本日のメルマガは、『現代ゲーム全史』連載中の中川大地による『ひぐらしのなく頃に』論のお蔵出しです。のちの「カゲロウプロジェクト」や「ダンガンロンパ」シリーズ、『僕だけがいない街』(「マンガ大賞2014」2位作品)など、10年代のヒットコンテンツにも大きな影響を与えたと言われる「ひぐらし」。当時としては珍しく、同人作品から出発しアニメ化など多数のメディアミックス展開も行なわれたこの作品のインパクトを改めて振り返ります。
■はじめに〜「放送中止騒動」から考える
2007年9月、京都府京田辺市で16歳の少女が手斧で父親を殺害した事件の発生を機に、当時放映中だったアニメ版『ひぐらしのなく頃に解』に対し、作中の残酷な描写が事件を連想させることなどを理由に、いくつかの放送局で打ち切りや放送自粛の措置が執られた。これを受け、同時期のアニメ『School Days』の最終回放送中止と並んでそれなりに物議を醸したことは記憶に新しい。
もちろん、そのこと自体はアニメやゲームに限らず、その時代時代のサブカルチャー表現が事あるたびに陥ってきた、凡庸なトラブルの一つでしかない。事件と『ひぐらし』に直接的な影響関係などないことが公判の経緯からも明らかであったのは案の定であったし、逆に「何か犯罪があればすぐアニメやゲームをスケープゴートにするマスコミの偏向報道」に憤り、自分たちの愛好ジャンルが置かれている不当な地位の低さを受動的に嘆くオタク側の論調も旧態依然としたもので、取り立てて新たな状況や議論の深まりをもたらすものでなかったことは、今となっては明らかである。
というよりも、世間なんていうのは、そんなものだ。もし『ひぐらし』ファンとして、あの騒ぎでの作品の扱いに不当さを感じ、つい“公憤”めいたものを抱いてしまった人がいたとしたら、逆に自分が興味も利害関係もないローカルな領域の社会的事象について、いかに自分が無理解な「世間」の一部としてしか存在しえないかに思いを馳せてみたらいい。
ただ、一見あまり幸福でないこの“接触事故”が逆説的に示しているのは、02年の夏コミでの原作ゲーム発売以来、基本的にはコアなオタク的感性の極致にあるところから始まり発展していった『ひぐらし』のメディアミックス展開が、見知らぬ世間のまなざしに出会えるだけの広がりの獲得に成功していたという事実だ。だからこそ、あの時点において、『ひぐらし』は一部ファンダムの島宇宙内で評価される狭い共同性の範囲を超え、「中高生への悪影響を懸念される」だけの資格を得はじめていたのだとも言える。
つまり07年の騒動は、『ひぐらし』ムーブメントが、ある意味では社会的な責任を問われるまでの成熟を遂げた、ささやかなメルクマールとしてあったと思ってみるのも、一つの手だと思う。
実際、騒動を受けたあるネットインタビューで、原作者の竜騎士07はこんなことを語っている。
「自分たちの作品はメッセージがくどすぎる、メッセージ性が強すぎる、と言われることが多いんです。批評家の方々にも、「道徳の本じゃないんだから、価値観を強く押し付けるな」と怒られてきた。でも、今回のことで思ったのは、くどいと言われても自分なりのメッセージを書き切ってよかったと思います。京都の子がもし『ひぐらし』をプレイしてくれたら、今回の事件は起こす前に、それが正しい行為であるか考えてくれたのでないかと思うことがあります。」(『OhmyNews』07年11月9日記事「[ひぐらしのなく頃に解]放送中止騒動 竜騎士07さんインタビュー(中)」より)
説教上等……!
