(初出:『PLANETS vol.7』2010年)
本日のほぼ惑は、ビジネスへの応用可能性でも注目を集めている「ゲーミフィケーション」研究の第一人者・井上明人さんの論考です。小説や映画のような「物語」と、「ゲーム」というジャンルの違い、そして、物語の快楽をときに凌駕する「ゲーム的な快楽」の正体について、哲学的に解き明かしていきます。
▼プロフィール
井上明人(いのうえ・あきと)
1980年生。国際大学GLOCOM客員研究員。ゲーム研究者および、ゲーミフィケーションの推進者。2010年日本デジタルゲーム学会第1回学会賞(若手奨励賞)受賞。2012年CEDEC AWARDSゲームデザイン部門優秀賞受賞。著書に『ゲーミフィケーション』(NHK出版)。
ゲームと物語のスイッチ/井上明人
「ゲーム」と「物語」という二つの相性の悪さは、コンピュータ・ゲームの歴史においてしばしば大きな問題となってきた。「映画的ゲーム」「一本道RPG」「自由度」「ゲーム性」といったゲームに関わる評価の形容が使われるとき、この二つの相性の「悪さ」について言及されることが極めて多い。
本稿は、物語とゲームという二つの現象をどのように整理することができるのか。その問題についてささやかな整理を試みたい。物語とゲームという概念は思われているほどに相性が悪いものではなく、むしろ連続した概念である。そのことを、素描してみたいと思う。
なお、本稿で「物語」という術語を使うとき、narrativeとよばれることの多い領域を意識している。storyやシナリオといった領域は本稿の範囲を超えていることを予め述べておく。*1(*1Jerome Bruner "Making Stories: Law, Literature, Life", Harvard University Press (2003))
I.物語(Narrative)と、ゲーム。二つの連続について。
物語と、ゲームはしばしば、同じようなものとして語られることがある。たとえば、次のような二つの表現を考えてみよう。
A お金持ちになって成功することが全て、という物語の中を生きている人
B 資本主義の金儲けのゲームの構造の中で勝ち抜くことこそが全てだと考える人
AとBの二つの表現から想像される人物像は、「物語」と「ゲーム」という二つの異なる表現を用いながら、ほとんど似たようなものを表現しているように思えるはずだ。何よりもお金を大切にしている人。お金を自分自身の人生にとって最も重要なものだと考えているような人。「物語」と「ゲーム」という別のものを介して表現されながらも、素描される人格は似たようなものだ。
一方で、ゲームと物語は全く別の現象でもある。また別の二つの事例を挙げる。
C ビル・ゲイツの伝記を読んで、マイクロソフトの成長プロセスを知ること
D ビル・ゲイツの人生をモデルにしたゲームをプレイし、ゲームの中のマイクロソフトを成長させること
この二つはビル・ゲイツとマイクロソフトに関わる知識を与える、という点では同様のことを可能にしているが、CとDでは様々な点が違っている。ビル・ゲイツの伝記を読めば、彼がどこの大学に入学していたのか、マイクロソフトが成功するまでのプロセスでどういった困難に直面したのか、といったことがわかるだろう。一方で、ビル・ゲイツのゲームを遊べば、どういった構造的な困難を持っていたかということが理解できたりもするだろうし、もしかしたらマイクロソフトがアップルを買収したり、Googleを買収したりすることもできるかもしれない。または、ゲームをスタートさせた初期にIBMに買収されてしまってゲームオーバーになるかもしれない。マイクロソフトがこの30年の間にどれだけスリリングな状態にあったのかを、構造的に理解するという点ではゲームの方が優れた理解を与えるかもしれない。ただし、現実に存在するマイクロソフトがどのような選択を実際に行ったのか、という確定した歴史を知るという意味ではビル・ゲイツの伝記を読んだ方がいいだろう。ニ〇〇九年現在のマイクロソフトは、Googleを買収していないし、IBMに買収もされていない。それは、歴史のifに過ぎない。
「ゲーム」も「物語」も、ともに何かの対象を描き出すことのできる手段だと捉えられる。同じものを描き出すこともできるが、その描き出し方には大きな違いがある。その違いがほとんど問題にならないような場合もあれば、大きく問題になるような場合もある。
