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落合陽一×宇野常寛
「〈映像の世紀〉の終わりに
――視覚イメージのゆくえ」
(後編)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.4.3 vol.296

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本日のメルマガは、現代の魔術師・落合陽一さんの好評連載『魔法の世紀』のスピンオフとして、宇野常寛との対談「〈映像の世紀〉の終わりに――視覚イメージのゆくえ」後編をお届けします。今回は会場から寄せられた質問に答えながら、落合さんと宇野常寛の二人が、「物理世界に染み出す」時代のインターネットと情報技術のありようを解説しています!

 
落合陽一『魔法の世紀』これまでの連載はこちらのリンクから。
 
 
■ 質問1.「物理世界に染み出す」
 
落合 ……会場がすごく盛り上がっていますね(笑)。

宇野 いいことだね。もう議論を再開できないくらい会場が盛り上がっていて、これは「魔法の世紀」に手応えがあるな。

落合 はい、じゃあ質問を受けます。一個目が来ましたね。「"物理世界に染み出す"という話を、もっとわかりやすくお願いします」という内容です。

この、「染み出す」という言葉は重要です。例えば、光源からスクリーンに光が当たって皆さんの目に届くとき、実はパソコンの中の情報がスクリーンに転写されて届いているわけです。とすれば、このときにコンピュータの中にある情報は、あらゆる場所からアクセスできるようになったとも言えます。データの実体は、インターネット世界にあるのかもしれない。でも、情報そのものはどんどん人間が触れられる場所に出てきている。その事実を、僕は「染み出す」と表現しているんです。

宇野 さっきの触覚の説明がわかりやすいと思いますね。例えば、僕らが生きている間に、おそらくほとんどのものにセンサーが入るでしょう。その行き着く先は、僕がセーターを着てチクッとするなと思った瞬間に、それをセンサーが感じとって肌触りが滑らかになる……みたいな状況です。ここで重要なのは、僕の脳神経ではなくて、素材の方がいじられていることなんですよ。これが、落合さんの研究の重要な問題提起です。

みんな情報技術というときに、インターネット上で行う自意識上のテキストコミュニケーションだと思っていますよね。つまり、多くの人はインターネットを、僕らの内面を変えるツールだとみなしている。でも、情報技術がディスプレイの中の映像と人間の自意識を変えるだけの段階は既に終わっている。

そうなってくると、もはやインターネットをバーチャルと呼ぶような話には、もう全く意味がなくない。実際、現状のコミュニケーションしか変えていない程度のインターネットでさえも、リアルと結託しているわけですよ。だって、「食べログ」やGoogleマップのお陰で、僕たちの都市生活は大きく変わりましたから。

こういうふうに、かつてのインターネットはユートピアをディスプレイの中に作り上げる発想だったけれども、既にリアル空間のコミュニケーションをより円滑にしていく方に発想が切り替わり始めた。ここから先の情報技術の展開というのは、おそらくインターネットという存在すら飛び越えて、センサー技術などと手を結びながら我々の実空間を情報化で書き換えていくというあり方なんだと思います。これが現在見えている、一つの大きな流れだと思います。

落合 伝わってるかな(笑)。情報の取得というときに、ついついTwitterのTLやメールのような目で見られるものを思い浮かべてしまうけど、五感のあらゆるものが情報を取得してるんですよ。極論すれば、あらゆるものは物性を介した情報のやりとりだといってもいい。

例えば、椅子が人間の体重を認識して、その体重に合わせて強度を変えたり、表面の材質を変えたりすれば、それは人間が情報に直接触っていると言える。いまや世界中に張り巡らされたコンピュータが、動物や車の動きを情報として読み取って、最適解を返し始めているわけです。物理空間が情報を媒介して、再び物理空間に戻ってくる。こういうことがあらゆる場所で起き始めているんです。それがこの世界にコンピュータでもたらされる魔法、情報の動的な物理実装です。
 