生真面目なこの原作者は、ゲームやアニメの立場の弱さを糾弾する前に、無理解・無関心な世間なり社会なりと本気で切り結ぶためには、たとえ批評家風情がいかに表現形式上の洗練のなさを厭おうと、メッセージの鮮明さこそが何よりの武器となることを確信しているのである。
そしてその確信どおり、『解』の正味の作品性に鑑みて、アニメの放送を打ち切った局よりも、OP映像の一部差し替えなどによって放送を続けた局の方が多かった。そんなもう一面の事実に注視してみれば、受け手である私たち一人一人にとって、あの騒動の経験を、より有用なものとして捉え返せるのではないだろうか。
たとえば、放映中止の憂き目に遭ったアニメ版『解』の第12〜13話といえば、「皆殺し編」中盤のクライマックス部分。つまり前原圭一たち主人公メンバーが過去の編で繰り返してきた短絡的な殺人の惨劇の過ちに自発的に気づき、仲間の北条沙都子を苛烈なDVから救い出すため、互いの相談と連帯によって、見事に社会的な勝利を勝ち取るくだりの直後である。具体的には、「部活メンバー」−「学校全体」−「雛見沢連合町会」と、順を追って協力者コミュニティの規模を拡大しながら、市の児童相談所に地道な陳情闘争を行っていくという展開だった。
ここに立ち現れているのは、内輪の幸福を追求する「共同性の論理」が、その共感範囲の線引きを可能なかぎり外へ外へと拡げていくプロセスの果て、容易には共感しあえない他者と出会い、生存資源の配分を調停する「公共性の論理」に直面していくという主題性だ。
そしてこの作中展開は、同人ゲームの小コミュニティから始まって漫画やアニメや実写映画と、空前のメディアミックス展開を遂げた果てに、まったく予期しなかった社会事件に直面することになった、このときの『ひぐらし』ムーブメントの成長過程そのものにも、重ね合わせることができるのだ。
このような具合で、言葉で語られるメッセージに耳を傾けるだけが能ではない。『ひぐらし』というコンテンツには、作品面でも現象面でも、「共同性の論理」と「公共性の論理」の相克を、様々なレベルで見出すことができるのだ。さしあたりはそんなお題でもって、私たちの『ひぐらし』体験の諸相を、段階的に腑分けしていってみたいと思う。
■同人ノベルゲーム発の「メディア・シャッフル」展開
まず、物語を載せる「器(メディア)」のレベルに焦点を当て、外堀を埋めておきたい。
『ひぐらしのなく頃に』という物語作品は、同人制作によるパソコン用の「ノベルゲーム」と総称される種類のデジタルメディアで提供されるコンテンツとして、誕生した。
改めて確認しておけば、ノベルゲームとは、小説形式で逐次的に表示されるテキストを、描写シークエンスに対応した登場キャラクターの絵や背景画、およびBGMや効果音といった視聴覚要素によって演出するというスタイルで、プレイヤーに物語を体験させるソフトの通称である(作品で力点の置かれる演出要素の違いによって「サウンドノベル」「ビジュアルノベル」等と呼称することもあり、『ひぐらし』の場合は「サウンドノベル」をジャンル名としている)。
1990年代後半以降に発展したノベルゲームが歴史的に積み重ねてきたコンテンツ傾向として、タイプの異なる多数の美少女キャラクターそれぞれとの恋愛や交遊を疑似体験する「美少女ゲーム」の媒体に使われるケースがほとんどであった。つまり、目標とするヒロインを「攻略」するため、いかに正しい選択肢を選び続けて思惑通りのシナリオに進んでいくか、という試行錯誤の過程をゲームとして遊ぶわけである。そのため、基本的にプレイヤーは全ヒロインのシナリオ分岐を制覇すべく、何度も繰り返しプレイするのが、こうしたジャンルのソフトにおける当然の受容形態となっていったのである。
さらに、プレイヤーによるこうした能動的な繰り返しの体験性に順応してきた00年代初頭になると、今度はその順応を逆手に取って、「世界が超越的な力によってループしている」ことを劇中の登場人物が自覚していることを示唆するメタフィクション的な描写を行ったり、あえて選択肢を排除することでプレイヤーに無力感を味わわせたりするようなトリッキーな作劇によって、ある種の前衛性を表現したかのようにみえる作品群が登場してきたのである。
以上、少々クドいおさらいとなったが、『ひぐらし』もまた、こうした一連の流れの中に系譜づけられる一作であることは間違いない。「鬼隠し編」から「祭囃し編」までの全8話の連なりを通じて、昭和58年6月近辺の雛見沢世界が何度も繰り返されるという特異な趣向や、その要因となる古手梨花や羽入の存在は、特殊なノベルゲームの発展史抜きには、まず考えられなかった設定だ。つまり、この物語はメディア自体の性格がもたらすきわめて強力なコンテンツ干渉性と、そのユーザーコミュニティの強固な文脈依存性とが帰結した、「共同性の論理」の結晶のような産物と言えるのである。
