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現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』 第2回:「グーテンベルクの銀河系からアリスが歩いた世界へ」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.140 ☆
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現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』 第2回:「グーテンベルクの銀河系からアリスが歩いた世界へ」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.140 ☆

2014-08-20 07:00

    現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』
    第2回:「グーテンベルクの銀河系からアリスが歩いた世界へ」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.20 vol.140

    大好評! 落合陽一さんの連載第2回は、アラン・ケイに始まるメディア装置としてのコンピュータの
    先の世界はどんなものかを探る内容です。次回に展開される、21世紀の「魔法」が呼び起こす美的感動がいかなるものかという考察の前提となる重要な回です。

    ▼落合陽一による『魔法の世紀』
    前回までの連載は
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    こんにちは、落合陽一です。僕は相も変わらず、深夜の研究室で執筆をしています。

    いきなりですが、僕はよくカップ麺を食べます。それはお金や時間がないからで、仕方なく毎日自販機で買っているのだと思っていたのですが、どうも最近、自分はそうやって言い訳しているだけで、実はカップ麺そのものが大好きなのだと気づきました。

    というのも、カップ麺はある種のメディア装置だからです。
    メディアとコンテンツの関係に対応させるならば、カップ麺のカップはメディア、コンテンツは麺とお湯。しかも、カップに入った麺は世に広く普及したメディア装置ですが、お湯を注いで調理するという点では、とてもインタラクティブです。
    そもそも食べるという行為の中で、カップ麺と僕の間にはいろいろな関係性を考えることが出来るわけなのですが、僕にとってのカップ麺の「インタラクティブ性」は、お湯の量で麺が様々な食感に変化することです。ちなみに僕が好きなのは、日清のカップヌードルを麺ぎりぎりのライン程度にお湯を注ぎ、濃いスープでふやけた麺を絡ませながら食べることです。ふやけるタイミングも含めて、演劇や映画のようなひとつの時間芸術なのだと思っています。
    食べながら、「これは実に興味深いな」と思います。食事のささやかな楽しみです。

    さて、前回から始まったこの連載ですが、今回からは具体的な話に入ります。まずは、僕の作品や、他の方の作品を紹介しながら、コンピュータやメディアアートについて書くことから始めようと思います。
     
     
    ■メディア装置は電気羊の夢を見るか?:芸術表現としてのメディア装置、メディアアート 
     
    最近、メディアアートという言葉をよく聞くようになってきたのではないでしょうか。たとえば、テレビやネットで「プロジェクションマッピング」が特集されたり、3Dプリンターや電子工作で作ったインタラクティブ作品の呼び名としてメディアアートが使われたり、その用法も様々、捉え方も様々です。
    もちろん様々な使い方をされるだけあって、このメディアアートの定義はなかなかに難しいです。一般には現代芸術の一派で「メディアに対して意識的であり、コンピュータや情報技術、電子、電気機器を用いた芸術」などと言われていて、僕もこの定義で考えています。

    前回、映像から魔法への転換ポイントとして、「非メディアコンシャス」「物象化」「虚構の消失」という三つのポイントを挙げましたが、おそらく最もわかりにくかったのは「非メディアコンシャス」という言葉だったのではないでしょうか。つまり、メディア装置への意識そのものを芸術表現にしたのがメディアアートです。実際、先の定義の中にも「メディアに対して意識的」とありますが、これがまさに「メディアコンシャス」です。一般に馴染みのない概念をつかって定義されている芸術なので、使い方も捉え方も様々なのはある意味で仕方のないことかなと思います。