いかなるときに、ゲームと物語は同一のものであり、いかなるときにゲームと物語は異なるものとなるのだろうか。
II.出来事の連なり、繰り返す出来事の連なり
整理してみよう。
まず、先ほどと同じようにゲームと物語の差が問題にならなさそうな事例を考えてみる。
E 自らのルールに世界を従わせるために、戦争を繰り返そうとする人の物語
F 勝者のみが、ルールを決めることができるという戦争のゲームをする人
(具体的な状況が頭に浮かびにくい人は『ゴッドファーザー』や『アドルフに告ぐ』などを思い浮かべてもらいたい)
さて、ここで試しに「人」という要素を抜いてみよう。
G 自らのルールに世界を従わせるために、戦争での勝利を繰り返す物語
H 勝者のみが、ルールを決めることができるという戦争のゲーム
この二つの文はE・Fと比較して、文意が変わってしまっている。しかしどのように変わってしまったのだろうか
まず、共通する要素から考えてみよう。ここで対象とされている物語とゲームには共通して、「勝利したならばルール設定権を持つ」という順序が存在することが述べられている。
ただし、G・Hでは、この順序の扱い方が決定的に違っている。G(物語)では、これは単なる一つの事柄の推移について述べたものだが、H(ゲーム)ではこれは因果性として規定されている。「勝利したならばルール設定権を持つ」を持つ、ということがG(物語)の記述では本当に妥当かどうかはわからない。勝利しても、ルールの設定権を持てないかもしれない。しかし、H(ゲーム)の記述では、勝利すれば、ルールの設定権が得られること自体が述べられている。「ある事柄Xがあり、そしてYという結果が得られた」という二つの物事の関係は、必ず起こることなのか、それともたまたまそのケースで起こることなのか。二つは別の事柄である。
しかしE・Fのように、「勝利→ルール設定権を持つ」という構造を信じる「人」を対象として記述してしまえば、この違いはかなりの程度まで隠蔽してしまうことが可能になる。勝利すれば、ルール設定権が得られる筈だ、と考えて行動する人の行動はほとんど同じものになるはずだ。もっとも、「勝利→ルール設定権を持つ」ということが必ず起こると信じている人と、数ある可能性の一つとして考えている人とでは、色々な違いはあるかもしれない。だが、思考の結果として実行される、行動の記述としては、かなり近い振る舞いとして理解ができるだろう。
ゲームと物語。両者ともに、二つ以上の事柄の推移について述べたものである。一方は、これを因果関係として規定し、一方はこれを一つの結果(先後関係)として規定する。
別の例を考えてみよう。例えば、「努力する全ての人は、必ず報われる」ということを信じている人がいるとしよう。この人が、努力すれば報われる、ということを信じている理由は、
I ある努力家が、ある成功を収める物語
を読んだからだったとしよう。『キュリー夫人』でも『マハトマ・ガンジー伝記』でも何でもかまわないが、そういった偉人伝を沢山読んでいる人が、努力すれば報われる、と信じるとする。だが、実際には、全ての努力が必ず報われるわけではないかもしれない。物語は、ゲームの構造を推測させる手がかりとして機能させることはできるかもしれないが、努力家十人が、大きな成功を収めた物語を観察できたからと言って、
J 全ての努力家が、必ず成功を収めるゲーム
であることを保証できるわけではない。むしろ、成功した十人の裏側で、悲惨な目にあった一〇〇人の努力家と、特に成功したわけでも没落したわけでもない五〇〇人の努力家がいたとすれば、
K 一定の条件を備えることのできた努力家ならば、成功を収めるゲーム
かもしれない。
さらに、これでコンピュータ・ゲームとして作ろうと思ったら「一定の条件」が何なのかを決めておく必要があるだろう。サイコロを降ったら決まるのか、それとも特定のキャラクターを選んだら決まるのか、あるいはキリスト教徒の英語話者であることを条件とするのか。ゲームスタート時の資金が一定以上、というのでもいい。
