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第6回 『スペースインベーダー』という転換
(前回までのあらすじ)
かつてナチスドイツからの迫害を逃れて新旧大陸に渡った亡命ユダヤ人たちの営みは、
マンハッタン計画による原爆投下後の日本に、進駐軍カルチャーの受容口として
セガやタイトーといったアーケードゲーム企業をもたらし、高度経済成長後は
『ポン』や『ブレイクアウト』の模倣から自社製ビデオゲーム開発を開始した。
一方、よりドメスティックな出自を持つ任天堂やバンダイ、エポック社といった
タイプの異なる玩具企業たちもまた、「ODYSSAY」を参考にそれぞれ競って
「パドルとボール」式のテレビゲーム機のブームを起こす。
このように1970年代半ばにはアーケードと家庭用玩具の双方で、
アメリカ産ビデオゲームの移入が完了し、国産化の環境が整った。
■“ビッグ・ブラザー”正力松太郎と日本ゲームの特性
前田竹虎がエポック社を創設して「野球盤」を発売した1958年は、アメリカではちょうどアバロンヒル社が設立されウォーシミュレーションゲームの祖『Tactics』が発売され、さらにはウィリー・ヒギンボーサムが『Tennis for Two』を開発した年でもあった。その開発までに至る技術史的な環境を構築したビッグ・ブラザー的な人物として、マンハッタン計画以来の国家科学体制を構築したヴァネヴァー・ブッシュの存在感が際立っていたことは、第1章(※本連載では割愛)に述べた通りだ。
それでは日本の場合も、それに対比させうるような存在があるだろうか。
一人名前を挙げるとするならば、その座に納まるべきは、昭和の巨怪として各界で権勢をふるった、正力松太郎をおいて他にない。戦前は警視庁のキャリア官僚として反体制勢力を取り締まっていたが、大正13年(1924年)に発生した摂政宮(のちの昭和天皇)の暗殺未遂(虎ノ門事件)を防げなかった咎で懲戒免職。その直後に読売新聞の経営権を買収して社主となり、昭和9年(1934年)にはアメリカ大リーグ選抜チームの招聘を機に読売巨人軍を創設して「プロ野球の父」となった男である。
戦後はA級戦犯として巣鴨プリズンに収監されるも、そこでCIAの意を受け、大新聞社の主として国内世論を親米に誘導し、日本の共産化を防止するためのエージェントとなる密約を交わす。そして1947年の釈放後は、“宗主国”アメリカの思惑と日本の国益、および自らの野心とを絶妙に差配しながら、アメリカと同じNTSC方式によるテレビジョン放送網の実現に尽力。日本放送協会(NHK)に先がけて、1952年には初の民間放送局となる日本テレビを開局して「テレビ放送の父」となる。これを皮切りとして、日本の民放テレビでは大手新聞社が全国の地方局ネットを系列化する形態が一般化したのである。
さらに1955年の保守合同(いわゆる55年体制)で誕生した自由民主党のキーパーソンとして、正力は衆議院議員に当選。翌56年には、原子力委員長および初代科学技術庁(現:文部科学省)長官に就任し、日本における「原子力の父」の役を買って出る。その動機は、有馬哲夫の史料調査によれば、メディア王としての正力の宿願であったマイクロ波通信網の実現を目指し、自ら総理大臣に上りつめるための手段として、原発導入という実績を作ろうというものであったという。そのため、第五福竜丸被曝事件の影響で反核・反米ムードに沸いていた当時の世論を転換させるべく、読売新聞に強力な原発導入キャンペーンを張らせたりもしている。
このように正力がアメリカとの丁々発止の関係の中で輸入した原子力・テレビ・プロ野球は、いずれも日本にテレビゲームが登場する不可欠な社会的前提を提供したものだったと言える。つまり、原子力と双子の関係にあるコンピューター技術の鬼子として「パドルとボール」式ゲームが生まれ、テレビ放送を侵犯するクールなメディアとなり、プロ野球の人気が育んだエポック社が先鞭をつけて、その商品化が進んでいった。ちょうどアメリカにおけるコンピューターゲームの発展が、ブッシュの築いた技術体制を換骨奪胎し、ゲリラ的に組み換えていく歴史であったように、日本のテレビゲーム史もまた、正力が築いた戦後大衆の欲望に基づく技術体制と娯楽文化を、意図されざる方向に塗り替えていくプロセスとして描出することができるわけである。