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今朝のほぼ惑は、ロードバイクの歴史についてジャーナリストの仲沢隆さんにお話を伺った。仲沢さんは、ホビーレーサーとしてレースを楽しむかたわら、ロードバイク業界の第一人者として、西欧のロードバイク文化を日本に紹介してきた書き手でもある。ロードバイクの各部の発展史を記した『ロードバイク進化論』や、近著『超一流自転車選手の愛用品』のように、メカの部分に注目した著作もある。
そんな彼が話してくれたのは、都市生活者のカジュアルスポーツとしてのロードバイク文化と、その日本における受容の歴史。いまや新しい大人の趣味として定着した感のあるロードバイクだが、冷静に考えると、一体いつから流行りだしたのか不思議ではないだろうか。オタク趣味としてのパーツいじりまで含めて、その人々を惹きつける魅力を聞いた。
◎聞き手・構成:稲葉ほたて
――ロードバイクの始まりはいつなのでしょうか?
仲沢 そもそも自転車が誕生したのが、19世紀初頭のことです。ドイツのとある男爵が、ペダルもギアもなく2つ車輪がついているだけの、足で地面を蹴って進むドライジーネという乗り物を発明しました。それが自転車の元祖とされています。
ただ、この時点では、まだレースがありません。西欧の自転車文化を考える際に重要なのは、ツール・ド・フランスなどのレースなのです。これが誕生したのは、ドライジーネを発展させて作られたペダル駆動の乗り物が出てきたときでした。当時はまだチェーン駆動ではなくて、三輪車のようにペダルと車輪が直結していたそうです。これが貴族階級やお金持ちには普及して、徐々にレースが行われるようになりました。ああいう人たちは、乗り物を持つと、必ずレースをやり出すのですね。
――ロードバイクの進化はその後、どう進んでいきましたか。
仲沢 レースを目指して進化したので、「より軽く、より速く」が基本です。
先ほどのペダル駆動の乗り物は、速く走らせようとすると車輪を巨大化させる必要がありました。その結果、死亡事故が多発してしまい、安全性の観点からチェーン駆動が導入されます。これが1880年代のことで、ここで現在の自転車の姿が完成しています。その後の大きな追加点は、1930年代の変速機の登場でしょうか。
ただ、その後もフレームは試行錯誤が続きました。1970年代にそれまでのスチール一辺倒の流れに対して、アルミのフレームが登場します。軽さと強度を兼ね備えた素材がフレームでは重要なのですね。東西冷戦後に軍事用に押さえられていたチタンが民間に流れて、チタンフレームが流行ったのも、こぼれ話としては面白いところでしょうか。
ただ、2000年代に強度も軽さも優れたカーボンフレームが出てきて、ひとまずは落ち着いた印象があります。レース用としては、もはやカーボン以外は考え難いですね。
――最も影響力の大きかったレースは何だったのでしょうか?
仲沢 影響が大きかったのは、昔も今も「ツール・ド・フランス」です。世界最大のレースでもあると同時に、他にはない独自ルールが存在してきたレースでもあります。例えば、1930年代くらいまでは変速機が使用禁止でした。かつては自転車交換も認めていなかったので、タイヤをたすき掛けで持ったライダーが、故障の際に自ら修理していた時代もあります。
そこから生まれた悲劇のヒーローが、1920年代に活躍したウジェーヌ・クリストフです。彼はピレネー越えの際にフレームを故障してしまい、レースを続行するため麓の街までバイクを担いで向かいました。鍛冶屋で「ふいご」を借りて自ら溶接して修理したのですが、優勝候補の一人でありながら大変に順位を落とす結果に終わりました。
しかし現在も、そのサン・マリー・ド・カンパンという街では、その鍛冶屋の家が知られていて、そこには彼を称える銘板が置かれています。フランス人は物語を語り継ぐ民族なのです。
――「ロードバイク文化」が西欧にはあるのですね。
仲沢 フランス、イタリア、ベルギーあたりでは、日本で言えば「野球」に匹敵するくらいの文化です。フランスでも――さすがにサッカーだけは別格ですが――それに次ぐ文化としてはF1に並びます。スポーツ紙のレ・キップを読めば、一面こそサッカーの話題ですが、その次くらいには自転車の話題が出てきますよ。
だから、向こうの子どもたちは、日本の子どもが少年野球をするように、普通に自転車に乗ります。どんな街にも必ずヴェロクラブという自転車クラブがあって、大人たちがシステマティックに子どもに自転車の乗り方を教えます。コーンを立てて間を走行させたり、ぶつかっても転ばない練習をさせたりして、安全に乗れる技術を身につけさせていくんです。
――補助輪なしで乗れるようにする、みたいなレベルじゃないんですね(笑)。
仲沢 補助輪なんて、そもそもないですよ。もちろん、野球選手と一緒で、大部分の子どもはプロになれません。でも、趣味としてロードバイクに乗り続ける人は沢山います。
――やはり、F1レーサーや野球選手みたいに儲かるんですか?