    現在に至るまで、人類は様々なメディア(媒体)を用いて表現を行ってきました。
    油絵ならば、絵の具とカンバスです。この場合、描かれた絵がコンテンツで、メディアがカンバスと絵の具です。本ならば、中の文章がコンテンツで、本がメディアです。つまり、表現をするための媒体がメディアで、表現自体がコンテンツだと思えばいいでしょう。カップ麺ならば、カップがメディアで、麺がコンテンツです……あ、これはしつこいか。
    そして重要なのは、実は近代まで芸術家は「メディア上でのみ表現を行ってきた」ことです。それに対して20世紀半ばに誕生したメディアアートが重要なのは「メディアコンシャス」であり、メディア装置を対象とした芸術であること――つまり、「メディアそのもの」を創る試みを芸術表現としたことなのです。そのとき、「メディアとは何か」「何がメディアとなるのか」というメディアアートの問いは、メディアコンシャスそのものになります。
    ちなみに、このメディアアートの誕生は、映像表現と切っても切れない関係があります。例えば、ビデオアートの大成者であり「メディアアートの父」と呼ばれる、ナム・ジュン・パイクの作品はわかりやすいでしょう。彼は、映像装置、カメラ、インタラクティブなど現代のあらゆるメディア装置の特徴を備えた作品を残しています。

    Electronic Superhighway : Nam June Paik / ナム・ジュン・パイク 作品まとめ - NAVER まとめ
    http://matome.naver.jp/odai/2135339177356767701/2135412062838268603
     
    映像装置を積み上げた彼の作品たちは、常にメディアと人との関わりを私たちに意識させるものばかりでした。こうしたメディア装置についての思考を意識させる芸術が、まさに古典的なメディアアートでしょう。

    僕自身も作品をいくつか作っています。例えば、『Looking-glass timeアリスの時間』という作品では、映像メディアそのものを批評するために装置を作りました。そこには、「もし記録メディアがこの世界に存在しなかったら、どうやって映像を作り出すのだろう?」という問い、あるいは、「いま世界でリアルに加えて、メディア上で同時多発的に流れている複数の時間軸」などに思いを寄せて、作品装置をくみ上げました。これは映像装置への古典回帰でもあります。
     
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     (Looking-glass time)
    実物投影機の方式で、実物の時計からレンズで変換される光学像のみを用いてアニメーションを作っています。つまり、「フィルムを使わない」アニメーション装置です。
     
    また、『Human Breadboard』という作品では、この世界にあるコンピュータと人間、有機物、生命をマクロ的に支配する構造を写し取りました。
     
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    (Human Breadboard)
    1Hzで動くたくさんのコンピュータを相互通信させ、そこに生物的な部品(生の植物、昆虫など)を繋げ、人間をクロックに動作させています。
     
    他にも、映像や写真では少々わかりにくいのですが、『モナドロジー』という作品もあります。ここでは、不思議な三次元的なアニメーションを作り出しました。物体の存在消失、三次元的な動きを実際に用いて実体のアニメーションを作ると、まるで自分が宇宙に浮いているような不思議な感覚がします。
     
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    (Monadology)
    シャボン玉を消失・出現するメディア装置として捉えて、真っ暗な部屋で非常に弱い点光源のストロボを人間の暗順応に対応させ調節して制作しました。
     
    しかし、これまで非常にたくさんのメディアアートを作ってきた僕ですが、ここ半年ほどは作品を一つも作っていません。なぜだかメディア装置の研究ばかりしています。それは、あることに気づいたのが理由です。どうやら、メディア装置の制作による表現という試みと、メディア装置の研究を行うことは、非常によく似た特徴を持っているのです。というのも、現代における「メディア・アート」の意味の拡大には、どうやらメディアアートとコンピュータ研究の間にある奇妙な相関関係が関わっている気がするからです。
     
     
    グーテンベルクの銀河系、星降る前夜――メディア装置としてのコンピュータ
     
    その説明をするために、ここからは少し遠回りをしてコンピュータとは何かを考える旅に出ましょう。今や、この地上に星の数ほどあるコンピュータの在り方を探る旅です。

    実は現在、我々が能動的に使うコンピュータは、デスクトップやラップトップなどの「メディア装置としてのコンピュータ」です。例えば仕事ではデスクトップ型、家ではラップトップ型、ちょっとした用事はタブレットで済まし、電車の中ではスマホ……そんな使い方をする人は多いはずです。コンピュータを使って仕事の書類を作ったり、ウェブにアクセスして情報のやり取りをしたり、映画を見たり、誰かにメッセージを送ったり、はたまた生中継に至るまで、さまざまなメディア装置としての使い方があって、みなさんも思い思いに使っているのではないでしょうか。

