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フル・フロンタルこそ真の「可能性の獣」である ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.134 ☆
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フル・フロンタルこそ真の「可能性の獣」である ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.134 ☆

2014-08-13 07:00

    フル・フロンタルこそ真の「可能性の獣」である
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.13 vol.134

    (初出:「ダ・ヴィンチ」2014年8月号)
     
    "あえて言おう。フル・フロンタルこそが真の「可能性の獣」である、と。"今日のほぼ惑はダ・ヴィンチ8月号に掲載された宇野常寛の『機動戦士ガンダムUC』論。作中では矮小な悪党として描かれたフロンタルにシャアの絶望に抗う可能性を見出します。

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     今からさかのぼること33年前──1981年2月22日、今やそこはまったく別の意味で「聖地」となりつつある新宿東口のスタジオ・アルタ前はアニメファンでごったがえしていたという。70年代末からのアニメブームは『宇宙戦艦ヤマト』などのヒット作を中心に、国内におけるアニメーションを児童向けのいわゆる「ジャリ番」から、大人まで楽しめるサブカルチャーの1ジャンルに押し上げていった。その流れの中核にあったのが、79年にテレビアニメ第一作が放映開始された『機動戦士ガンダム』だった。テレビでの本放送時は玩具の売り上げ不振等の理由からいわゆる「打ち切り」の憂き目を見た『ガンダム』だが、その革新的な世界観と重厚な物語などで折から形成されていたアニメファンのコミュニティで大きな支持を受け、アニメブームの主役となっていった。

     そして加熱するファンコミュニティの空気に応えるかたちで『ガンダム』劇場版三部作の公開が決定され、その宣伝イベントして企画されたのがこの「アニメ新世紀宣言」だった。

     「私たちは、アニメによって拓かれる私たちの時代とアニメ新世紀の幕開けをここに宣言する」壇上に立った富野喜幸(現:由悠季)はそう宣言した。『ガンダム』の生みの親として、今でこそ広く知られている富野だが当時はまだ知る人ぞ知る存在だった。この時期の富野の発言にはたびたび、自作を中心とするアニメを子供向けの低俗な娯楽としてではなく、独立した1つの文化ジャンルとして受け入れる若者たちの感性を、新世代の感性として肯定する内容が見られる。80年代の後半から富野はどちらかといえばサブカルチャーに耽溺し、情報社会に適応した若者を現代病の患者として否定的に言及することが多くなったので、現在の富野を知る読者はこうした発言を知るとむしろ驚くかもしれない。

     さて、ここで注目したいのは『機動戦士ガンダム』の作中で登場する「ニュータイプ」という概念が、当時の新世代─アニメ新世紀宣言に賛同した若いファンたちの世代─と重ね合わされていたということだ。「ニュータイプ」とはファースト・ガンダムと呼ばれる初代『機動戦士ガンダム』の作中で、新兵のアムロがエースパイロットとしてわずか数カ月の間に急成長する根拠として与えられた設定である。それは人類が宇宙環境に適応することで発現する一種の超能力である。しかしそれはテレキネシスやテレポーテーションといったものではなく、極めて概念的で、抽象的な超能力で超認識力ともいうべきものだ。「ニュータイプ」に覚醒した人類は、地理や時間を超えて他の人間の存在を、それも言語を超えて無意識のレベルまで感じることができる。これは富野による極めて個性的な超能力設定だと言える。宇宙移民時代に人類が適応し始めたとき、その認識力がこのようなかたちで拡大していく、と考えた作家は古今東西他にいないはずだ。

     そしてこの「ニュータイプ」という概念は、作品外のムーブメントと結果として重ね合わされることになった。後にメディアを賑わせる「新人類」の語源のひとつがこの「ニュータイプ」であるという説もあるが、おそらくは「新世紀宣言」が代表する当時のアニメブームが、前述のように世代論と深く結びついていたことがその説の背景にあると思われる。当時物語の中で描かれた「ニュータイプ」とは人類の革新であり、社会的にそれは「アニメ新世紀宣言」が掲げたように、新しいメディアに対応した新世代の感性の比喩だったのだ。

