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國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第5回テーマ:「勉強に関する悩み」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.146 ☆
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國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第5回テーマ:「勉強に関する悩み」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.146 ☆

2014-08-28 07:00

    國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
    第5回テーマ:「勉強に関する悩み」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.28 vol.146

    一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ『哲学の先生と人生の話しよう』。2ndシーズンの連載第5回となる今回のテーマは「勉強に関する悩み」です。

    ▼連載第1期の内容は、朝日新聞出版から書籍として刊行されています。
    國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版、2013年)
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    ▼國分功一郎の人生相談「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
    最新記事が読めるのはPLANETSのメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」だけ!
     
     
    【1】難解な文献を理解できるようになるにはどうしたらよいでしょうか?(スーパームーン 48歳 女性 愛知県 病院リハビリ職)
     
     國分先生
     
     文献を読むということ…その難解さに悩んでいます。もっと分かりたいんです。どうしたらいいのでしょうか。やはり恋愛や仕事の習得と同じで練習の積み重ねでしょうか。
     
     病院でリハビリ職をしています。ヒトの認知や情動や意識、言語に興味関心があり 更に深く仕事をしたいと文献を読んでいます。
    難解と言われている文献を読むにあたって入門書やネットのあらすじも利用するのですが 分かるような分からんようなまさに抽象の世界です。
    先日は13歳の時にスピノザを早読んでいたというヴィゴツキーという心理学者の『これで分かる~思考と言語』というセミナーに参加しました。
    錚々たる大学教授の講義が続きましたが テーマが簡潔になるどころか
    ますます巨大化して掴めない程の情報でした。
     
     日常の業務はより実務的です。医者やナースに伝えるとき 起承転結で話していてはイヤがられます。結論から相手の立場の言語で言うことが求められます。
    それから考えると圧縮できる知性が欲しいです。
    國分先生は難解の文献を日々読まれていますね。どのように理解して身体的なことばに表現される技術をお持ちなのでしょうか。
    才能だとは言わないでください。習熟とも言わないでください。
    大学教員の文献を読むということがどんなことなのかの常識を先日、体験したばかりですので相談したく投稿致します。
    社会人ですが 仕事をまとめて論文を書くのが第二の夢です。そのためには文献も読み込んで行かなくてはなりません。宜しくお願いします。
    國分先生のご活躍、書籍やツイッター等から応援しています。
     
     
    【2】高い学費を払って大学に通う意義が見いだせません(中村謙太 20歳 男性 北海道 大学生)
     
    はじめまして、大学1年生です。大学の授業を受けてみましたがPLANETSの動画や書店に売ってる本の方がよっぽど勉強になります。このまま大学に通って教授のグダグダな授業1回ごとに3500円ちかく払う意味がどうしても見いだせません。また、大卒という学歴や大学名が企業の採用基準になっているのもよくわかりません。大学の授業より安くて内容の濃い情報が得られる今の世の中で大学に行ってまで学ぶ意味と学歴社会についての國分さんの考え方をお聞かせ下さい。宜しくお願いします。
     
     
    【3】仕事が忙しくて、勉強したくても時間がなかなか確保できません(ブローノ・ブチャラティ2世 26歳 男性 埼玉県 会社員)
     
    國分先生こんにちは。
    社会人が勉強時間をどうやって確保するかについて相談したく、今回の人生相談に応募してみました。
     
    私は東京で会社員をしているのですが、どうしても毎日の仕事(ちなみにごく普通の事務職です)が忙しく、帰宅時間が22時を過ぎることも多いです。ですが今の仕事以外に挑戦してみたいことがいくつかあり、今は寝る前の1時間ぐらいを使って、その分野の勉強をしようとしているのですが、毎日続けることがなかなかできません。
     
    それで、じゃあ休日にまとめてやろう!と思うのですが、毎日の仕事の疲れが蓄積し、土曜日などはまともに活動することすらできず、ずっと寝たりスマホでネットを見てダラダラしたりして、日曜の夕方になってようやく重い腰を上げて勉強をしたりしています。
     
    こんな感じなので、勉強したことがなかなか積み上がっていかず、いつまで経ってもかたちにならないので、不安であると同時に、続けるモチベーションも萎んでいくという悪循環に陥っています。
     
    最近では、家から職場までの電車での通勤時間が片道1時間ぐらいかかって、しかも混雑する路線なので、それで疲れてしまって家で勉強できないのかとも思い、会社の近くに引っ越しちゃおうかとも考えています。(でも、「会社の近くに住むと時間に余裕ができるせいでダラダラ残業しちゃう」とか、「電車のなかでボーっと考え事をできる時間があるほうがいい」とか人は言うじゃないですか。それで微妙に二の足を踏んでいるところもあります。そもそも都心は家賃高いですし…)
    ちなみに、私の勉強というのはプログラミングに関するもので、手を動かせない電車のなかでスキルを上げていくというのは難しいのです…
     
