に残ったと言うだけでなく、人生全体の中でもトップクラスに入る強い印象を残した。  この作品については、PLANETS vol.10でも少し取り上げたが、作品のタイトルは「我々は、我々が注目するものになっていく」というような意味だ。  遊び始めたプレイヤーができることは、フィールドのなかで写真を撮影することだ。ただ、ほかの写真撮影系のゲームと違うのは、フィールドの中心に撮られた写真を投影するための大きなモニターがあることだ。ゲームの中のNPCたちは、みな、そのモニターを見ている。  プレイヤーがフィールド上の好きな場所を撮影し、それを皆が注視しているスクリーンに映し出すことができる。問題は、「どのような風景を撮影すべきなのか」ということだ。人々にスクリーンに注目させ、ゲームを進行させていくためには、何かしら人々が惹きつけられるような写真を撮影しなければいけない。NPCは最初は、ちょっと変わった程度のものならば何でも見てくれる。しかし、次第にNPCは刺激を求めるようになってくる。手当たり次第に撮影してみると、わかってくるのは、どうもケンカなどの揉め事の風景を撮影していると、注目を集めやすいということだ。とても残念なことだが、殺伐としたシーンが注目を集めやすく、大きな影響力を持ちやすいことに気づいたプレイヤーは、気がつけば殺伐とした写真を撮ってしまうことになる。  そして、プレイヤーが殺伐とした風景を撮れば撮るほどに、その写真をみたNPCの人々には、隣人への疑心暗鬼への心が育っていってしまう。遊べば遊ぶほどに世界は疑心暗鬼に満ちたものになり、プレイヤーは、世界に憎しみを植え付けるプロセスに、自ら加担してしまっていることを知ることになる。  この作品が優れているのは、面白く、かつ啓発的であるというだけではない。普段、忌み嫌っているはずの、悲劇の連鎖に加担することに、自らが嬉々として工夫した挙げ句にいつのまにか入り込んでしまうということだ。自らの創意工夫の結果として、悲劇の連鎖に加担してしまうというのは『伝説のオウガバトル』で味わった経験と同様のものだ。  面白く、啓発的で、そしてデジタルゲームというメディアにしかなしえない表現を達成しえている。ネット上で遊べるフリーゲームなのでぜひ、英語の読める人はぜひとも実際に遊んでみてほしい。
    ▲『We Become What We Behold』
     ニッキー・ケースはフリーゲームの作り手として他にも素晴らしい作品を数多く作っている。日本語化されているものでいえば、自らがゲイであることを家族に公表した時のことをゲームとして表現した『Coming Out Simulator』、SNSでも話題を呼んだ、集合知のメカニズムをインタラクティヴに理解できる『群衆の英知もしくは狂気』なども面白い。  他にも、ニッキー・ケースの作品は無料で公開されており、ほとんどの作品がオススメである。
    ▲『Coming Out Simulator』
    ▲『群衆の英知もしくは狂気』
    全ては入れ替え可能:『カウンターヒーロー』
     さて、次の『カウンター・ヒーロー』も、インディー作品であり、(少なくとも本稿執筆時点では)無料で遊べる。QROSTARというチームが作成したもので、現時点では第1章しか公開されておらず、1時間強ぐらいで遊ぶことができる。  この作品は、プレイした感覚を、なるべく短く言うのであれば「スキルチート系のなろう小説を、本当にゲームとしてプレイしたような感じ」といったところだろうか。
    ▲『カウンター・ヒーロー』
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  • ゲームと物語のスイッチ ――ゲーム研究者・井上明人が考える『ゲーム的快楽』の原理 (PLANETSアーカイブス)

    2019-03-01 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、井上明人さんによる論考です。ビジネスへの応用可能性でも注目を集めている「ゲーミフィケーション」研究の観点から、小説や映画のような「物語」と、「ゲーム」というジャンルの違い、そして、物語の快楽をときに凌駕する「ゲーム的な快楽」の正体について、哲学的に解き明かしていきます。 ※この記事は2014年7月23日に配信された記事の再配信です。
    井上明人さんの連載はこちら 『中心をもたない、現象としてのゲームについて』
    ゲームと物語のスイッチ