    もちろん、それ以外にも、コンピュータはディスプレイのついたものには限らないわけで、改札やエアコンなどの家電に至るまで、僕たちの身の回りには溢れているのですが、今の世の中が興味津々なのもやはり「メディア装置としてのコンピュータ」なのです。なぜなら、やはりそれこそがエンドユーザーの市場に最も購買されてきたのですし、そこではそのメディア装置としての特徴が駆使されることで「お金稼ぎ」が出来ていたからです。

    そんな中、2010年代も半ばを迎えた現在、「スマホの次は何が来るのか?」という記事があちらこちらで話題になり、次の担い手としてグラスウェアや腕時計型のデバイスに注目が集まり、「これからはウェアラブルの時代が来る」なんて言われているわけです。しかし、そのようにしてコンピュータと人が関わるような文脈はどこから創られたのでしょうか。その辺の言葉の歴史や文脈の整理から始めましょう。

    さて、前回の連載で、僕はマークワイザーのユビキタスコンピューティングについて触れましたが、消費者サイドで我々の生活とコンピュータを見たときに、二つの欠かせない出来事があります。一つは、ゼロックス・パロアルト研究所での1973年のAltoの発明(暫定DynaBook)、もう一つは1984年のマッキントッシュの発売です。
    マッキントッシュとスティーブ・ジョブズについてはもう語るまでもないでしょうから、ここではパーソナルコンピューティングを経て、コンピュータがメディア化していく中で、そのバックグラウンドで大きな影響力を持っていた、二人の「偉人」の話から始めることにします。それは、アラン・ケイとジェフ・ラスキンです。

    アラン・ケイは、最初のオブジェクト指向言語「Small Talk」(今でも広く使われるようなプログラミング言語の原型スタイル)と現代型のGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)を持つ最初のコンピュータ「Alto」の生みの親で、DynaBook構想を作り出したコンピュータ史における偉人の一人です。巷では、「未来を予測する最善の方法はそれを発明することだ」という言葉が有名です。

    彼のDynaBook構想とは、ひと言で言えば「未来の本(Book)に代わるようなコンピュータを作ろう」という思想でした。ちなみに、彼はDynaBookの構想時にマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』を読み込んだというのは有名な話です。彼の考えたDynaBookとは、以下の様なものでした。

    ・安価で低電力動作する持ち運び可能なコンピュータ
    ・マルチメディア(音声・画)が扱える。
    ・ディスプレイと直感的なユーザーインターフェースを持ち、子どもが紙とペンの代わりに使える
    ・コンピュータのOS自体が簡単なプログラムで動いていて、エンドユーザーが簡単にプログラミングできる

    この思想は1972年の著作『Personal Computer For Children of All ages』の中に書かれたものですが、今から40年以上も前に書かれたとは思えない先見性があります。現在でいうところのタブレットやスマートフォンに近い思想であり、子どもがiPadやiPhoneで遊んでいる光景をみると、着実にそのときは迫っているなと感じるほどです(ただし、最後のプログラミングについての条件が満たされたOSはまだ存在しません。iOSやAndroidは自身をプログラミングしたり、そのソフトウェアの構造が一瞬で見て取れるようなものではないからです)。

    そんな彼がXeroxのパロアルト研究所で、そのDynaBook思想を体現する「暫定DynaBook」として開発したのが、現代型のGUIを搭載したデスクトップ型コンピュータのAltoでした。
    その時代に、今のiPadのようなコンピュータを想定してモノを作るのがいかに大変なことか――僕には想像もできないです。何しろ、それまでのコンピュータはそもそもマルチウインドウやマウスカーソルなどを備えておらず、コマンドラインインターフェース(よく映画などで、ハッカーが文字だけの画面で打ってますね。あれです)で動かすのが常だったのです。それが、Altoは今見てもなお現代型のデスクトップコンピュータと大枠では差がありません。また、DynaBook構想の元となった1972年の文献には、子どもが板状のディスプレイとキーボードを備えたコンピュータで遊ぶスケッチが描かれており、まさに今の世界を予見しているとさえ思えます。
    彼はそのようにして、その先験的なビジョン、実装としてのGUIとオブジェクト思考言語によって、コンピュータの歴史を大きく進めたのです。そして、これを見て影響を受けたスティーブ・ジョブズがAppleで作ったのが、マッキントッシュなのです。
    ここからは、近年よくある「スマホの次」を論じるような話に見られる、一つの勘違いがわかります。パーソナルコンピューティングは1984年のマッキントッシュ発売で民主化して、21世紀にスマホに進化したわけではありません。むしろ、スマホを含むパーソナルコンピューティングに関わるメディア装置の形は、1972年にDynaBook構想の形で定義されており、以来基本的には変わっていないのです。