     あれから約30年、当時ティーンだった「ニュータイプ」たちは今や40代の堂々たる中年になっている計算になる。その後『ガンダム』は81年から上映された劇場版三部作と、小中学生の間でのプラモデル商品の大ヒットを通じて社会現象化していった。そしてそれから30年、何度か下火になりながらも断続的に続編が発表され、その広がりはアニメに留まらず、プラモデル、ゲームなどにもおよび「ガンダム産業」と呼ばれる現在においては国大最大級のキャラクター・ビジネスを生み出すシリーズに成長している。

     そのシリーズ展開は多岐にわたり、ティーンを対象とした続編が制作され続ける一方でファースト・ガンダムのファン層をターゲットにした中年向け作品も存在する。いや、正確にはこの「ガンダム産業」はこうした中高年市場に大きく依存していると言っても過言ではないだろう。

     さて、そんな中高年向けガンダム市場の中核にここ数年君臨しているのが今回取り上げる『機動戦士ガンダムUC』である。本作はストーリーテラーに『終戦のローレライ』などの歴史SF、『亡国のイージス』などのポリティカルフィクションで知られる福井晴敏を迎え、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の続編的な物語を展開している。本作ではこれまで事実上の原作者であった富野のみが許されていたファースト・ガンダムから続く架空歴史=宇宙世紀への改変・介入をはじめて富野以外の作家が行い、作中にはブライト・ノア、カイ・シデンといったファースト・ガンダム以来の人気キャラクターが多数登場する。要するに高齢の原作者に代わり、40代のファーストガンダム世代の作家が「正史」を紡ぐ権利を手に入れた、と言えなくもないだろう。その結果、本作はファーストガンダム世代の「ファン代表」である福井による、富野批評的な側面を否応がなく負うことになった。そして、結論から述べれば本作をもって、富野由悠季が築き上げてきた「ガンダム」シリーズの、特に物語面での達成はほぼ引き継がれることなく失われてしまうであろうことがはっきりしたように思う。

     本作『UC』の舞台は『逆襲のシャア』から3年後の宇宙世紀0096年だ。『逆襲のシャア』で連邦軍に敗北したネオ・ジオンの残党は「袖付き」と通称されるテロ組織を結成し、連邦軍に戦いを挑む。「袖付き」の目的は「ラプラスの箱」と呼ばれるおよそ100年前のテロ事件に関わる連邦軍の機密だ。主人公の少年バナージは、この「ラプラスの箱」を狙う袖付きのテロに巻き込まれたことをきっかけにガンダムのパイロットになり、軍とテロリストと巨大軍事産業の入り乱れる陰謀劇に巻き込まれていくことになる、といったのが大まかなストーリーだ。(ついでに言うと、このバナージ少年にも出生の秘密があって、実は新型ガンダムを建造した軍事産業の幹部の隠し子だった、なんて設定が開陳される。)

     表面的にこの物語はファースト・ガンダムがそうであったように、少年の社会化の物語として展開していく。ロボットを人工知能の器としてではなく、少年の成長願望の象徴として(操縦することで得られるかりそめの、巨大な身体として)位置づけた日本のロボットアニメは、常に少年の欲望と並走してきた。巨大な身体を得て、大人社会に混じって活躍し、そして少女を得る。本作『UC』も例外ではない。父からガンダムを託されたバナージ少年は、「ニュータイプ」としての才能を開花させ、時にはテロリストの、そして時には軍の陰謀に立ち向かう。彼の前にはジオンの王女ミネバをはじめとする美少女が彼の救済を求めて現れる。良くも悪くも、その表面的な物語構造は思春期男子の欲望に応えるべく日本のロボットアニメの洗練させてきたパターンだ。