    「ゲーム」と「物語」という二つの相性の悪さは、コンピュータ・ゲームの歴史においてしばしば大きな問題となってきた。「映画的ゲーム」「一本道RPG」「自由度」「ゲーム性」といったゲームに関わる評価の形容が使われるとき、この二つの相性の「悪さ」について言及されることが極めて多い。 本稿は、物語とゲームという二つの現象をどのように整理することができるのか。その問題についてささやかな整理を試みたい。物語とゲームという概念は思われているほどに相性が悪いものではなく、むしろ連続した概念である。そのことを、素描してみたいと思う。 なお、本稿で「物語」という術語を使うとき、narrativeとよばれることの多い領域を意識している。storyやシナリオといった領域は本稿の範囲を超えていることを予め述べておく。*1
    I.物語(Narrative)と、ゲーム。二つの連続について
    物語と、ゲームはしばしば、同じようなものとして語られることがある。たとえば、次のような二つの表現を考えてみよう。
    A お金持ちになって成功することが全て、という物語の中を生きている人 B 資本主義の金儲けのゲームの構造の中で勝ち抜くことこそが全てだと考える人
    AとBの二つの表現から想像される人物像は、「物語」と「ゲーム」という二つの異なる表現を用いながら、ほとんど似たようなものを表現しているように思えるはずだ。何よりもお金を大切にしている人。お金を自分自身の人生にとって最も重要なものだと考えているような人。「物語」と「ゲーム」という別のものを介して表現されながらも、素描される人格は似たようなものだ。 一方で、ゲームと物語は全く別の現象でもある。また別の二つの事例を挙げる。
    C ビル・ゲイツの伝記を読んで、マイクロソフトの成長プロセスを知ること D ビル・ゲイツの人生をモデルにしたゲームをプレイし、ゲームの中のマイクロソフトを成長させること
    この二つはビル・ゲイツとマイクロソフトに関わる知識を与える、という点では同様のことを可能にしているが、CとDでは様々な点が違っている。ビル・ゲイツの伝記を読めば、彼がどこの大学に入学していたのか、マイクロソフトが成功するまでのプロセスでどういった困難に直面したのか、といったことがわかるだろう。一方で、ビル・ゲイツのゲームを遊べば、どういった構造的な困難を持っていたかということが理解できたりもするだろうし、もしかしたらマイクロソフトがアップルを買収したり、Googleを買収したりすることもできるかもしれない。または、ゲームをスタートさせた初期にIBMに買収されてしまってゲームオーバーになるかもしれない。マイクロソフトがこの30年の間にどれだけスリリングな状態にあったのかを、構造的に理解するという点ではゲームの方が優れた理解を与えるかもしれない。ただし、現実に存在するマイクロソフトがどのような選択を実際に行ったのか、という確定した歴史を知るという意味ではビル・ゲイツの伝記を読んだ方がいいだろう。ニ〇〇九年現在のマイクロソフトは、Googleを買収していないし、IBMに買収もされていない。それは、歴史のifに過ぎない。
    「ゲーム」も「物語」も、ともに何かの対象を描き出すことのできる手段だと捉えられる。同じものを描き出すこともできるが、その描き出し方には大きな違いがある。その違いがほとんど問題にならないような場合もあれば、大きく問題になるような場合もある。
     いかなるときに、ゲームと物語は同一のものであり、いかなるときにゲームと物語は異なるものとなるのだろうか。
    II.出来事の連なり、繰り返す出来事の連なり
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第32回 行為と、行為を思惟するシステムーー心の存在を想定する

    2019-01-30 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、前回登場した「叙述的共同注意」の概念を掘り下げます。注意の共有自体が目的となるにらめっこの不思議や、「ガチ勢」「エンジョイ勢」の関係性を参考にしながら、これまで紹介してきた「学習説」とは相容れない「遊び」の定義について思考を深めます。
    心の存在という前提 ―にらめっこ
