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【特別掲載】いま・ここに・潜る~宮藤官九郎、再生のシナリオ
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【特別掲載】いま・ここに・潜る~宮藤官九郎、再生のシナリオ

2013-09-06 19:16
    いま・ここに・潜る~宮藤官九郎、再生のシナリオ
    宇野常寛


      放映中のNHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」の勢いが止まらない。
      岩手県の三陸地方を舞台にした本作は、母親の離婚を機に当地を訪れたヒロイン・アキが祖母の後を継いで海女になり、そしてやがてそこで知り合った親友・ユイの影響でアイドルを志して行く、という物語だ。
      放送開始と同時に「面白い」という声がインターネットを中心に殺到し、はやくも劇中で登場人物が頻繁に用いる方言「じぇじぇ」は今年の流行語大賞の有力候補だとささやかれている。もはや人気朝ドラ・大河ドラマでは恒例行事になりつつあるTwitter上での二次創作イラスト投稿(通称「あま絵」)も盛り上がっている。話題になっている割に振るわないと言われていた視聴率も20%を超えることが多くなり、9月末の最終回に向けてその熱狂はクライマックスを迎えつつあると言えるだろう。9月には劇中で東日本大震災が発生する予定で、主要登場人物の死亡も十二分に予測出来る。震災後の日本をこの物語がどう描くのか、注目が集まっている。
      本稿ではそんな「あまちゃん」について、8月10日前後までの内容に基づいて分析を試みてみたい。