     しかし、福井による小説を、そしてこのたび完結したアニメ版を読んだ/観た人間は気付くだろう。本作は決して少年の成長物語を主眼に置いた作品「ではない」と。

     この『ガンダムUC』という作品を一言で表現するとしたら、それは「説教リレー」という言葉が相応しいだろう。本作は基本的に1パターンのエピソードの反復で構成されている。それは主人公のバナージ君(たまにヒロインのミネバ)が中高年の(つまり、想定視聴者が感情移入しやすい年齢設定の)男性に説教される→適度に(勝たない程度に)バナージ君が反論→結局おじさんの説教に感動して涙目→そのまま出撃してガンダムで大活躍→力を使いすぎて気絶、敵につかまる→つかまった先の中高年男性が出てきてまた説教→(以下繰り返し)……といったループである。

     第1話のバナージの父親からはじまって、「袖付き」のジンネマン艦長、連邦軍特殊部隊のダグザ……と次々と説教のバトンが渡される。中盤でミネバが偶然立ち寄ったレストランのオヤジまで説教を始めたときはほんとうにどうしようかと思った。そして彼らの説教には基本的に中身がなく、どれも「大人の社会はいろいろ立場があるんだけど、みんながまんしてがんばっているんだ(だから俺たちをバカにするな)」の一行に要約することができる。今どきの若者ならスマートフォンをいじりながら聞き流してしまいそうな内容なのだが、バナージ君はどの説教もじっと真剣に聞いている。ほんとうにいい子だと思う。そしてバナージ君に感心すればするほど、情けない気持ちがこみ上げてくる。ここに現れているのは、端的に今の40代男性の自信のなさではないか。バブル入社世代から団塊ジュニア世代─要するにファースト・ガンダム直撃世代にあたる40代男性の「自信のなさ」ではないだろうか。

     『ガンダムUC』は30代、40代を中心に、決して盛り上がっているとは言えない現代のアニメシーンにおいて絶大な支持を獲得した作品だ。完結第7話の先行プレミアム上映の興行収入は10億に上ると言われている。もちろん、この説教臭さがどれほど支持を集めているかどうかは分からないので、性急な結論は避けるべきだろう。しかし少なくとも作品の表面に現れているものが証明しているのは、過剰に「父」として振る舞いたいという欲望に他ならない。『ガンダムUC』は明らかに物語の進行を毎回挿入されるこの過剰な「説教」が停滞させているし、その上前述した通りその説教にはまったく中身がない。そこに存在するのは、少年に説教することで自己確認を行う=「父」的な存在としての尊厳を確認する中高年の悲しい背中だけだ。(個人的にはこの21世紀の世界で旧世紀的な「父」になることに拘泥していること自体があまりにアナクロで滑稽にすら思えるのだが。)

     意地悪な比喩をあえて選べば、今どきの「飲みニケーション」を拒否する20代の若い部下たちに説教する場を与えられない40代の中間管理職たちが、アニメの中に満たされない欲望を吐き出している、ようなものなのではないか。そう、思春期の頃はエースパイロットとして大人社会に混じって活躍することと、お姫さまや薄幸の強化人間美少女との恋愛を夢見ていた彼らは、あれから30年たった今、なんだかんだで結婚し、何割かの確率で子どももいて、そして年功序列的に多少なりとも社会的な立場のできた今、そのような夢はもはや見る必要がなくなっているのだ。その代わりに彼らが欲望しているのはむしろ、「何ものでもない自分の説教を聞いて感動してくれる新入社員」なのではないか。その上教育コストゼロで戦場で大活躍の(だって「ニュータイプ」だから)即戦力新入社員なのではないか。

     ではこの『ガンダムUC』」という壮大な物語に、『ガンダム』世代の作家が原作者=富野殺しを宣言して広げた大風呂敷の上に、自信のない中高年男性の説教ヒーリング以外の可能性はあるのだろうか。

     結論から言えば、「ある」。もちろんそれはひたすらさえない中間管理職のお説教を聞いてあげているだけのバナージ少年や王女ミネバにもなければ、彼らに説教して自信回復する情けない説教オヤジたちにもない。あるとすればそれは、作中ではそんなバナージ君とぞろぞろ出てくるそのお父さん候補たちに否定されつくす「悪役」フル・フロンタルという存在に他ならない。

     
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