    その後、コンピュータカルチャーは2010年代に至るまで、子どもであろうとも誰もが簡単に使えるマルチメディア端末――最終到達点としてのDynaBookを追いかけ続けています。Alto以後、コンピュータはメディア装置としての進歩を続け、パーソナルコンピューティングの時代(パソコン)、Webバブル(ネットワークパソコン)を超えて、今のようなモバイル/ユビキタスの時代(スマホ)になりました。
    しかし、私たちの思想的なバックグラウンドは、いまだ一人の偉人が定義した道順をなぞり続けているに過ぎないのです。我々はグーテンベルクの銀河系の中で、ケイの奏でる音楽でダンスをし続けているようなものです。

    そしてまた、コンピュータが広くメディア装置になったのが、1973年のこのときと言えるでしょう。
    今ではもう当たり前のようにコンピュータはメディア装置として機能していますが、コンピュータがメディアになったのは、実はあらかじめ決まっていた未来ではないと僕は思います。
    そもそも最初、コンピュータは戦争用の計算機として、非常に時間のかかる弾道計算をすぐに処理するために生まれました。別に、いつでもどこでもマルチメディアを使うために進歩して来たのは必然ではなく、またエンドユーザーが使うために生まれたものでもないのです。実際、現在も電卓や炊飯器には、そんなディスプレイやカメラ入力のような機能はありません。マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』で語ったメディア論とコンピュータコンテクストが交わるようになったのは、このようにコンピュータがメディア装置としての可能性を明らかにして、そして、その方向へ発展してきたからに過ぎないのです。

    ただし、ここで一つ忘れてはいけないのは、コンピュータにはメディアというよりも家電製品に近いような、「道具的側面」もあることです。「紙とペン」だけではなく、生活に役立つ道具としての側面も確かにあるのです。
    ここで重要なのが、ジェフ・ラスキンという「ヒューマンインターフェース」の大家です。彼はそもそも1984年のマッキントッシュの開発に関わったことで非常に有名なのですが、その思想の一つに「モーフィングコンピュータ」があります。

    それは、ひと言で言えば「コンピュータが機能に応じてその姿を変えて、違う道具になる」という思想です。これは、つまりは形が自由に変わるドラえもんの道具のようなものです。例えば、あるときはハサミになり、あるときはペンになり、あるときは栓抜きになるような道具をイメージしてください。十徳ナイフのような感じですが、そのコンピュータ版だと思って頂ければわかりやすいでしょう。コンピュータの機能は単機能で提供されるが、用途に合わせてその都度インターフェースは変化していくという発想なのです。
    もちろん、現状では自由に姿を変化させられるのはディスプレイの中の映像でしかないのですが、皆さんもお気づきのように、これは今のスマートフォンのインターフェースそのものになっています。

    つまり、「DynaBook的なマルチメディア装置+2次元モーフィングコンピュータ」の暫定的な実装こそが、現在のスマートフォンやタブレットなのです。しかし、それは1984年にマッキントッシュの登場でパーソナルコンピュータが民主化される以前に、その思想的なバックグラウンドは完成されています。この30年、コンピュータはそれを追いかけて進歩してきたのです。
    そこから分かるのは、「パソコンからスマホ」と「スマホからその次」の間には、ものすごく大きな隔たりがあることです。スマホまでは予想された未来でした。しかし、その後はどうなっていくのでしょうか?
     
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