    ■宮藤官九郎はなぜ「地元」にこだわるのか

      本作の脚本を担当する宮藤官九郎は劇団「大人計画」所属の作家兼俳優である。同劇団の若手としてカルトな人気を博していた宮藤は2000年放映のTBS系ドラマ「池袋ウエストゲートパーク」以降、連続ドラマの書き手としてドラマファンの認知を受け、それまでとは異なる広いファン層を獲得していった。特にTBSのプロデューサー磯山晶とのコンビでは、ジャニーズ事務所所属俳優を主役にすえた作品を定期的に発表し、視聴率こそ特に目立った成果を残していないものの内容面に対するドラマファンの評価は極めて高く、映画などの続編展開やソフト販売においても良好な結果を残している。まさに、先の10年(2000年代)を代表するドラマ脚本家が宮藤だったと言えるだろう。
      宮藤×磯山コンビのドラマのキーワードは「地元」だ。「池袋ウエストゲートパーク」の「池袋」、「木更津キャッツアイ」(2002)の「木更津」、「タイガー&ドラゴン」(2005)の「浅草」、そして「吾輩は主婦である」(2006)の「西早稲田」など、特に2000年代前半~半ばには舞台となる土地が明確に設定されており、その土地やコミュニティに対する登場人物の思い入れ、拘泥がドラマを牽引することになる。
      しかしその一方で宮藤がこれらの作品で描く「地元」は、それこそ数多くの「朝ドラ」がこれまで描いてきたように「消費社会で忘れ去られようとしている人間の温かみのある歴史と伝統の街」といった物語をストレートに引き受けたものではない。むしろその逆で、こういった「物語」が実のところまったく意味をなさないもの、機能しないもの、嘘であるという認識からスタートしている。
      たとえばこれは有名な話だが、「木更津キャッツアイ」は企画当初「柏キャッツアイ」だったという。要は、東京のキャストとスタッフを前提としたロケ事情が許す範囲の郊外都市であれば「どこでもよかった」のだ。
      北は北海道から南は九州・沖縄までロードサイドにファミレスとパチンコ屋とマクドナルドとブックオフと、そしてイオンのショッピングセンターが並ぶ……。消費環境の画一化が地方の風景をも画一化し、その文化空間をも画一化していく。三浦展のいう「ファスト風土化」を「前提」に宮藤はその「地方」への「地元」へのアプローチを行ってきたのだ。
      したがって宮藤の描く「地元」は歴史や伝統が個人の人生を意味づける空間ではあり得ない。たとえば「木更津キャッツアイ」で、主人公の無職青年たちのグループがあの「ファスト風土化」した、「何もない」木更津という空間を愛するのは、そこが「仲間内の記憶」にとって重要な場所であるからであり、そして同様に仲間内で愛好されるサブカルチャーに由来する場所(劇中には氣志團や加藤鷹、哀川翔が実名で登場し、木更津の何でもない場所に記念碑を刻んでいく)だからだ。つまり自分たちで捏造した偽史を流しこむべき器として「地元」は機能しているのだ。
      「土地」やそこに紐づいた歴史ではなく、今、ここに生きている仲間たちの記憶とサブカルチャーの生む「偽史」で地元での日常を彩ること。これが初期作品における宮藤のアプローチだった。
      この傾向をより推し進めたのが宮藤×磯山コンビによる次作「マンハッタンラブストーリー」だった。これは六本木のテレビ局の関係者が集う喫茶店「純喫茶マンハッタン」に集う人々の恋愛模様を描いたコメディだ。タイトルに「マンハッタン」という地名が入っているが舞台は当然マンハッタンではない。さらに言えば実際の舞台となっている六本木という土地の歴史と物語との関係は限りなくゼロに近い。そして登場人物の大半がテレビ関係者であり、彼らのコミュニケーションは主にテレビや芸能界、懐メロを中心としたサブカルチャーのデータベースの共有によって成り立っている。(さらに深堀すれば、この物語はそんな彼らがロマンチック・ラブ・イデオロギーを信仰しながらも、次々と気持ちに変化が訪れてパートナーをとっかえひっかえし、家族もどんどん流動化していく、という物語である。同作は、土地にも歴史にも家族にも根拠がなくなってしまい、誰もが信じたいものを信じるしかなくなった底の抜けた世界を限界まで追求した作品だと位置づけることができる。)
      しかしその反動か、宮藤×磯山コンビはさらにその次作「タイガー&ドラゴン」で、浅草に根付いた(比較的に)伝統ある落語家の大家族によって孤児の主人公が居場所を発見する物語を感動的に描き出している。こうした「歴史」や「伝統」への視線は「池袋ウエストゲートパーク」や「木更津キャッツアイ」でもゼロではなかったものの、前面化したのは本作がはじめてのことだった。
      以降、宮藤の描くドラマは「土地」や「家族」といった既に古びた概念を、これまで培ってきたノウハウを駆使して(たとえばサブカルチャーのデータベースとの戯れと、それに支えられた血縁を伴わない疑似家族的共同体への期待、など)再生し、その概念を拡張する方向に舵を切ったように思える。
      たとえば東野圭吾原作を大胆にアレンジした「流星の絆」がそうだった。同作で宮藤は東野原作にはないいくつかのモチーフを前面化している。たとえば、主人公兄弟が血のつながらない妹に抱く疑似近親姦的な愛情や、主人公と昔なじみの刑事との疑似的な父子関係がこれにあたる。そして同作のテーマは、過去の犯罪で家族を失った主人公たちがこうした要素を乗り越えて/用いて、いかに「家族」のイメージを拡大していくのか、伝統的共同体や家父長制的イデオロギーを超えた多様であたらしいイメージの家族に拡張していくのか、ということだった。
      この発展形にあるのが、おそらくは「11人もいる!」(2011)だろう。震災後に宮藤が手がけたはじめての連続ドラマとなった本作では、「ビッグダディ」をモデル(?)にした大家族が、叔父や祖父はもちろん、最終的には新妻の元彼や死んだ前妻の幽霊まで包摂し、無限拡張してゆく「拡張家族」のイメージが大胆に提示された。

    ■「地元」と「家族」の朝ドラ史

      そして「あまちゃん」に話を戻そう。私見では「あまちゃん」を読み解くときに最大の手がかりとなるのが宮藤がこれまでの連続ドラマ作品で培ってきた「地元」や「家族」への視線に他ならない。
      そもそも「朝ドラ」とは言ってみれば戦後日本の生んだ「不機嫌な娘たち」(上野千鶴子)の象徴だ。「建前」としては自己決定して、好きな人生を選びなりたいものになれないいと言われるその一方で、専業主婦という定番のコースが「標準」として機能し、母になることをを強制されていた「戦後」社会において、そんな「不機嫌な娘たち」を視聴者に選び続けてきたのが「朝ドラ」である。その内容は女性の社会進出を反映し、あるいは応援しながらも、実際に男性のようには生きられない女性たちの現実をどこかで肯定しなければならないという矛盾を常に抱えていた。(しかし、この問題は平成不況以降の「後ろ向きの男女平等」(水無田気流)つまり、男性労働者の多くが非正規雇用に転落することで、女性との自己実現ハードルの高さの格差が縮まることで解消に向かいつつある、とも考えられる。)
      さらに近年ではここに加えて、「朝ドラ」の「町おこし」的な側面が内容に大きな制約をかけることになった。その結果、多くの場合、近年の朝ドラのヒロインの多くが「明るくて爽やかでまじめで、賢すぎず思慮が浅すぎず、教師や看護師など比較的誰からも悪く言われない夢を持ち、そして地元とおじいちゃんおばあちゃんが大好き。そして恋には鈍感」といったほとんど地球外生命体のような、少なくとも現代劇のリアルな人物設定としては到底考えられないご都合主義的な設定を与えられることも多かった(「天花」「わかば」「ファイト」「瞳」「だんだん」「ウェルかめ」等々……)。そして、こうしたご都合主義的な設定を生かした、破天荒な展開を選択しづらいのが「朝ドラ」なのだ。
      こうした「家族」像と「地元」像の変化と、それに伴う諸々の設定が、「朝ドラ」という装置を機能不全に追い込むことが目立っていたのが、2000年代の朝ドラ事情に他ならない。もちろん、これらの制約を批評的に逆手に取ることで傑作と言われる作品となったもの(「ちゅらさん」「ちりとてちん」)や、戦後の女性の自己実現を描いた現代劇という制約を排除した異色作(「カーネーション」など)も多い。しかしこうしたすぐれた作品たちの存在が逆説的に「朝ドラ」が、いやいまだに「戦後」的社会観で生きる人々の多く(とくに中高年層)の多くが前提にしている「地元」や「家族」の像が古びてしまったことを証明してしまっているのも間違いない。

