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本日のほぼ惑は、「ダ・ヴィンチ」に掲載されている宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」のお蔵出しをお届けします。今回取り上げる題材は、大ヒット映画『STAND BY ME ドラえもん』。藤子・F・不二雄の原作から「のび太の成長物語」としてのエッセンスを抽出し、大きな支持を得た今作が描かなかった"もう一つのテーマ"について考えます。
初出:『ダ・ヴィンチ』2014年10月号(KADOKAWA)
札幌市の札幌琴似工業高の社会科教諭・川原茂雄さん(57)が16日、弁護士を招いて集団的自衛権を学ぶ授業を行った。「2学期から憲法を学ぶ前に、憲法が生活と身近にあることを感じてほしい」という考えからだ。大人にも分かりにくい集団的自衛権の問題を、どう高校生に伝えるか。絵や図を多くし、例え話で 身近な事例に近づけて教えた。授業は、2年生の現代社会。札幌弁護士会の伊藤絢子弁護士(32)が担当した。まず生徒が伊藤さんに仕事や趣味について質問し、空気がほぐれてきたところで、話は本題に移った。川原さんと伊藤さんは、「ドラえもん」を例に話を進めた。米国は「ジャイアン」、日本は「のび太」。安倍晋三首相は集団的自衛権の行使容認で「日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなっていく」と胸を張ったが、「のび太が武装して僕は強いといっても、本当に自分を守れるかな」と川原さん。生徒はみな顔を上げ、考えこんだ。伊藤さんは「武装してけんかをするか、何も持たずやられるのか、選択肢は二つじゃないよね」と、話し合いでの解決法を示した。》(朝日新聞7月19日刊)
先日、ラジオのニュース番組にゲスト出演したとき、集団的自衛権をめぐる議論について意見を求められた。曰く、札幌市の高校の授業で「ドラえもん」を例に集団的自衛権についてディスカッションを行うものだったという。番組を担当する局のアナウンサーは僕に尋ねた。「集団的自衛権の是非はひとまず横においておいて、サブカルチャーの例でこうした話題を説明する授業についてどう思うか」と。僕は迷わず答えた「それは当然のことだ」と。戦後社会は、軍事について、戦争について、安全保障について正面から語り、議論し、描くことを忌避する文化空間を維持して来た。戦後社会の繁栄と安定がアメリカの核の傘の下に成り立っていることを隠蔽し、破壊と暴力には恐怖と嫌悪と同じくらい憧れと快楽が伴うという現実をも隠蔽して来た。だからこそ、油断するとすぐに安易に戦争の道を歩みかねない人間には理性による戦争抑止が必要なのだという論理にたどりつくことなく、単に忌避し、隠蔽して来た。しかしサブカルチャーだけが戦争という現実を子どもたちに伝えて来た。いくら、戦中派の実体験を拝聴しても、いくら社会科見学で戦争の傷跡をめぐっても伝えられない戦争の側面について、人間の業の本質について伝えてくれたのは、ファンタジーや幼児番組のかたちをとったサブカルチャーだった。核という人類には過ぎた力への憧れと恐れは『ゴジラ』が、安保体制下における正義の不可能性は『ウルトラマン』が、そして第二次世界大戦で悪の側に置かれたことで拭えぬ傷を負った男性性の迷走は『宇宙戦艦ヤマト』が、それぞれ結果的に、あるいは自覚的に引き受けていったのだ。僕たちは戦争のもつほんとうの恐ろしさも、そして魔性の魅力も、サブカルチャーから教わって来た。だから「ドラえもん」が集団的自衛権のたとえに用いられるのは至極当然のことだ。実際、のび太という自力では何もなし得ない非力な主人公は、自分たちの力では平和と安定を守れない戦後日本の似姿に他ならない。
僕は集団的自衛権の安易な行使容認には反対だし、安倍政権の立憲主義を踏みにじる解釈改憲にも批判的だ。しかし、それ以上に、こうしてアメリカの核の傘に守られている現実から目を背け、憲法九条があったからこそ戦後日本の平和が保たれて来た、なんて見え透いた嘘をこの期に及んで振りかざす左翼の愚かさと、それで安倍晋三が止められると思っている能天気さに軽蔑を禁じ得ない。野暮を承知で札幌の高校教諭のたとえ話に突っ込むなら、ジャイアンはアメリカではなくかつてはソビエト、今は中国であり、そしてドラえもんはアメリカに他ならない。そしてドラえもんの力で幸福(戦後復興と平和)を享受しながらも、それゆえに成長できないのび太=日本が自立するには対米従属の時代を終わらせるしか、ドラえもんにさよならを告げるしかないのだ。もちろん、こうした構造自体がグローバル化が進行し、日本に限らずあらゆる国家にとって一国防衛が現実的ではなくなった今となっては過去のものだ。「その意味においては」ドラえもんで集団的自衛権のたとえとするのはもはや「旧い」のかもしれない。