ただし、物語では、それが細かく決定されていなくともかまわない。「ビル・ゲイツが成功した」物語を書くために、それがビル・ゲイツの頭が良かったからなのか、努力家だったからなのか、白人だったからなのか、たまたま子供の頃からコンピュータに触れる環境があったからなのか、周囲の友人や知人が彼を見限ることがなかったからなのか。ビル・ゲイツが成功した条件を細かく決めることができなくとも、ビル・ゲイツが成功した経緯について物語としてまとめることは可能だ。物語は、事柄の順序の推移を扱うことで成立することが許される。「ある人が、成功する物語」は成功に関する物語として読めるものになるだろう。しかし「ある人ならば、成功するゲーム」は成功に関するゲームとして遊べないはずだ。たまたま、ビル・ゲイツに生まれれば成功し、ビル・ゲイツに生まれなかった人は成功しないゲーム。ゲイツに生まれればそれでゲームクリアだし、ゲイツに生まれなかったら、ゲームオーバー。それは、五秒で終わる「ゲイツ出生ゲーム」になるかもしれないが、「成功」に関してはプレイしようがないゲームになる。
ここまでの議論を整理しておこう。
1.ゲームと物語は、ともに二つ以上の事柄の推移について述べたものである。(それゆえに、同じような概念として用いることが可能な場合がある)
2.物語は、二つ以上の事柄が順序的に結びついた事例について扱う(Xがあり、Yがあった)。ゲームは、二つ以上の事柄が因果的に結びつく状態を扱う(XならばYとなる)
III.ハリーポッターは物語ではない、ドラゴンクエストはゲームではない:純粋な物語/純粋なゲーム
以上をふまえて、たとえば『ハリー・ポッター』シリーズは物語ではない。という主張をしてみたい。正確に言えば純粋な物語ではない。話がつまらない、などと言っているわけではない。
『ハリー・ポッター』は、とても説明の多い話だ。魔法学校の規則、魔法の唱え方、魔法世界の歴史等々…。そのため、第一巻を読み飛ばして、二巻、三巻を読もうとすると少しわかりにくい。二巻、三巻から読み始めても、ある程度わかりにくそうな部分については少し説明はついているが、基本的には読み進めていった読者に対して重複する説明は行われない。
そして、何度も魔法が使われ、何度も戦いがあり、何度も魔法学校での夜にベッドを抜け出すスリルを味わうという子供達の冒険の話だ。『ハリー・ポッター』では、こうした繰り返し構造が、多様されている。昨日の夜に壁として立ちはだかっていたものを翌日の夜に、別の手法を用いてクリアーする。最初の戦いでキーとなったものが、次の戦いではあたりまえのように使われたりする。これは『ハリー・ポッター』に限ったことではないだろう。
読者は読み進めるにつれて、繰り返される出来事を覚えていくし、慣れていくし、全く同じ繰り返しでは、面白がらなくなる。そして、繰り返される部分のいくつかを覚えていなくては楽しむことが難しくなってくる。特に、五巻目、六巻目になってくると、はじめのほうのハリーと、敵の勢力とのそれまでのやりとりを忘れていると、ちょっと思い出さないことには厳しいこともあるだろう。
また、あたりまえのことかもしれないが、起承転結が存在しているので、最後の10ページだけを読んでも、そこにたどり着くまでの話の流れを追っていないと、楽しむことはできない。
ざっと、説明すると、『ハリー・ポッター』シリーズというのはこういうものだ。別にとりたてて、ものすごく変わった部分を見つけ出して話をしてみようとしているのではない。『ハリー・ポッター』を読んだことが無いのであれば、何か別のシリーズものの話を思い浮かべてもらってもいい。
ここまでで区別しておきたいことは二つある。(1)順序による理解と、(2)定着による理解だ。「前を読んでいないと、次を読み進めてもわからない」ということ。「何度も出てきたことに慣れておかないと、次を読み進めてもわからない」ということ。この二つのことだ。
もう少し形式的に整理すると、こういうことだ。
・Aという事柄が起こり、次にBが起こり、次にCが起こり、最後に結末Dが起こった、という起承転結の展開を持つ物語ABCDがあるときに、結末Dだけを読んでも、物語ABCDを理解できない。しかし、A.B.C.Dを読めば理解できる。(順序的理解)
・事柄X→Y→Z、X→Y→Z、X→Y→Z…と同じことが複数回繰り返されたとき、読み手はその繰り返しに慣れて事柄X→Zというショートカットをするようになる。そして、そのショートカットを前提として、事柄X→Z→結末Dという展開があるとき、物語XZDの結末Dだけを読んでも理解できないのはもちろん、X.Z.Dを通して読むだけでもYが欠落するため理解できない。X→Y→Zに慣れた上でX.Z.Dを通して読めば理解できる。(定着的理解)