仲沢 いや、最近までさほど儲かりませんでした。アシスト級の選手なんかだと、下手するとサラリーマンよりも低いでしょう。ただ、わりと名誉職的な意味合いがあって脚光を浴びるので、憧れる子どもは沢山います。金持ちのボンボンを、親がチームに何千万円と寄付をしてプロ入りさせるなんて話も珍しくありません。
ただ、アメリカ人の選手が増えてからは、スポンサー料などでかなり儲かるようになったそうです。それでもアメリカ人にとっては、MLBやNBLの選手に比べて随分と低いと思いますよ。
――日本におけるロードバイクの受容はどうだったのでしょうか?
仲沢 基本的には、昭和30年代の第一次サイクリングブームが現在に繋がる始まりです。
ただし、最近資料を調べている最中なのですが、実はどうやら大正期の日本に自転車レースの黄金期があったそうです。割とママチャリのような実用車的な自転車を使って、東京―大阪間や東北一周のレースを行っていたそうです。
そもそも日本で最初の自転車クラブは、1920年頃に帝国大学(現在の東京大学)に誕生した「帝国大学自転車倶楽部」でした。まだ自転車は庶民には高価で買えない時代だったので、一部のインテリの乗り物でしたが。
――戦前の旧制高校的な教養主義の中で輸入されていたのですね。
仲沢 ただ、戦後にアメリカ文化が流入する中で押し流されました。当時のアメリカ文化には、自転車なんてないですから。もし、あのまま戦前の流れが定着していれば、日本にもツール・ド・フランス級の自転車レースが出来ていたのかもしれません。
――それが昭和30年代に、また復活したわけですね。以前、この頃の小津安二郎の映画で、休日に会社員がサイクリングに行くシーンを見たのですが、あれは当時の最新の流行だったんですね。
仲沢 レジャーの流れで、サイクリングブームが訪れたんです。自転車に乗って、休日に遠くへ行く人たちが現れました。
その当時はまだイギリス風の自転車が多くて、ロードバイクはあまりメインではありません。「ランドナー車」もメジャーな趣味ではなかったんです。日本人の「ランドナー崇拝」は、当時発刊した雑誌「サイクリング」や、その後に発刊された「ニューサイクリング」のカリスマ編集長だった、今井彬彦さんの影響だと思いますね。フランスに当時あったルネ・エルスという工房をピラミッドの頂点に据えた世界観を主張した人です。
――カリスマ編集者みたいな人がいたんですね。
仲沢 まあ、僕も高校生の頃には夢中になって読んでいましたが(笑)、やはりいま読むと「彼の価値観でしかなかったよな」と思うのも事実です。本来、自転車はもっと自由なものですよ。
何より「サイクリング」と、それを引き継いだ「ニューサイクリング」の良くない影響は、「ランドナー車はフランスの古いパーツで作られているべき」なんて主張する人を作ってしまったことです。だって、ルネ・エルスが今もサイクリストにランドナーを提供し続けていたら、古いパーツなんて使いますか? 違うでしょう。きっと今使われているパーツで、自分たちの自転車を作り上げたはずです。まるでクラシックカーのように、自転車が扱われていると思います。
――「男の趣味」の世界にありがちな話が、やっぱりあるんですね(笑)。
■なぜこれまでの自転車ブームは上手く行かなかったのか?
――結局、こうしたブームが衰退した理由って、どの辺だったのでしょうか?