     約十年ほど前に、「最もコンピュータ・ゲームにしにくい遊びの一つは、にらめっこではないか」ということを書いたことがある[1]。  コンピュータ・ゲーム全般というより、特に一人向けのコンピュータ・ゲームに限ったほうが適切かもしれない。にらめっこにはコンピュータ・ゲームという形式に変換することの難しさがある。  にらめっこがなぜ、コンピュータ・ゲームにしにくいのか、とその理由を問うたとき、直感的に多くの人が考えるであろうことは、ゲームの中のキャラクターにプレイヤーが心の存在を感じないから、ということだろう。一人用のRPGやAVGのなかでうごめくキャラクターは、知性をもっているらしき振る舞いはする。定義次第によっては知性をもっているとも言えなくはない。ただ、ほとんどのキャラクターはドラえもんやアトムのような、強いAIと呼べるほどまでの心をもった存在ではない。  そして、コンピュータ・ゲームのキャラクターが心をもっているように思えない、という前提を受け入れるにしても、この答えは新たな問いを生む。なぜ、相手が心らしきものを持っていないことが、遊びが成立するかどうかにとって重大な問題になってしまうのだろうか?レースゲームの対戦相手が心らしきものを持っていなくても問題にはならない。FPSも格闘ゲームも、遊びとして成立しないということはない。将棋やチェスのAIも、恥ずかしがったり、笑ったりしないが将棋やチェスのAI相手にゲームをすることは問題なくできる。多くのゲームは、相手が心らしきものを持っていなくてもいい。  心らしきものを持っているかという問題は、前回までに問題としてきた叙述的な共同注意の話と関わる。  前回も述べた通り、命令的共同注意が共同注意を利用してなにかを達成しようとするのに対して、叙述的共同注意は、共同注意それ自体を目的とするようなものだった。そして、ゲーム/遊びの区分をそれぞれ命令的/叙述的共同注意に対応させるという主張について紹介した。  にらめっこという遊びは、わかりやすく共同注意に関する遊びだ。  にらめっこの面白さは、勝利することに重点があるわけではない。なんだったら、負けたほうが楽しいところもある。  にらめっこは、相手が変な顔をすることだけが楽しいというわけでもない。お互いに真顔でも笑ってしまうことがある。いや、むしろ真顔のほうが笑えるということがある。  「いま、あなたを見ている」「いま、見られている」という事態にお互いに焦点化し、共同注意の存在そのものを顕わにすることこそが、「にらめっこ」という行為である。にらめっこは「見ている」ということを見ている。相手の真顔で笑ってしまうとき、共同注意の存在そのものを意識したとき、可笑しくなっているのだろう。  そしてまた、にらめっこは、自分が何をしているのかということを自分からは見ることができないという意味でも特殊な遊びだ。自らの武器となる「表情」は顔の筋肉を通じて概ね想像はつくものの、細かいところはわからない。自分の表情を見たければ、相手と自分の間に鏡を置く必要がある。しかし、鏡を置いてしまえば、にらめっこは成立しない。自分で何をやっているか、細かなところがわからない。武器をうまく使う方法を最適化させていくための手順が予め失われているという意味でも、にらめっこは勝利を効率的に達成するための仕組みとしては不完全な遊びである。  ふだん、我々は共同注意の存在そのものを、そこまで意識しているわけではない。相手と目を合わせて喋るということは、比較的まれなことだ[2]。この「目を合わせない」という慣習を変化させ、ふだん学習された視線のありようの外側に出ること。共同注意自体を楽しむこと。にらめっこは、そういう遊びである。  叙述的共同注意の遊び、それがにらめっこだと言えるのではないだろうか。そして、叙述的共同注意が成立するためには、もちろん共同して注意を払う相手に心があることが仮定されていなければならない。心をもたないと思える相手に対して、恥ずかしがったりすることは難しい。  一人向けのコンピュータ・ゲームとして、にらめっこを実装することが難しいことの理由はそれゆえである[3]。
    学習説の外側へ
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第31回 創発的現象:諸理論の反逆 コミューニケーション、ルール、メタファー

    2018-12-11 19:30  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、コミュニケーションについて独特の理論を展開したグレゴリー・ベイトソンの議論を、「共同注意」の概念を手がかりに、命令的/叙述的という分類から、「ゲーム」と「遊び」の差異について検討します。※本記事に一部、誤記があったため修正し再配信いたしました。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。【12月11日18:30訂正】