しかし『ひぐらし』が画期的だったのは、そうしたノベルゲーム的なリアリティへのリテラシーがなければ理解しがたい全体構造と物語の同一性はそのままに、個々の各編を別々の作家・版元から出版してみせた漫画版や、全編をシリアルに配列したアニメ版、そして実写映画版まで、表現特性の振れ幅が極端に広いメディアミックス展開を成功させたことだ。
結果として、メディアとコミュニティの垣根によって従来きわめて狭いレンジでしか受容されることのなかったハイコンテクスチュアルなノベルゲーム的作劇が、ほぼ初めて一般エンターテインメントのフィールドに解放されるかたちとなった。
そうした仕掛けが、最終的にどこまで受け入れられるのかは、各メディアでの展開がまだ途上である現在のところはまだ未知数だ。しかし、すでに従来のノベルゲームのユーザー層からすれば、世代や性別を越えたはるかに多様な文化トライブに属する人々が多様な入り口からファンとなり、裾野が広がっているのは間違いない。
こうしたメディア・シャッフル状況は、もはや単なる「共同性の論理」の拡大の域を越え、幅広い受け手たちの間で『ひぐらし』の物語が「公共性の論理」として機能するような、横断的なインフラを提供しつつあるのではないだろうか。
■「ジャンルの転調」が実現する「真のゲーム的リアリズム」
続いて、物語がまとう「様式(ジャンル)」のレベルに話を進めよう。
『ひぐらし』原作のゲームジャンル名である「サウンドノベル」と銘打たれた初めてのゲームは、1992年チュンソフト発売の家庭用ゲームソフト『弟切草』である。先述の通り、やがてほとんど成人向け美少女ゲームの代名詞のようになっていく90年代後半以降のノベルゲーム全体の傾向とは異なり、この作品は基本的には万人向けのサスペンスホラーであった。しかし、「元祖」であるこの作品が特徴的だったのは、プレイヤーの選ぶ選択肢によって、描かれる物語のジャンル性格そのものが、推理ミステリーから心霊ホラー、スパイ冒険ものやスラップスティックコメディ等々、登場人物の設定から何から根こそぎ変わってしまうという、分裂症的なシナリオ分岐を持っていたことだ。分岐した物語相互に何の関連性もなければ、選択肢を選んだ後の物語の変化にも特に必然性や整合性はない。完成度の高い本格推理ホラーとしてヒットした次作『かまいたちの夜』等に比べて、黎明期ゆえの自由すぎる粗削りな作品だったと言うほかないだろう。
筆者が思うに、本来はチュンソフトの登録商標である「サウンドノベル」の名を継承した『ひぐらし』の物語の転調スタイルは、どこかこの『弟切草』を彷彿とさせる、「面白ければ何でもアリ」な横紙破り的性格への“原点回帰”を果たしているような気もするのである。
というのは、第4話までの出題編に対応して各編の物語を裏返していく後半の『解』のスタイルは、従来のミステリーという物語ジャンルの約束事を、大きく打ち破るものだったからだ。
『解』の冒頭を飾る第5話「目明し編」こそ、出題にあたる第2話「綿流し編」の双子トリックを、犯人側の視点から見るかたちで真相を示していくという、ミステリー的にオーソドックスな「解答」の体を為していた。しかし、続く第6話「罪滅し編」以降の展開は、そうしたストレートな意味での「解答」の体裁を捨て、かわりにノベルゲーム的な「世界ループ」の設定と主題が立ち現れてくる。この点こそ、本作への賛否が大きく分かれるポイントになっているのは、周知の通りである。
確かに、ミステリーという様式的な伝統の蓄積が、物語の構成性を高め、コアなミステリーファンだけでなく、多くの人々にとってもなじみやすいオープンなエンターテインメントの作法として定着している実績は見過ごせない。実際、メディアミックス化が進んでいる『ひぐらし』の前半パートは、そうしたミステリーとしての趣向性の高さに支えられて、大きな支持を得ているのは間違いないからだ。
しかし、だからといってミステリーというジャンルの「大きな共同性」に沿った方が、ノベルゲーム的な世界ループ系の「小さな共同性」よりも普遍的で公共性に近づけるのかというと、事はそう単純ではない。稲葉振一郎が『モダンのクールダウン』において、近代フィクションにおける「(SFやミステリーなどの)ジャンル小説」と「純文学」の理念的な本質性を区別してみせたように、ジャンルの島宇宙の規模が大きかろうが小さかろうが、一定の様式や約束事への同調をはかるという意味で、共同性は共同性である。対して本来の文学の持つ公共性とは、あくまで異なる約束事同士の間を、メタレベルから関係づけることだ。特定の共同性がともすれば陥ってしまう排外性や暴力性に警鐘を鳴らし、その共同性の外部にある他者への共感の芽を担保することこそが、その役目である。