      そして「あまちゃん」はまさにこの壊れた(戦後的)「家族」と「地元」からはじまっていく。
      ヒロイン・アキの育った家庭は、物語冒頭で崩壊している。アキの母である専業主婦の春子が夫である政宗と代わり映えしない日常の「つならなさ」に耐えかねて、アキを連れて実家である北三陸に帰る場面から物語ははじまる。春子は戦後日本の、とくにバブル期に日本人が観た夢とその敗北の象徴だ。
      戦後復興から奇跡の高度成長、そしてバブル経済――戦後社会の「右肩上がり」の神話を信じ、どこまでも伸びていけると信じていたあの頃の日本は、そして春子はこの二十年で決定的な敗北を味わうことになる。アイドルを夢見ていた春子は夢破れて凡庸な(戦後的核家族の)専業主婦になり、二十年の歳月を経て離婚して故郷に戻ってくる。そしてその春子が上京に用いたローカル線(北三陸鉄道)は当時(80年代半ば)こそ、地域の発展の象徴として期待されていたが、この「失われた20年」の景気悪化とライフスタイルの変化(モータリゼーションの浸透)で廃線寸前に追い込まれている。あの頃(春子が上京した80年代半ば)僕らが夢見ていた「明るい未来」は来なかったのだ。
      それどころか、気が付けば戦後的核家族は(思想的にも労働環境的にも文化的にも)否定され、アキの家庭は崩壊している。そして戦後的な「地元」経営(劇中では描かれないが一次産業と土建屋と保守政党の三角形で構築された利益誘導システム)は崩壊し、閑散とした過疎の「地方」だけが残っていることになったのだ。

      しかし、そんな「地方」に希望はないのだろうか?
      答えは「否」である。宮藤官九朗はこれまで培ってきたノウハウを総動員して「家族」と「地元」に新しい可能性を見出していく。それが「あまちゃん」なのだ。
      劇中に登場するアキの親友・ユイはかつての春子をトレースする存在、戦後的なものをトレースする存在だ。だから彼女の敗北は運命づけられている。「ここではない、どこか」に行くことで自己実現を果たそうとすること、上に、大きく伸びることで何かを得ようとするユイが春子の轍を踏むことは最初から決まっていたのだ。対して、ヒロインのアキは「いま、ここ」に「潜る」。これが宮藤の発見した「地元」への態度だ。たとえそれが「何もない」街だったとしても、木更津と柏の区別すらつかないような街でも、「いま、ここ」にあるものをその場のコミュニティを充実させ、サブカルチャー(アイドル)の力を用いればそこを後付けで意味のある街に、何かの「ある」街にすることができる――。「あまちゃん」北三陸編のメッセージの中核はここにある。だからアキは海女になって――いまや観光客向けの「見世物」でしかない(後付けの装飾に過ぎない)海女に「扮して」(もともと東京生まれ東京育ちのアキにとって北三陸は地元でもなんでもなく、彼女の方言もつくりものだ)その場の海に「潜る」。ここではない・どこかに行くのではなく「いま・ここ」に「潜る」のだ。
      したがって、アキとユイがやがて地元アイドルとしてデビューし、ブレイクする展開も当然の流れだと言える。北三陸という「何もない」場所に「潜る」には後付けのサブカルチャーの力が必要だからだ。