『ハリー・ポッター』は、小説なので、もちろん一般的な起承転結の構造を備えている。『ハリー・ポッター』シリーズの五巻の結末Dだけをいきなり読んでも、五巻の内容を理解できない。これは、五巻をはじめから読んでいないからだ。これは読む順序を無視したからだ。コンテクストがわからない。
しかし、五巻の内容だけを読んでも、結末Dは十分に理解できない。『ハリー・ポッター』の第一巻~第四巻までの間で、読者の間に読み方のリテラシーが作られているからだ。X→Y→Zという展開から、Yが抜け落ちて、X→Zというショートカットがある。抜け落ちたYの存在を理解できなければ、わからない。
こうした区分は将棋や囲碁、コンピューター・ゲームが作品世界内で重要な役割を担う場合に際立っている。
囲碁や将棋は、一〇〇m走などと違って、世界トップクラスの達人の対戦を見ていても、さっぱり凄みがわからないものだが、『ヒカルの碁』『月下の棋士』『ハチワンダイバー』は囲碁や将棋を題材としながら、囲碁や将棋がわからなくてもどうにか楽しめるようにうまく話の内容を作っている。「歩が弱くて、飛車・角が強い」「王将を取られたら負け」程度の最低限のルールさえわかればどうにか楽しめる。
一方で、『遊戯王』『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』といった漫画は、読者のほとんどが対象とするコンピュータ・ゲームを長時間にわたって遊んでいることを前提として描かれている。『遊戯王』の一部のセリフを切り取ってみるとこんな形だ。
速攻魔法発動!バーサーカーソウル!(バーサーカーソウル!?)
手札を全て捨て、効果発動!
こいつはモンスター以外のカードが出るまで何枚でもドローし墓地に捨てるカードだ。
そしてその数だけ、攻撃力1500以下のモンスターは
追加攻撃できる!!(攻撃力1500以下!? ハッ……あの時……)
『遊戯王』を遊んだことのない読者には、何を言っているか、ほとんど理解できないだろう。『遊戯王』を数十時間は遊んだことがあるが、その程度の『遊戯王』世代(一九八〇年代後半~九〇年代前半生まれ)でない人間にとっても、ほとんど何を言っているかわからない。最初から読んでいけば(一応)何を言っているのかわからなくない配慮が最低限はなされている(のだろう)が、これは読む「順序」だけでは、読み方の「定着」を覆すことができないということの、顕著な事例だ。少なくとも筆者はさっぱり理解できなかった。
『遊戯王』は、読む順序を守っただけでは、ほとんど読むことができない。X→Y→Zを、X→Zというショートカットができなければ意味がわからない。『遊戯王』は、物語であると同時にゲームでもあることを了解した時に、はじめて読むことが可能になる。
『ハリー・ポッター』は、第一巻から読めば、X→Y→Zを、ショートカットすることができる程度に、繰り返し登場する要素についての配慮を備えている。魔法学校や、魔法の世界の歴史が登場するとは言っても、そこまで複雑すぎず、覚えることが可能な程度のペースで配慮がなされている。だが、第五巻をいきなり読み、すべてを理解することはできない。『ハリー・ポッター』はシリーズとしての繰り返し構造を持っている。この繰り返し構造の中で、順序に沿った理解という以外に、この世界の決まり事を定着して理解しておくことが要請されている。『ハリー・ポッター』シリーズ全体を一つの小説とみなせば、『ハリー・ポッター』は順に読んでいくことで読むことができる。しかし、『ハリー・ポッター』シリーズのうちのどれか一つだけをランダムに抜き取っても、『ハリー・ポッター』を十分に読むことはできない。物語が物語でなくなる地点―――繰り返す事象への「慣れ」を前提とすることが『ハリー・ポッター』を理解することを可能にしている。
そして、『ハリーポッター』に適用したこのロジックを裏返すことで、『ドラゴンクエスト』はゲームではない、という主張を作り出すことが出来る。正確に言えば純粋なゲームではない。すなわち、『ドラゴンクエスト』というゲームは「特定の順序」に関する理解を介さなければ、ゲームプレイの仕方の「定着」だけではプレイできないゲームだ、ということだ。
