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第十一章 主体――読み取りのシステム|福嶋亮大(前編)
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第十一章 主体――読み取りのシステム|福嶋亮大(前編)

2024-03-14 07:00
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    1、一か二か

    ルソーが自伝文学『告白』の冒頭で「わたしひとり。わたしは自分の心を感じている。そして人々を知っている。わたしは自分の見た人々の誰とも同じようには作られていない」と大胆不敵に宣言したことを典型として、近代ヨーロッパの文学は唯一無二の創造物である「私」の探究に駆り立てられてきたように思える。故郷喪失に続く冒険を小説の基本的なテーマと見なしたジェルジ・ルカーチも、結局は「一」なる主体をその核に据えていた。

    柄谷行人が指摘したように、近代小説の根幹には「内面の発見」がある[1]。これは、他者や環境から区切られた内面が、小説の探究すべき対象になったことを意味する。ルソーの『告白』は、まさに「私」を他に依存しないスタンドアローンな存在に仕立てあげた一種の独立宣言である。

    古代文学と比較すると、ルソーの宣言の意義はいっそうはっきりするだろう。例えば、古代のホメロスの叙事詩では、英雄たちの心は閉じた自我のなかに格納されず、環境の作用を強く受けていた。ホメロス的人間とは「周囲のあらゆる力の影響から人間を隔絶する境界をもたない、いわば「開かれた力の場」」なのだ[2]。逆に、カメラ・オブスクラのモデルに近似する近代小説のリアリズムは、自我の感覚の部屋(=カメラ)を、この種のボーダーレスな「力の場」から切り離した。それによって、小説は唯一無二の「私」の自己認識を深める装置として進化してきた。

    ルカーチも柄谷も、「一」なる主体を近代小説の主人公の標準的形態として捉えたことに変わりはない。しかし、このモデルには修正の余地がある。というのも、小説的な主体性は実は純粋な「一」ではなく、早期から「二」への傾きを備えていたからである。

    その具体例には事欠かない。『ドン・キホーテ』(ドン・キホーテ/サンチョ・パンサ)、『ペルシア人の手紙』(ユズベク/リカ)、『新エロイーズ』(ジュリ/サン゠プルー)、『ラモーの甥』(ラモー/哲学者)、『ロビンソン・クルーソー』(クルーソー/フライデー)、『闇の奥』(クルツ/マーロウ)、『ロリータ』(ハンバート/ロー)、日本文学で言えば夏目漱石の『こころ』(先生/K)、大江健三郎の『万延元年のフットボール』(蜜三郎/鷹四)、村上春樹の『風の歌を聴け』(僕/鼠)等では、単一の主体ではなくカップルが中心化される。さらに、ルソーの『ルソー、ジャン゠ジャックを裁く』、ドストエフスキーの『分身』、E・A・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」、E・T・A・ホフマンの『砂男』、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』をはじめ、自己を二重化する分身(ドッペルゲンガー)のテーマも、特にロマン主義以降に何度も反復されてきた。

    だとすれば、小説の主体性を「一」に還元するのは妥当ではない。小説はいわば「二」のウイルスに感染しており、それが折に触れて症状として顕在化するのだ。この「一」と「二」のあいだの振幅は、小説そのものの特性と切り離せない。なぜなら、小説における「私」は他者との接触なしにはあり得ないからである。「小説は演劇ではないのだから、すべての人物を厳密にいって同時に、読者に《見せる》わけにはいかない。小説においては、人物は相互に他の人物を通してみられるのである」(ジャン・プイヨン)[3]。小説の自我(ego)は他我(alter ego)の介入を必要とする。そこに、「一」なる主体が潜在的に「二」への分裂を含む要因がある。

    ミハイル・バフチンは、小説における他者の介入に「対話的」という形容を与えた。バフチンの理論では、小説は複数の声の遭遇や衝突の場として了解される。ただ、私は「二」を「対話的」というより「読解的」な問題として考えたい。結論から言えば、近代小説は他者や世界を読むことの発明と不可分だからである。以下では「一」と「二」のあいだをさまよう主体の歴史を整理しながら、小説的主体を《読み取りのシステム》として把握することを試みる。まずは「二」の問題から始めよう。

    2、書簡体小説の啓蒙的機能――近況報告あるいは権力のホログラム

    一八世紀ヨーロッパを代表する小説が書簡体で書かれたことは、コミュニケーション(自我と他我のカップリング)が近代小説の基盤にあることを示唆する。もともと書簡文学の伝統は、医師ヒポクラテスの名を冠した古代の架空の書簡集(ヒポクラテス・ロマン)や中世の『アベラールとエロイーズ』等にまで遡れるが、一八世紀になるとそれは啓蒙思想の有力な手段として再創造された。

    書簡体小説の金字塔と呼ぶべきモンテスキューの『ペルシア人の手紙』は、ヨーロッパとアジアのあいだの異文化コミュニケーションを主題としながら、開明的な貴族ユズベクと若く生気に満ちたリカという二人のペルシア人を対比的に登場させた(第三章参照)。モンテスキューはここでペルシアとフランス、年長者と若者という二組のカップルを交差させたが、それを手紙というテレコミュニケーション・メディアで実行したところに彼の創意工夫がある。