だから、この夏公開された映画『STAND BY MEドラえもん』を見たときは、ひどく悲しくなった。映画の出来が悪かったわけではない。むしろその逆で、本作が原作のエピソードを巧みに再構成し、アレンジし、今は亡き藤子・F・不二雄がなし得なかった『ドラえもん』の(事実上の)完結をなし得たのはまぎれもない達成だと思う。本作において、のび太は成長する。ドラえもんに甘やかされてきたのび太は、その環境に甘えることなく、ドラえもんがいなくても強く前向きに生きていける青年に成長する。それもジャイアンのように単に強くなるのではなく、むしろドラえもんに甘やかされたことで得られた環境の中で、自分の持っている「優しさ」を武器に生きて行くすべを獲得する。これはまさに、戦後民主主義が目指した価値そのものだったと言えるだろう。アメリカのように強くなるのではなく、日本的な優しさの価値で、武力ではなく文化と経済で、世界に価値を認められる──本作は藤子が生前描き遺したいくつかのエピソードをつなぎ、そして要所要所をアレンジして、彼にできなかったのび太の成長物語としての『ドラえもん』を見事に完結させたのだ。しかし、いやだからこそ、映画を見終えた僕は悲しくなった。なぜか。それは藤子・F・不二雄が、『ドラえもん』をむしろ完結「させなかった」ことで描こうとしたものが、未来が、この2014年の日本ではほぼ崩れ去ろうとしていることが分かってしまったからだ。そして、この映画が描いているもの、すなわち「戦後的な成熟」のモデルは既にノスタルジィとしてしか成立しない過去の存在でしかないことが分かってしまったからだ。
原作の『ドラえもん』はある時期からのび太の成長を描くことを、そして作品を「完結」させることを半ば意図的に放棄していたと思われる。実際、この映画『STAND BY ME』に採用されたエピソードの多くは、原作に登場し、『ドラえもん』の世界観や設定の根幹をなす重要なエピソードだが、藤子はこれらのエピソードを経ながらも、翌月の『コロコロコミック』では、あるいは小学館の学年誌ではこうしたのび太の感動的な成長をリセットして、まるで「なかったかのように」して、通常のギャグ編を展開し続けた。そこでのび太は欲望のままに生きる小学生男子であり、あらゆる困難を自力ではなくドラえもんのひみつ道具で解決しようとする他力本願主義者であり、そしてそのたびに最後はしっぺ返しを食らうトラブルメーカーであり続けた。そしてそれ故に、『ドラえもん』は科学の力で不可能が可能になることの純粋な喜びを、憧れを描くマンガであり続けることができた。
たとえばドラえもんのひみつ道具に「おこのみボックス」というものがある。これは一見、何の変哲もない手のひらサイズの薄い「箱」だ。しかし、この箱にひとこと「テレビになれ」と話しかけると箱はテレビ放送を受信して映像をクリアに映し出す。「レコードプレイヤーになあれ」と話しかけると、レコードを回し音楽を流し始める。「インスタントカメラになあれ」と命じると、コンパクトカメラとして機能する。少し前にインターネットで話題になっていたので、覚えている人も多いだろうが、これはどう考えても現在におけるスマートフォンに他ならない。藤子は今から何十年も前に、その想像力で僕たちの未来を、世界を変える道具を描いていたのだ。それも他力本願で欲望のままにいきるダメ小学生の「夢」として。
そう、藤子がのび太を成長させなかったのは、こうした夢を、欲望を実現するための想像力としての(SFギャグマンガとしての)「ドラえもん」を殺したくなかったからではないか──そう僕は考えている。
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最終更新日:2024-11-13 07:00
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