そう考えれば、『解』の展開がミステリーの縛りを捨てて、世界ループものや青春もの、そして明朗な冒険活劇へと、次々とジャンルを転調していったこともまた、明らかだ。ジャンル小説的手法であろうが自然主義的リアリズムであろうが、ひとつの物語ジャンルを採用するとき、それは必ず描写リアリティの性格を規定し、描きうるテーマやストーリーの拘束条件となり、特定の共同性に回収される慣性を帯びてしまうのが、ポストモダン時代のフィクションの宿命である。
だからこそ、描くべきテーマが優先されるものとしてあるとき、『弟切草』という原点の時点で萌芽的に示しされていた、複数のジャンルを並列化できるノベルゲームのメディア特性が威力を発揮する。すなわち、単にプレイの繰り返しで世界をループさせられるというだけでなく、同一パッケージの作品世界に対して、異なるジャンル的リアリティをもつ複数のシナリオで重層的にアプローチすることで、現実のもつ多面性や全体性を体感させる手法が採りうること。
余談になるが、この特性こそ、東浩紀が想定した概念よりもさらにベーシックで一般性の高い、真の「ゲーム的リアリズム」と名づけられるべきものではないだろうか。90年代後半以降の美少女ゲームしか見なかった東の場合、あくまで閉塞したループ世界にプレイヤーの立場を重ね合わせるセカイ系的な感傷(=「感情のメタ物語的詐術」)という特殊な事例にのみ、この概念を限定してしまっていた。しかし、ゲーム史的な観測点のスパンを遡ることで、「リアリズム」と呼称すべき文学的性質がよりハッキリするかたちで概念をアップデートできるのではないかと、もののついでに提案しておきたい。
ともあれ、個々のジャンルの共同性に限定されないメタな立場から、現実なるものの多面性を感得することこそ、すなわち公共性にほかならない。サウンドノベルの忘れられていた原初的性格に則るかたちで、『ひぐらし』というコンテンツがジャンル転調的な作劇手法を採用していたこともまた、本作が「公共性の論理」を志向してゆく諸相の一面であるのは、まぎれもないことではないかと思う。
『ひぐらし』が昭和58年の雛見沢村という、祟りへの信仰の残る村落共同体の舞台設定を採用し、凄惨な猟奇殺人事件をめぐるストーリーを展開しているのは、横溝正史に代表される田舎の前近代的な共同体の因習や怨念を犯罪の背景に用いた、典型的な日本ミステリーの類型の踏襲にほかならない。
こうした、戦後の高度経済系長期に確立された横溝ミステリーの王道は、奇異な前近代的風習や、超自然的な祟りの実在を示唆する言い伝えなどによって一見おどろおどろしく殺人事件がカモフラージュされているものの、最終的にはあくまでも動機を持った人間による現実的なトリックとして推理され、すべての謎が解かれるというのがお約束だ。ここから、ミステリーという物語様式の批評的な意味での本質を敷衍すれば、犯罪という前近代的な不条理に対し、近代主義的・人間主義的な理性に基づく論理的な推理によって立ち向かい、屈服するという形式だと定義することができる。つまり、基本的には「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的なかたちで、前近代的な共同体社会の迷妄や抑圧性を否定し、人々を啓蒙主義的な理性に基づく近代社会の公共価値に馴致させるためのイデオロギー装置としての骨格を持っている。
ただし、犯罪トリックや犯罪者の描き方によっては、逆に近代合理主義の暴走を、時代に取り残されたマイノリティの側から告発する作品が紡がれる場合もある。笠井潔などの立場によれば、もともとミステリーやSFといったジャンル小説の批評的な存在意義は、突き詰めれば「公共性」を僭称する無自覚な「共同性」でしかない近代の「裸の王様」ぶりを相対化し、自然主義的リアリズムの閉塞を打ち破りうる点にあるとされている。要は古典的な近代−反近代という対立軸のスキームを提示できるフォーマットだということだ。
だが、こうしたミステリーという表現形式が、近代主義の理想を掲げたり、逆にその暴力性を衝いたりするビビッドな機能を保っていたのは、まだ日本各地に田舎の古い共同体社会のリアリティが残っていた、せいぜい1980年代くらいまでのことだろう(だからこそ、『ひぐらし』の舞台は、昭和58年に設定されている)。そうした現実の前近代の圧力がなくなり、古典的な近代主義の理想がもはや理想たりえなくなったポストモダン社会たる現在では、もはやミステリーは愛好者たちの島宇宙内で“ネタ”として安全に消費されるバロックとしてしか存在しえないのだ。
その意味では、『ひぐらし』の物語の前半の惨劇の原因となる「雛見沢症候群」という、人間の内面的な狂気を描く猟奇ミステリーの醍醐味を台無しにしてしまうSFめいた“反則設定”の導入にさえ、ジャンルのお約束を内破する積極的な意義を見出すことが可能かもしれない。