    4 創発的現象:諸理論の反逆 コミューニケーション、ルール、メタファー
    4.1行為と、行為を思惟するシステム
    ベイトソンの「メタメッセージ」
     ようやく長かった第三章を抜け、第四章に入っていきたいと思う。  予告どおり、まずはコミュニケーションと遊びをめぐる問題を扱っていきたい。遊びやゲームにとってコミュニケーションという要素がかなり重要な一側面をなしているのは間違いない。カイヨワなどは、すべての遊びの動機はコミュニケーションであり、それこそが遊びにとっての欠くことのできない本質なのだとすら論じている[1]。カイヨワの議論に賛同するかどうかはともかくとしても[2]、コミュニケーションが重要な要素であることには違いない。  そして、遊びとコミュニケーションの関係を論じるにあたって、まず挙げなければいけないのは、グレゴリー・ベイトソンによる議論だろう。これは、遊びをめぐる最重要の議論の一つと言っていい。  ベイトソンといえば、哲学文脈以外でも、精神医学や社会学では「ダブル・バインド」の議論がよく参照され[3]、経営学などでも独自の「学習」概念が引き合いに出される。ベイトソンに関わる議論のなかでも遊びに関わる重要な論文は、一九五三年に出された「ゲームすること、マジメであること」[4]と、一九五四「遊びと空想の理論」[5]の二編があるが、とりわけ重要なのは「メタ・コミュニケーション」をめぐる議論だ。  ベイトソンによれば、遊びとは「今やっているこれらの行為は、それが表わす行為が表わすところのものを表わしはしない」[6]ようなものだという。何か非常にややこしいことを言っているように聞こえるだろうし、実際に文章にするとややこしいのだが、実際に我々が何かを遊ぼうとするほとんどの場合に起こっていることだ。ベイトソンによる、このややこしい定義は彼が動物園に行ったときに見た次のような観察から出てきたものだ。[7]
    私が動物園で目にしたこと、それは、誰にも見慣れた光景だった。子ザルが二匹じゃれて遊んでいた――二匹の間で交わされる個々の行為やシグナルが、闘いの中で交わされるものに似て非なる、そういう相互作用を行なっていた――のである。このシークェンスが全体として闘いでないということは、人間の観察者にも確実に知れたし、当のサルにとってそれが「闘いならざる」なにかだということも、人間観察者に確実に知れた。
     子ザル同士が遊ぶとき、相手に噛みついて遊んだりする。そのとき「物理的には」間違いなく噛み付いているが、子ザル同士の「意図として」本気で相手の肉体を破壊することを意図しての噛み付きが行われるわけではない。すなわち、「『咬みつきっこ』は『噛みつき』を表わすが、『噛みつき』が表わすところのものは表わさない」[8]  このとき、物理的に噛み付くという事態と、遊びで噛み付いてみせるという事態を区別することのできない動物は、ここでいう意味で「遊ぶ」ことはできない。「これは遊びなのだ」という行為事態を意味づけるメタなメッセージを交換できない動物には「攻撃的な意図で噛みつかれたこと」とそうでないことに差がなくなってしまう。攻撃されたら、それは攻撃なのだということしか考えない生き物は、闘争するか逃げるかといったことを選びとるしかなくなっていく。コミュニケーション行為のカテゴリーを複層化できないというのは、いかにも不自由な生き物だ。  遊びが成立するには状況解釈の多層的理解が前提となる、というベイトソンのこの指摘は遊びとコミュニケーションの関係を考える上で極めて重要な指摘である。これは人間の複数人遊びでは間違いなく生じることだ。このメタ・メッセージを理屈では理解できても、心情的にはどうもまだ納得しきれないような幼子はゲームに負けたときに癇癪を起こすことがある。小さな子どものときに、ゲームに負けて泣いたり、怒ったりしたことのある人は多いだろうし、子どもとゲームをした後に本気で怒られたりして困ったことのある人も多いだろう。[9]  こうした多重のリアリティ解釈と遊戯が深く結びついているという観察は、その後も、いくつかの系譜で参照されながら議論されることになった。代表的なものを挙げるならば、アーヴィン・ゴフマン[10]やゲイリー・アラン・ファイン[11]による遊戯やゲームをめぐる議論はベイトソンの強い影響下にある。  そしてベイトソンは「それが表わす行為が表わすところのものを表わしはしない」というような言い方は、ラッセルの<論理階層>の理論[12]では端的に禁止されるべきものであるともいう。「表す」(denote)という言葉が別々の水準の抽象性で現れているにもかかわらず、それが同義として現れている。これはいかにも論理エラーを引き起こしそうなややこしい仕組みだ。では、論理エラーを引き起こしそうな仕組みであるにも関わらず、なぜ人類をはじめとする哺乳類はこうした屈折した構造をもつ「遊び」に関わっているのか。ベイトソンによれば、それは論理学的な"正しさ"には合致していないが、それは哺乳類の進化が論理学のそれとは別の仕組みで成立してきたからではないか、という。