    モンテスキューの創作した手紙は、カップルを結びつける一方、その両者の差異や異質性も浮き彫りにする。モンテスキューは異邦人の仮面をかぶり、フランス社会に対してわざと無知のふりをすることによって、その体制に加担せず、悪しき因習を暴露した。バフチンによれば、この「変わり者」の人物像の「分からない」という態度こそが、モンテスキューの発明であった[4]。小説とは分からないこと、不可解であること、愚かであること、変わり者であることを積極的に利用して、社会の自明性を懐疑するジャンルである。『ペルシア人の手紙』の大量の通信は、まさに変わり者=異邦人の態度に根ざしながら、見慣れた社会を見慣れないものに変えた。

    さらに、モンテスキューの書簡体の採用には、明確な方法論的な企図があった。彼自身、書簡体小説の利点を具体的に説明している。

    そもそも、この種の小説は、たいてい成功を収めるものだ。なぜなら、人物がみずから近況を報告するからである。このやり方は、人が語ることのできるどんな物語よりも、きちんと情念を伝えてくれる。〔…〕書簡集の形式では、役者たちは決まっておらず、扱われる主題は前もってあたためられたどんな意図や計画にも左右されないため、一つの小説に哲学や政治や道徳を盛り込み、全体を秘密の鎖で、ある意味では未知の鎖で束ねるという特権を著者は手に入れたのだ。(「『ペルシア人の手紙』に関するいくつかの考察」)

    現代のEメールやインスタントメッセージでも、そのやりとりはほぼ「近況報告」によって占められている。この種の報告では、語りの首尾一貫性や事前の入念の計画性よりも、相手にそのつど情報や感情を伝える即興性が優位に立つ。モンテスキューは架空のペルシア人たちがパリの異文化に出会ったときの新鮮な驚きを擬態し、脱線もおおらかに許容しながら、哲学や政治の話題にフレッシュな生命を与える。思想をその誕生の瞬間に差し戻すこと――それが書簡体小説の効果である。

    その一方、モンテスキューは書簡が届くまでの「時差」も巧妙に利用していた。フランスとペルシアの遠さゆえに、ユズベクが故郷に手紙で発する命令は遅延し、有効に機能しない。そのため、彼は絶対的な権力者であるにもかかわらず、ペルシアのハーレムで起こった女たちの叛乱を制御できない。この無力さは、彼が手紙の通信のなかでのみ立ち現れる、いわばホログラム的なヴァーチャル・リアリティ(VR)であることに起因する。

    そもそも、パリでアイドルとなった若いリカとは違って、年長のユズベクは消費社会の見かけ(仮象)に騙されないように警戒している。つまり、ユズベクにはオーセンティックなもの(本物)への意識がある。しかし、手紙で語られる自己とは、むしろ記号的な「見かけ」しかないホログラムに似た存在ではなかったか。手紙は他者を操作し、望ましい状況を作り出そうとするが、その戦略はたやすく誤解されたり改竄されたりする。いかなる強大な専制君主であっても、見かけだけの《手紙内存在》として現れるときには、そのリスクを回避できない。ここには本質的な脆弱性がある。

    要するに、手紙は権力の増減、権力のキャンセル、権力のねじ曲げの発生する戦場であり、書簡体小説とは権力を乱高下させるゲームなのである。テリー・イーグルトンはそれをうまく説明している。

    手紙は、主体の秘密をあかすもっとも生々しい記号であるがゆえに、干渉を受け、捏造され、奪われ、失われ、書き写され、引用され、検閲され、パロディにされ、曲解され、書きなおされ、からかい半分の注釈にさらされ、別のテクストに織り込まれることによって意味の変質をこうむり、書き手が予想だにしなかった目的のために使われる。[5]

    現代でも、流出したメールは週刊誌的なゴシップの格好のネタになる。手紙は人間の隠された秘密を生々しく語る一方で、他者によってたやすく曲解されパロディにされ、権力者の威厳を失墜させる。一言で言えば、手紙とは神経過敏なメディアであり、限りなく「私」に近いのに、同時に「他者」の干渉にさらされている。

    このような手紙の特性を踏まえると、モンテスキューが書簡体小説を啓蒙のプロジェクトに利用したのも、当然と言えば当然のことに思える。改めてポイントを二つにまとめよう。

    第一に、手紙はよそもの(他者)の目から見た即興的でタブーのない近況報告によって、フレッシュな社会批評となる。比較人類学的な思想書『法の精神』の著者らしく、モンテスキューは『ペルシア人の手紙』でも法や文化の相対性を読者に強く意識させる[6]。ヨーロッパからペルシアを観察し、ペルシアからヨーロッパを観察する『ペルシア人の手紙』は、他者に自己を映し出すプロジェクトの記録にほかならない。しかも、このプロジェクトを支える手紙は、しばしば接続不良に見舞われ、混乱を助長するのだ。

    第二に、手紙はその送信者を脆弱なホログラムに変える。権力者ですら、その例外ではない。書簡体小説では、他者がいなければ自己もない。つまり、送信者も受信者も、他者の地平のなかに、自己を出現させなければならない。相手からの返信によって、自己がどんな人間かがはじめて了解される。だからこそ、発信者は受信者の思想を占拠し、望ましい自己をそこに出現させようとする。他者を支配することと他者に支配されることが、次第に見分けがたくなること――そこに書簡体小説の特性がある。

     
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