      アキとユイの力で「地元」は再生する。そしてふたりは東京の芸能事務所のスカウトマンの目に留まり、アイドルを志して上京することになる。ただし、実際に上京するのはアキだけだ。ユイは上京前夜に県議会議員の父親が倒れ、そしてその衝撃で母親が失踪、家庭が崩壊したショックで上京のチャンスを失いすっかり「グレて」しまう。しかし前述の通りこの物語の世界観でユイが上京「できるはずがない」のだ。なぜならば「あまちゃん」の世界は春子が既に挫折しているように、北三陸鉄道が廃線寸前に追い込まれていることからも明らかなように既に春子=ユイ的な戦後的自己実現モデル、「ここではない、どこか」に旅立つことで、右肩上がりの成長を獲得することで自己実現を果たす、というモデルがが破綻した世界だからだ。
      そしてアキはひとり東京へと旅立つことになる。

    ■アイドルの語る(ポスト)戦後史

      上京したアキはGMT47と呼ばれるプロジェクトに参加することになる。GMTとは「ジモト」の略で、これは47都道府県を代表するご当地アイドルを集結させよう、というプロジェクトだ。このGMT47にはふたつの意味がある。第一にこれはどこから見ても、国民的アイドルグループAKB48グループのパロディである。AKB48は東京秋葉原に専用劇場を持ち、2005年の発足から数年間大きなマスメディア露出をもたないままほぼ毎日行われる公演現場の集客とインターネットの盛り上がりで数十万規模の動員力を確保し、2009年後半ごろからマスメディア上でもブレイクしていった。同時期に名古屋、大阪、博多、そしてジャカルタ、上海と姉妹グループを次々と発足させ、内外に渡って地域密着型の展開を模索している。(おそらくはこの「あまちゃん」という作品そのものが、AKB48現象をモトネタに着想されたものだろう。)
      また同時にこのGMT48は「朝ドラ」それ自体の比喩でもある。それぞれの「地元」を代表するヒロイン=アイドルがマスメディア(テレビ)を通じてアピールする……GMT47は「朝ドラ」と「AKB48」という相反するふたつのものを同時に象徴しているのだ。一方は戦後的な社会の象徴であり、マスメディア、とくにテレビが「世間」を「社会」をつくっていたころの象徴的な番組だ。そしてもう一方はおそらくは戦後文化史において数少ないマスメディア(テレビ)の「生まなかった」この規模の社会(文化)現象であり、現在(インターネット以降)の文化の象徴の一つだ。
      ここまで論じれば「あまちゃん」という朝ドラのもつ射程がおぼろげに浮かび上がってくる。「あまちゃん」は過去と現在、戦後とポスト戦後、テレビ(の時代)とインターネット(の時代)、鉄道(の時代)とモータリゼーション(の時代)ふたつに分断したものをつなぐ物語だ。それはアキとユイ/アキと春子をつなぐ物語として、いま私たちの前に出現している。これは同時に、宮藤がかつて描いてきたあたらしい「地元」への視線(「木更津キャッツアイ」的なもの)で、過去のものになろうとしている古き良き地元(「タイガー&ドラゴン」的なもの)を再生する試みでもあるはずだ。その具体的な展開として、アキとユイの力による北三陸の再生があり、そしてアキとユイ、それぞれの家族の破壊と再生がある。そして何よりアイドルをモチーフにすることでの「朝ドラ」の再生がある。
      物語中盤、一度は壊れたはずのアキの家庭はなし崩し的に「再生」する。アキを心配して東京に戻ってきた春子は芸能事務所を立ち上げ、元夫の政宗を巻き込んで活動を開始する。そうすることで(「普通の主婦」が「社長」になることで)いつの間にか、アキの家庭も再生している。(もうひとつの「壊れた」家庭=北三陸のユイの家族の再生の物語はこれから描かれることになるのだろう。)

      「あまちゃん」は放映前から、物語終盤で東日本大震災が描かれることが明言されている。おそらく主要登場人物にも死者が出ることだろう。東北という首都圏の疑似植民地が被害を受け、そして原発という戦後の地方経営(利益誘導の象徴)が事故を起こした東日本大震災は、この国における「戦後的なものの」の破綻の象徴である。そんな「震災」をこの物語がどう描き、どう取り込み、そして破壊と再生を描くのか、残り2か月を切った放送を毎朝楽しみに、そして緊張感をもって見守りたいと思う。


    ▼初出:「調査情報」2013年9-10月号,TBS
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    ▼関連動画:「ミズタクvsリヴァイ兵長頂上決戦2013」猪谷千香×金田淳子×西森路代×中川大地×宇野常寛
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