    こんな感じで、何やらずっと足踏みの状態が続いております。
    要するに、仕事で疲れていることを理由に、勉強への気持ちの切り替えがパッパとできなくてなんとなく不全感を抱えている、というのが私の悩みかなと思うのですが、こういう人はどうしたらよいでしょうか?
    なんかこう、ざっくりとした相談ですみません…お答えいただければ幸いです。
     
     
    【4】「もっと勉強しなければ」という強迫観念に囚われてしまいます(osakana 45歳 女性 東京都 非常勤講師)
     
    まがりなりにも専門を持って人に教える立場になっているのにも関わらず、「自分は勉強が足りない」「もっと勉強しなければ」という強迫観念にとらわれていて、それがたまらなくストレスです。つまり、はっきりいって勉強・仕事=苦役という感覚から自由になれません。もっと生き生きと自然体で勉強というものに対峙したいのですが。
     
     
    【5】大学院に進学するかどうか迷っています(ちゃんこ 19歳 男性 東京都 大学生)
     
     國分さんこんにちは。ちゃんこと申します。僕はいま大学1年生なのですが。やはり大学卒業後の進路についてたびたび考えることがあります。そしてその選択肢の一つとして大学院への進学があります。僕はいま國分さんや宇野さんをはじめとした各種の学問や評論の本を読んだり、書いたり、考えたりというのが一つの趣味となっており、このようなことが仕事に出来たら良いなと漠然と考えています。もちろん、自分が将来、学者や評論家というような職業を生業として生きていけるかを見定めるにはまだ時期尚早であり、今後の努力や心情の変化等によって、進路の選択肢は変わってくるでしょう。
     上記のようなことを考えている中で僕が主に悩んでいることは、①大学院進学を決めるキッカケ②大学院に進学した場合の、(院生における)生計の立て方です。②については、奨学金を得る、なにか自身で稼げるスキルを身につける、仕事しながらも大学院に通えるような企業に就職する、等の選択肢があると考えています。周りの友人の多くは卒業後に企業に就職することになるでしょう。そんな中で自分が大学院生として2年、6年過ごすことになるとしたら、なんだかんだいって今から考えても不安になります。この①、②について國分さんの経験も踏まえて、何かしらのアドバイスを頂けたら嬉しいです。
     ちなみ、いま自身の専門にしたいと考えているのは理論社会学の分野です。大学は一応私立のトップのK大学に在学しております。勉強というより、進路の相談のような形になってしまい申し訳ありません。よろしくお願いします。
     
     
    【6】大学生ですが「勉強する」という決断に迷いがあります(店長 20歳 男性 東京都 学生)
     
    國分さんこんにちは。当方、早稲田の数学科3年生をやっている学生です。勉強に関する悩みということで、質問させていただきます。僕は今学期の定期試験の感触からして、5年生がほぼ確定致しました。大学一年生から大学の建物が嫌いで、授業の内容はともかく早稲田の建物に近寄ることに異常な嫌悪感を抱いており、それが故に単位はとれず、こうして留年という親不孝な結果を招いてしまいました。恥ずかしい程に子どもっぽかったと、今はとても反省しています。
    しかしながら、授業をさぼって読んでいた野家啓一さんの本に衝撃を受けて、今自分が勉強していることに意外なおもしろさを見い出してしまいました。それで、理系ということもあって、院まで進学して改めて勉強したいという気持ちがありつつも、しかしもはやここまで勉強してなかったので今から勉強するには完全に出遅れてる上、留年しているにも関わらず院に進学するという、事実と気持ちの矛盾に、うしろめたさを拭えず、進路に迷っています。もうすこし、「勉強する」という決断を後押ししてくれる、説得力のある言説があれば、自信をもって院を視野にいれつつ勉強ようと奮起できると思うのですが、「はやく社会にでたほうが生涯年収がうんたら」とか「勉強しても役にたたないからねえ」とかそういった言説が多く、それらに対して何も言えない自分がいます。
    もっと「勉強する」という行為を力強く「意義深い」と後押しする言説があってもいいのに・・・。と、こういった状況にいる身の上で感じているのですが、國分さんはそれについてどう思われますか?そして、ふわっとしてますが、國分さんの考える「勉強する意義」を教えていただけると幸いです。 