    ジョイント・アテンション
     動物や人間の心理発達プロセスという観点から、遊びというようなメタメッセージを含んだ構造について考えようという話を、現代的な概念に変換しようとするのであれば共同注意(Joint Attention)や、心の理論をめぐる議論から改めてベイトソンの議論を考え直すことが可能だろう。  共同注意とは、その名の通り他者との間で同じ対象について注意を共有しているかどうかを問うもの[13]で、心の理論(Theory of Mind)とは、他者が自分と同様の心の状態をもっているという推測をすることが可能かどうかということを問うものだ。いずれも幼児の心理発達の過程や、人間とサルの心のシステムの違いを論じる際にしばしば問題になる。  共同注意の概念は、1975年にスカイフとブルーナーの研究[14]により知られるようになり、心の理論は1978年にプレマックらの研究[15]により知られるようになったものだ。近年ではマイケル・トマセロ[16]や、バロン・コーエンなどによる研究が注目を集めている。彼らの論じるところによれば、親と子供との注意対象の共有などが次第に発展する共同注意のプロセスの先に、「他者に心がある」ということを理解するいわゆる心の理論(Theory Of Mind)ができあがってくるという。「他者に心があるということを推測する」というかなり高度でわかりにくいメカニズムを、共同注意という観察可能でわかりやすいものによって説明するという仮説は大胆で興味深いものだ。  ただ、共同注意がより現代的な概念であると述べた理由は、単に注目が集まっているというだけでなく、概念区分が細かくなされ各種の実験と紐づく形で実証的な形で研究が展開されていることによる。心の理論などと併せ、共同注意の発達プロセスは発達心理学における基盤的な論点を扱っている。  この共同注意や心の理論といった概念的な道具立ては、ベイトソンの現代的解釈をするうえでも、ゲームの概念について論じていく上でもかなり重要な論点を含んでいる。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第30回 第三章 補論2:なろう小説におけるダダ漏れの欲望を考えるための2つの「切断」

    2018-11-07 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回のテーマは「なろう小説」の欲望のあり方についてです。従来のフィクションを(主人公と読者の)「主体の切断」を前提とした作品と捉えた上で、なろう小説やゲームを「利得の切断」の側面から改めて検討します。
     昨今のコンテンツに詳しい人ならば、言うまでもないことだろうと思うが、「なろう小説」の欲望だだ漏れ感は、何かタガが外れているという感触がある。  チートによる俺Tueeeeと、(奴隷)ハーレムがセットになるというフォーマットは、控えめに言ってもやばい。「なろう小説」をはじめとする、異世界転生等の一群の物語については、本連載の第22回について扱ったが、俺Tueeee展開はともかくとして、あのハーレム展開っていうのはさすがにどうなのという人は多いと思う。この欲望ダダ漏れの表現はなんなんですかね、ということを、今回は書きたいと思う。
    <お断り>ハーレムものの「望ましくなさ」について