これを理解するためには、「特定の順序をもたないドラゴンクエスト」というものを考えてみればわかりやすい。竜王、スライム、キメラが場所を問わずにランダムに出現し、竜王の城へとかかる虹の橋がかかっているかどうかもランダムに決まる……そのような「ドラゴンクエスト」を想像してみたとき、それは、おそらく『ドラゴンクエスト』とは別物、としてしか考えられないだろう。『ドラゴンクエスト』では、竜王はラストダンジョンの最後に構えているものでなければならず、虹の橋は虹のしずくを手に入れた結果としてきっちりと架かっているものでなければならない。
その一方で、たとえば将棋はどうか。一つ一つの棋譜を見れば、特定の順序をもったものだが、特定の棋譜に従った理解をしなければ、今、勝負している将棋そのものが理解できないということはない。将棋は、特定の順序を理解していなくとも、将棋の規則についての理解が定着していれば、盤面を読み、楽しむことができる。その後の時系列の順序を思考する能力(定着的理解に基づいた思考)は必要だが、現在に至るまでの過去の順序/歴史(順序的理解に基づいた思考)というものを前提としなくても、楽しむことが可能だ。ある盤面に至るまでの経緯や、対戦者の固有名詞を知ることがなくとも。あるいはそれらが全くランダムに入れ替えられたとしても、将棋は、将棋として楽しむことができる。
IV.物語が、物語ではなくなるとき。ゲームが、ゲームではなくなるとき
もう一つ、ゲームと物語という現象がなだらかに連続する事例として、「歩いていたら、目の前で人が銃撃され、その場から逃げ出し、助かった」というケースについて考えてみよう。
L 昨日、実家に帰って近所を歩いていたら、いきなり銃声が聞こえて前を歩いていた人が倒れてさ。すげー、怖くなったっていうか、驚いたって言うか、もうその瞬間、殺されると思って、その場から必死に逃げて、とりあえず実家まで逃げ帰って、ドアをがっちり閉めて震えてたんだけど。ラジオ聞いてたら、なんか銃を持ったヤク中のおっさんが、銃を乱射してたとかで。もう、乱射してからニ〇分ぐらいで捕まったらしいけど、まじで死ぬかと思った。まじ、いや、ありえないほど、やばかった。
私がこのような体験をした、と友人に話したら、かなり驚かれるだろう。強烈な話だと思われるだろう。そして、その友人が気のいい人であれば、私のトラウマになっている経験か何かなのではないか、などと気を揉んでずっと覚えていてくれるかもしれない。
だが、これがアフリカの激しい内戦地区に暮らす人が、同じ地域に暮らす人に話したら、どうだろうか。
M 一昨日、隣町まで行ったとき、ゲリラ軍がちょうど攻め込んでこようとしてた時だったらしくて、目の前で銃撃戦がはじまって、怖かった。車乗ってたから、そのまま逃げ帰ってきたけど。最近、ゲリラ軍、戦線拡大してるね。
こんな話は、その地域では、もしかすると、誰もが体験したことのあるような平凡な話かもしれない。銃撃を受けたこと自体に対して、「それは大変だったね」ぐらいの反応を示してくれるかもしれないが、とりわけ際立った不幸として記憶される可能性は低いだろう。「先日、祖母が他界しました」とか。その程度に誰もが経験する話として、受け止めてくれるかもしれない。身内が他界すると、身内が他界したことに対する悔やみを述べつつも、喪主となった場合の葬式の実際的なノウハウなどについて教えてくれる人もいる。それと同じように、アフリカの内戦地域であれば「荷物を持って、別の地域に逃げるべきか否か」ぐらいの会話もはじまるかもしれない。
だが、この話の話し手と聞き手が供に、その地域の政府軍の兵士だったとしたらどうだろうか。
N 一昨日、隣町まで行ったとき、ゲリラ軍がなんか攻め込んでこようとしてた時らしくて、目の前で銃撃戦がはじまってさ。そのとき、運悪く武器を携帯していなかったら、そのまま逃げ帰ってきたけど、隣町にもう少し兵力を置いとかないと、あの勢いだとゲリラ軍に占領されかねないね。
こうなってくると。もはや、銃撃された個々の兵士の経験はほとんど問題にならなくなってきている。この話が記憶されるとしても、「私が銃撃を受けた」という劇的な経験として記憶されるのではなく、個別の経験は、ゲリラ軍との戦闘を考えて、どのように戦力を配置すべきか、という戦争に勝利するための参考情報として利用されるだろう。このあと、はじまる会話は攻撃してきたゲリラ軍の規模、装備、政府軍が割くことの可能な戦力などについての会話などだろう。
さらに、別のバージョン。これが、戦闘訓練シミュレーションに関する会話ならばどうだろうか。