    皆さん、こんにちは。國分です。
     いかがお過ごしでしょうか。
     今回は勉強がテーマなんですけど、非常に書くのが難しいです。或る意味ではたくさん言いたいことがあるけれども、一般的な仕方で言うのが難しいんです。僕も研究者の端くれですが、研究者というのはいつも勉強しているわけですよね。だからこそ、あまりにも自分の日常すぎて書きにくい。でも、ものすごいこだわりがあるところでもあります。仕事ですから。
     全般的な記述というのを求めず、思いついたことを書いていこうと思います。
     僕はこの一年間、古典ギリシャ語をやってました。毎週土曜日に語学学校に通って勉強していました。後半に突入したあたりで予習復習がだんだん大変になっていって、冬あたりはギリギリな感じでしたが、春あたりになるとかなり勘が働くようになっていきました。
     一つ、この経験をもとに考えたことを書いておきたいと思います。
     久しぶりに新しい言語に挑戦して思ったのは、やはり勉強するには、
    (1)誰かに教わる
    (2)強制力がある
     この二つが重要だということですね。一つずつ説明しましょう。
     
     まず誰かに教わるという点ですが、これは深く論じると多分ものすごい大変なことになるんですが、かいつまんで言うとですね、教わる時に、人は明示的な内容以上のものを受け取っているということなんだと思います。
     たとえば、ギリシャ語の動詞の活用はギリシャ語の教科書に書いてありますよね。だったら、それを読んで覚えればいいじゃんって思うわけです。でも、違うんですよ。それをただ本から読むのと、誰かから教わるのとでは全然違う経験なんです。
     もちろん、教え方がいいとか、教える内容に付随してくるオマケ情報が面白いとかそういうこともありますが、それだけでもない。
     どういうことかと言うと、ある教科を教わる時に、僕ら生徒は、先生がその教科に対して持っている態度とか精神、ちょっと大げさに言うと、思想のようなものを同時に受け取っているのです。
     少し頑張って説明してみますね。
     たとえば、A、B、C、D、Eという五つの項目からなる教科があるとします。すると、生徒は当然、Aから順にEまでの項目を教わるわけです。普通に考えれば、Aから順にEまでを教えてもらえるなら、誰に、あるいは何に、どうやって教わってもいいはずです。単に教科書を読むだけでもいいかもしれないし、毎回違う人に教わってもいい感じがします。
     しかし、一人の教師からそれを教わると、ちょっと違うのです。なぜなら、教える人には、その教科に対する態度や精神、あるいは思想があるからです。
     たとえば、五つの項目の中で、AとCとEという項目に力点を置いて、その教科を把握している先生もいるでしょう。AとDに力点を置いて全体を把握している先生もいるでしょう。先生ごとに異なった力点があるのは、先生たちの教科把握の背後に何らかの思想があって、それに基づいて、「こことここが重要なのだ」「こここそがポイントだ」と考えているからです。
     誰かから教わるというのは、単にA、B、C、D、Eという五つの項目を教えてもらうということではなくて、その五つの項目の把握の仕方をも教えてもらうということです。AとCとEに力点を置けばこんな風に全体が見えてくるとか、AとDに力点を置けば五つの関係がこう把握できるとか、そうした全体の把握を教えてもらうことが大切なのです。
     これは、言い換えれば、教科の教授にあたっては、明示的に口にはだされなくても、教えられることの全体から、ある種の思想が醸し出されているということでしょう。
     単に教わることと、教わったことを体得することとは違います。体得するためには、全体を把握する何らかの思想をもっていなければなりません。だから、単にA、B、C、D、Eという五つの項目を教えてもらうだけではなくて、その五つの項目の体得している一つの事例を教員に示してもらうことが大切なのです。
     小学校の算数ってすごく難しいですよね。たとえば小四ぐらいでかけ算の概念が拡張されます。それまでは個数を考えていたのに、0.1をかけるという事例にまでかけ算が拡張されるからです。この場合、小学生に「ここでかけ算の概念が拡張されているのだ」と言ってはダメですね(まぁ、子どもによってはそう教えてあげた方がいい場合もあるでしょうが…)。
     でも、算数における概念の拡張について、教える側が一定の思想を持っていれば、子どもたちに対する説明の中にそれが現れるはずです。そして、ある程度の期間にわたって同じ人物が教えるのであれば、数学的概念の拡張についての同じ思想のもとで、複数の概念の拡張が──「概念の拡張」という言葉を使わずに──教えられるわけですから、子どもたちには理解しやすいはずです。子どもたちは「ああ、この前のあのパターンと同じだ」と思えるわけです。
     こう考えてくると、教師から教わるということにはやはり大きな意味があると言えます。
     但し、生身の教師でなければならないのかどうかというとちょっと話は難しくなります。
     たとえば僕は、哲学者について勉強する時、その哲学者の思想をつかみ取ろうとします。実際に述べられていることではなくて、述べられていることの背後にある思想ですね。それをつかみ取ろうとする。
     もしもそのような態度で算数の教科書に臨むことができるのであれば、やはり一冊の算数の教科書は一つの思想をもって書かれているでしょうから、その生徒は全項目を、その背後にある思想を含めて理解することができるでしょう。
     しかし、このような仕方でのテキストからの思想の読み取りは、研究という仕方で一つのテキストに何度も何度もアタックする形で取り組めるから可能なのであって、毎ページに新しい項目が現れる算数の教科書に小学生が取り組む際や、今まで学んだことのない言語を勉強したりする際にはとても無理です。
     だから、やはり生身の教師に教えてもらった方がいいのです。その教師の思想に基づいて、各項目を手取り足取り教えてもらった方がいいのです。
     世の中には、生身の教師に教わらなくてもそうした思想を読み取れる人もいます。そういう人はしかし稀です。
     やはり勉強する際には、誰かから教わった方がいい。繰り返しますが、それは教わる内容の把握の仕方、体得の仕方を教えてもらえるからです。
     