     本論に入るまえの、すこし「お断り」的な話をしておこう。今回、ゲームや物語における欲望について触れるが、ハーレムもの(あるいは逆ハーレムもの)の物語は、その多くが性的な欲望がだいぶ露骨な物語である。今回の原稿は、これを擁護するとか、批判するとかそういう話ではない。  もちろん、なろうの累計ランキングベスト10に居続けている、蘇我捨恥『異世界迷宮で奴隷ハーレムを』みたいな作品とかについて話すとなると、かなり色々と厳しいところがある。全部読んだが、本当にタイトルどおり異世界に行って、女の子の奴隷を買って、ダンジョンを探索していく話だ。主人公がわかりやすい悪人なんかであれば、ヤクザもののような、ある種の特殊な世界を描いた小説として切り離して読めるのでまだ良かったのだが、主人公は平凡で善良な日本人の青年だということになっていて、奴隷にも対等(?)で優しく、奴隷から愛されている「善良な」奴隷主をやっている話だ。主人公は読者にとって遠い存在として描かれているというよりは、読者の欲望を代行する存在として描かれている側面がどうしても強い。それも含めて、やはりこれは、露骨な欲望ダダ漏れ小説なのではないかという感触がエゲツない。 「書いてるほうも読んでるほうも、そこらへんの準ポルノ的な性質は、もちろん、わかって書いてて、わかって読んでますよね!?」ということに同意が得られる状態なのであれば話は簡単だと思うのだが、いかんせん、ここらへんの細かい話は複雑になりがちだ。  ハーレムものの反対で、イケメンにかこまれる逆ハーレムの令嬢モノというのもあるが、そういうものを見たら「これは、女性の欲望の話ですよね」と、多くの人が感じると思う。ハーレムものも、それと同様で「これは、男性の欲望の話ですよね」と言われたら、「まあ、そりゃ、そういう風に思われるよね」で、みんな納得してればいいのだけれども、どうも、そうなっていない。  「いや、でもこの作品はそれだけじゃない…!」みたいなことを言い出したりする人もいるし、「うーん、これは…微妙…男性側の欲望…と言えなくもない…?かな?どうだろ?」みたいなボーダーラインケースも多数ある。そしてボーダーラインケースについて、過激な主張をする人が出てくると議論に収拾がつかなくなる。 もっとも、なろう作品のハーレムもの(ないし逆ハーレムもの)については、ボーダライン上の作品もないとは言わないが、露骨に性的欲望の溢れ出た作品もかなり多い。そういった露骨な作品について「性的な欲望を満たす作品ではない」という主張をする気もないし、それは望ましくもない。
     加えて言うのであれば、もし問題化するのであれば、個別の作品がどうこうというより、ジェンダーへの想像力が失われやすいメディア環境が総体として構築され、読者が批判を受け入れる感覚がなくなってしまうのは望ましくないと思っている。たとえば、映画の中でジェンダーバイアスを測る基準である、ベクデル・テスト(注1)というものがある。これは(1)少なくとも2名の名前のある女性が出てくる。(2)女性同士が互いに会話をする。(3)男性以外のものを話題にする。という3つの基準を測るもので、ベクデル・テストは個別の作品のジェンダーバイアスを論じるためには必ずしも妥当な基準だとは言えないが、おおまかな基準としては理解がしやすいため解釈にブレが生じにくいという意味で、信頼性(注2)の高い調査をしやすい基準である。この基準をもとに「ベクデル・テスト・コム」(注3)というユーザーが編集できるサイトで、実際に7800個以上の作品がチェックされ、データとして可視化されている。
    Source: Robin Smith(2017),”Sizing Up Hollywood&#39s Gender Gap” (注3)http://bechdeltest.com/
     このデータを見るとわかるとおり、昔の映画は明らかにベクデル・テストの結果が悪い。1970年代前半の映画でベクデル・テストに合格しているのはわずか四分の一程度だ。1970年代に比べれば、2010年代の状況はマシだ。1970年代のメディア環境は、2010年代のメディア環境よりも、ジェンダーバイアスのことに思いを至らせるのが相対的に難しい状態にあった可能性が高い。 個別の作品についてどうこうというよりも、全体的なメディア環境をこのような指標を立てながら論じていくことができればよいと思う。重要なのは、個別の作品よりも、人々の想像力を生み出すトータルなメディア環境のあり方ではないかと思う。なろう小説などが、総体として、ジェンダーやセクシュアリティの多様性や、敏感であるべきポイントへの想像力を失わせるように機能してしまうことがあるのであれば、それは望ましくない。
     以上のことを踏まえた上で本題に入る。
    利得の切断