――結局、こうしたブームが衰退した理由って、どの辺だったのでしょうか?
仲沢 80年代にも一度、ロードバイクブームが来たのですが、これも同じ理由で衰退しました。当時NHKがツール・ド・フランスを放送した影響で、一度ブームが来たんです。ポパイやブルースタスでも特集が組まれました。まあ、部屋のインテリアとしてお洒落……みたいな文脈でしたが。
――僕の知っている80年代の光景に、ロードバイクは登場してこないですね。
仲沢 85、6年頃にはかなり盛り上がったのですよ。ツールに日本人で初めて出た今中大介さんなどの、現在の日本のロードバイクを支える重要人物たちも、この時期に始めています。
二度ともブームが衰退した理由は、日本に自転車を走らせる環境がなかったことに尽きます。向こうでは、道路に自転車専用のゾーンがありますからね。それに、当時は日本人の運転マナーも悪かったです。路上でロードバイクを走らせていようものならクラクションがブーブー鳴らされて、おっかなくて仕方ない。そうなると、やはりみんな辞めていきます。
ただ、最近になって日本人の自動車のマナーはだいぶ向上したと思います。走るのが楽になりました。
まあ、西欧では当然なんですけどね。フランスでペリグーという町の自転車クラブに一週間滞在したことがあるのですが、やはり狭い道で自転車が列をつくると渋滞が起きてしまうんです。でも、自動車はクラクションを鳴らしません。安全に抜けるところまで後ろを走ってくれて、抜かしざまに「頑張れよ」なんて声をかけてくれる。ああ、文化として完全に受け入れられているんだな、と思いましたね。
――道路事情の方は向上しているんでしょうか。例えば、このPLANETSを主宰している宇野常寛さんは、本人自身もロードバイクに乗っている最中に車にハネられたりしていて、「東京の道路に自転車は向いているのだろうか」と話すんです。一方で、彼の友人の吉田尚記さんというアナウンサーの人は、むしろ「東京の道路は自転車での移動に向いている」と言うんですね。特に下町なんかは、自動車が普及する前に街並みが完成しているので、むしろ自動車にこそ向いていない、と。
仲沢 両面あって、現状ではお二人がともに正解だと思いますよ。
例えば、シアトルやバンクーバー、あるいは西欧のベルギーやオランダのような街では、見事に自転車レーンが出来ています。鉄道にも自転車を積めるスペースがあるので、日本のように輪行にしてバッグに積んで載せる必要がありません。気軽な移動手段として使えるインフラが完成しています。それに比べれば、やはり日本は自転車に向いていないと言わざるを得ません。
でも、都内では四六時中電車が混み合っていて、自動車では数キロの移動で1時間かかることもあります。それに比べれば、その間をスイスイ漕いでいける自転車は向いていますよ。実際、東京の下町に、狭い一方通行の道が多いのも事実です。
――80年代の後、ゼロ年代のロードバイクブームに至るまでラグがありますね。
仲沢 90年代の始めくらいをピークにして、今度はマウンテンバイクブームがあったんです。これが実は重要です。
マウンテンバイクの始祖とされているゲイリー・フィッシャーやジョー・ブリーズは、サンフランシスコの周辺に住んでいました。彼らは、ビーチ・クルーザーという砂浜を走る太いタイヤを改造して、そこに変速機や幅の広いハンドルを付けて、山遊びで楽しく下るための自転車として「マウンテンバイク」を作ったのです。
――まさに、西海岸流の「ハック」の文化ですね。
仲沢 ゲイリー・フィッシャーは、非常に面白い話があるんです。彼はロードバイクの全米ナショナルチームにいたんですね。ただ、西海岸の自由な風土で育った選手だったこともあり長髪で通していたら、「長髪を切れ」と言われてしまい、それに抗議して辞めてしまったんです。この辺はヒッピー文化に通じるものがあります。
ただ、彼は自転車が好きだったんですね。その後、彼は自由に山で乗れる自転車を作ろうと考え始めました。それで生まれたのがマウンテンバイクなんです。
ただ、彼は自転車が好きだったんですね。その後、彼は自由に山で乗れる自転車を作ろうと考え始めました。それで生まれたのがマウンテンバイクなんです。
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最終更新日:2024-11-13 07:00
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