     さて、ここまで随分と長くなってしまいましたが、次は簡単ですね。勉強するにあたっては強制があった方がいい。
     僕はお金を支払って語学の学校に行ってました。もちろん、それまでも何度かギリシャ語の教科書とか買って自分でやろうとしたんです。でも全然ダメです。そういうことができる人もいると思うんですけど、ほとんどの人は無理だと思いますね。続かないんですよ。
     僕の場合は研究の上で絶対にこれが必要でしたので、それが大きな後押しになりましたが、お金を払っているとか、毎週会っている先生と仲良くなるとか、そういうことも大切なんですね。「ああ、休むわけにはいかないよなぁ」とか思えるとか。
     なんで強制がないとダメかって言うと、勉強はつらいものだからです。〝強〟いて〝勉〟めるんですよ。「勉強って楽しい!」というのは噓というか、少なくともミスリーディングですね。勉強を積み重ねて、どこかの時点で何かが分かった時がものすごく楽しいのであって、積み重ねていくこと自体はやはり苦労ですよ。
     もちろん、勉強することそのものに慣れるということもあって、そうすると積み重ねるのに時間がかからなくなって、「分かった!」という結果にすぐにたどり着けるようになります。そういう場合には、勉強していても楽しいことが続くということになる。でも、これは上級編の話です。
     つらいんだから、強いられないとダメ。それにはカネを払うとか、人間関係上の強制力を働かせるとか、学校に行くとか何か工夫すべきですね。
     

     さて、そろそろご相談いただいた内容に入りましょう。まずは、スーパームーンさんのご相談ですね。文献を読むということについて。もっと読めるようになりたいということでしょうか。【1】スーパームーンさんは職業柄なのか、相談あるいは質問するのが得意な方のようです。

     「國分先生は難解の文献を日々読まれていますね。どのように理解して身体的なことばに表現される技術をお持ちなのでしょうか。/才能だとは言わないでください。習熟とも言わないでください。」
     
     そうですね、才能とか習熟とか言われても何も分かりませんよね。
     才能も習熟も関係しているとは思いますが、大切なのは、最初からそれをやってみることだと思います。どういうことか。
     スーパームーンさんは文献を深く理解したいわけですよね。そうしたら、深く理解したいその文献に、今すぐ、深く理解できるまで取り組んで下さい。
     ふざけて言っているのではありません。どういうことかというと、「深く理解する」ということがいつかできるようになって、それから何かを深く理解し始めるのではないということです。単に、ある文献に対する浅い理解、別の文面に対する中途半端な理解、また別の文献に対するそれなりの理解……そうしたものがあるだけなのです。だから、深く理解したい文献があるなら、それを深く理解するよう今すぐに取り組む、それしかないのです。
     深く理解したい文献が特にないのに、単に「文献を深く理解したい」とお考えならば、それはいつまでも達成はできません。言っている意味がわかるでしょうか。「理解したい」という欲望の問題とも関係していますが、それともちょっと違います。
     ちょっと難しい言い方をすると、可能性としての能力が可能性として培われ、最終的に自分の中に内蔵される──そんな事態はないということです。
     いや、そんな風に見える事態もあるかもしれないんですが、それは見かけであり、あるいは結果の話です。そういう状態になっているように見えるとしたら、それは単にその人がいくつも文献を深く理解したというただそれだけのことなのです。その状態を「可能性としての能力」という言葉で無理矢理に切りとると、「この人には文献を理解する能力が培われている」と見えるだけです。繰り返しますが、その人は単にそれまで複数回、文献を深く理解してきただけなんですよ。
     これはいろいろな勉強に言えることです。
     たとえば、フランス語で本が読みたいというなら、読みたい本を読めるように努力すればいいんです。「いつの日かフランス語でスラスラ本が読めるように…」ということを夢見て、読解能力を高める訓練を積み重ねても、無駄とは言いませんが、なかなかそういう時はやってこないように思います。 
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    最終更新日:2024-11-13 07:00
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