     ゲームというメディアは、しばしば欲望を表出することをよしとするメディアである。RPGでキャラクターを育てて最強になろうが、ギャルゲーでハーレムエンドを目指そうが、『シヴィライゼーション』で帝国主義を展開しようが、『メタルギア・ソリッド』で敵兵士を虐殺してまわろうが、好きにして良い。むしろ、その欲望が叶えられていくプロセスを楽しむことこそが、ゲームを楽しむことと、しばしば同義である。  もちろん、『moon』『Undertale』『mother』など、そうした状況を批評的/批判的にとりあげる作品も一定数あるので、すべてのゲームメディアが、欲望を丸出しにすることを肯定しているとまでは言えない。ただ人文学者がゲームについて語る時、欲望を丸出しにすることへの「批判」はしばしばなされるし、海外のゲーム研究でも多数の議論がこうした素朴な欲望への批判が議論されている。  ただ、『moon』や『Undertale』はあくまでも、メインストリームに対する「批判」として機能している作品であって、ゲームシーンのメインストリームは、やはりゲームプレイヤーの欲望を叶えていくプロセスを肯定するものが多い。  敵がうざいから、殺す。虐殺してもよい。  女の子がかわいいから、落とす。ハーレムでもよい。  国を大きくしたいから、周辺諸国を征服する。帝国をつくりあげてもよい。  こういった欲望を実行するというのは、我々の日常的な倫理観からすれば、かなり問題のあることだ。しかし、ゲームのなかで、これは許される。  これが許される理由の一つは、これらの行為が「本当」になされるわけではないからだ。少なくとも、我々の生きる日常的な現実の利得とは切り離されたところに、ゲームプレイヤーの欲望は成立させられている。  ゲームをはじめれば、遊び手は一次的現実とは切り離され、特殊な目的を設定され、任意のルールのなかでインセンティヴ構造を与えられる。一次的な「本当」の現実とは別の、二次的な現実のなかでの行為であるというのが、ゲームを遊ぶときの前提である。ゲームのなかでゲーム内通貨を得ても、普通は円やドルに換金できるわけではない。  ゲームを遊ぶということは、特殊なルールを受け入れる、そこが特殊な時空間であることを受け入れることだ。ゲーム内の人々の行為のインセンティヴは、現実世界には即さない。勝利を大目的とした階層化した目的構成にしたがって、プレイヤーはどのような振る舞いをするのかを選ぶ。  ここでは振る舞いの特殊性も同時に成立している。これらは、ゲームというメディアの特質がそもそも持ってしまっているものだ。それが、ゲームという二次的現実において、「帝国主義的」であったり、「非人道的」とされる振る舞いが許される(場合によっては、積極的に推奨される)ことの理由だ。それゆえに、ゲームにおいて、「ゲームが設定したインセンティヴ構造」にしたがって動くことは、恥ずかしいことでも悪でもない、ある意味で普通の行為だ。町中で人を銃殺すればそれは犯罪だが、FPSで敵を銃殺するのはふつうの行為である。もし、ゲームプレイヤーの行動が、一次的現実の観点から見た時に「恥ずべきもの」であるのならば、それは少なくともゲームプレイヤーのだけの責任ではない。それはゲームのインセンティヴ構造を設計したゲーム制作者との共犯である。  一次的現実から切断された環境のなかで行為するとき、プレイヤーはゲームの構造が要請する欲望の代理人でもある。RPGで敵を殺したがっているのは、プレイヤーなのか、ゲームの構造なのか。明確な区別は、ふつうできない。  ここでは、プレイヤーの欲望や行為は日常の利得から切断されている。この切断を「利得の切断」と呼んでおこう。  この利得の切断が生じている状況下において、プレイヤーが殺人をしたり、他国を征服したり、ものを盗んだりしても、プレイヤーにとっては特殊な行為をしたという感覚にはならないことのほうが多いだろう。
    主体の切断
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第29回 第三章 補論:節電ゲームの連続的な学習プロセス

    2018-10-11 09:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は「節電ゲーム」からゲームという現象を考えます。コストダウンにも環境保護にも関心がない、電気使用量の記録更新だけを目指す「節電バカ」たち。彼らの情熱が生み出すゲーム的学習プロセスを読み解きます。
     学習説に関わる長い長い三章が終ったので、ここまでの簡単な復習とケーススタディ的な意味を兼ねて、いつもよりは、相対的にふんわりとした話を挟ませていただきたいと思う。
     ケーススタディの例としては、手前味噌で恐縮だが、節電のゲームの話をさせていただきたい。筆者は、自宅の電気使用量を測りながら節電に励むゲーム(というか、節電支援ツール)である『#denkimeter』を作って以後、境界例としてのこのゲームの現れの面白さをいろいろなレベルで感じている。
    ▲#denkimeterの遊び方
     節電自体は、そもそもとして「ゲーム」であるわけではない。「ゲーム」だと思えばゲームになる。そういう現象は、日常のなかに溢れているが、節電もまた、そのようなものの一つだ。  ここまで論じてきた概念を使うのならば、節電のゲームは、ゲームとゲームでない時空間や意味を区切るためのどちらの境界もぼんやりとしている(二次的現実/二次的フレームの曖昧性)。これはゲーミフィケーション的な事例のほとんどがもっている性質だ。その意味で、節電のゲームは「ゲーム」概念としては境界例として位置づけられやすいものだ。 筆者は、電気使用量を測りながら、クリアにフィードバックが出てくることがきっかけで、節電をゲームのようなものとして楽しめるようになった。「電気使用量を下げる」というシンプルでクリアなルールがあるし、節電のために行える創意工夫のバリエーションは数限りなくなる。こうした性質ゆえ、節電はゲームのような行為であるという認識をもたらすこと自体は、それほど難しいものではない。 そして、素朴な実感として「節電は楽しい」と思っている。  節電が楽しく見えている風景とはどのようなものか。そこからみえる風景をいちど、伝えたうえで、改めてこのゲームを遊ぶときに現れる特質について論じることにしよう。
    節電バカとは何か
    さて、筆者は二〇一一年の震災のときに節電ゲームを作って以来、一時期はそれなりの「節電バカ」だった。ここでいう節電バカというのは、節電をすること自体が好きだということであって、節電の結果として、お金を節約されることが好きだということではない。  たとえば、節電バカであれば、月々20円ぐらいの節電をするために、2万円を投資するような行動をとる。コストで考えれば、同じ家に住み続けたとしても投資した費用を回収するのに83年はかかる計算になる。不経済なこと極まりないが、節電バカにとっては、お金を節約できるかどうかが重要なのではなく、節電のスコアを上げることができるかどうか、ということが重要なのである。  つまり、ここで言う、節電バカとは、節電を節約のためにやっているのではなく、節電そのものをゲームの一種として楽しんでいる人々のことだ。
    ▲筆者の自宅の電気代の記録。一月753円。
    「節電バカ」は大震災以来、(おそらく)増殖中であり、節電バカが出版した本も出ている。朝日新聞に勤める斎藤健一郎氏による『5アンペア生活をやってみた』(二〇一四、岩波書店)などはその好例だろう。(斎藤さんすみません)  そもそもこの本のタイトルである「5アンペア生活」と言われても、節電バカ以外にはピンと来ないだろうが、「5アンペア生活」はかなりヤバい。 そもそも、自分の家の契約アンペア数を気にしたことのない人のほうがマジョリティだと思うが、東京電力と契約している一般家庭は30アンペア~60アンペア契約の家庭が多いだろう。東京電力との契約可能な最低アンペア数が5アンペアである。人が居住していない倉庫とかを想定しているような契約アンペア数だ。 5アンペア生活は、単純なはなし、500W以上の家電を使うと、その瞬間にブレーカーが落ちる。電子レンジ、アイロン、ドライヤー、電気ケトル、オーブントースターなどは完全に使えなくなる。エアコンも、実質的にほぼ使えないに等しい。正直なところ、過酷な節電ライフになりやすく、一般人向けであるとは言い難い。  筆者の場合、さすがに5アンペア生活は厳しいので、関東で一人暮らしをしているときは、15アンペア契約にしていた。15アンペア契約であれば1500Wまでの家電が使える。贅沢な家電でなければだいたいは問題ない。ただ、エアコンを使いながら、電気ケトルを使ったりするとブレーカーが落ちる可能性が高い。そのため、電気使用量の大きい家電について、常に何と何が稼働しているのかを意識しながら生活をする必要はある。正直、そこまで極端な不便さはない。もっとも、少しだけ不便なのは事実なのだが、節電ガチ勢にとっては、15アンペア契約は、難易度「easy」ぐらいのゲームに常にチャレンジしているような心地よさがある。(5アンペアは、難易度「extra hard」モードである)
    「節電」自体が楽しいのか、「節電」の試行錯誤のプロセスが楽しいのか
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