 
■ 質問2.原理主義と文脈主義
 
落合 次の質問です。「エクスペリエンスドリブンとは何でしょうか?」。

お、これはいい質問ですね。ネットでバズるコンテンツを見ると分かりますが、「ただ大きい」とか「無茶苦茶書き込みがある」みたいな、「ヤバイ」と言いたくなるものへの感動が大きくなる時代になっています。要は「わかりやすい表現」が強くなっているのですが、それって「ヤバイ」と思えることそれ自体に価値が見出され始めているという話なわけです。
昔は、もっと違いましたよね。今という時代をどう反映して、作家の生い立ちをどうこの作品は表現していて……というのを、誰もがコンテクストを重視していた。ピカソの「青の時代」みたいに、青い絵の具で塗るような感じですね。これは、よく宇野さんと話すことですね。

宇野 これは僕の言葉に置き換えると、「文脈主義」か「原理主義」かという話なんですよ。

さらに言えば、僕ならば「映像の世紀」に文脈を、「魔法の世紀」に原理を対応させますね。結局、「映像の世紀」というのは、特定の文脈をメディア装置で多くの人たちに共有させて、「美」の基準を作り上げたり、正しさが共有される空間を作ったりしていく世界だった。

しかし、その前提がどんどん壊れている。誰もが発信者になり、誰もがメディアを作っていけるようになったとき、もはや僕らはメディア装置を必要としていない。そのとき、人間の心を感動させる力を持ちはじめているのが、より原理的な表現になっているんです。

落合 ちょっと良い例を思いつきました。例えば、フェンシングの太田選手っているじゃないですか。彼がオリンピックの決勝戦で、超絶すごい突きで相手を倒したとき、「映像の世紀」であれば、きっと幼少期からの太田さんの生い立ちについて語って、「あの努力の高校生時代を過ごし、苦難の大学生時代を過ごして、今のあの突きにつながったんです」というのを、どうしても30分かけてやると思うんです。

だけど「魔法の世紀」には、より高精細なスローモーションビデオなんかで、その凄まじい一瞬を沢山語ることが出来る。「やっべえ、これ絶対よけられねえじゃん」みたいな映像が共有されて、どんどん盛り上がれる。そもそも重要なのは、コンテクストではなくて、その「突き」そのものですから。それが太田選手の文脈を理解してない人でも突きそのものの凄さとして理解される。

宇野 たぶん僕らが生きている間に、それをもっと別の手段で我々は感じることができるようになっていくのだろうと思いますね。「突きの鋭さ」だけのもつ圧倒的な体験だけがむしろ共有されていくような。

落合 例えばHMDを被って正面から突きを食らう映像が来たら、もうそれだけで「これはマジでヤバいな」となるじゃないですか。これが、「魔法の世紀」の重要な転換点なんです。
しかも、短くて済みますからね。俺たちはコンテクストを共有するには、情報が溢れすぎていて、一個のコンテンツと接する時間があまりに少ない。テレビをぼうっと口を開けて見て、30分長々と鋭い突きを繰り出した人間に時間を割くことは、もうなかなか出来ないでしょう。情報は希薄化され、溢れている。すぐに体感できるコンテンツが重要なんです。

宇野 もう一つ重要なのは、「文脈主義」の立場に立つ限り、あらゆるものが規模と距離の問題に還元されてしまうことなんです。結局、「文脈主義」というのは、自分にとって感動できるかどうかという問題にしかならない。
例えば、僕は全くスポーツには興味がないけど、自分が講演に行って生徒と仲良くなった高校が甲子園に出たりすると、一生懸命に応援するわけです。でも、ここで僕が彼らの試合から受け取る感動って、まさに講演に行って少し仲良くなったという事実にしかない。

とすれば、もはやソーシャルグラフを充実させるアーキテクチャと、その感情が維持できるような、頻繁に握手会をするだとかの近さだけが重要になる。つまりは、規模と距離のコントロールだけで、濃い文脈が発生する確率をどんどん引き上げられるというのが、おそらく現在のゲーミフィケーション的な存在の一つの回答です。

でも、これはもはやアーティストというよりも、プラットフォーマーの仕事になっている。両者の線引きは物凄く深い議論で、それだけで3時間くらいシンポジウムが出来ると思いますが。ただ、僕としては、もっと大きい形で個人の体験に還元されない価値のようなものを作ろうと思うと、おそらく文脈主義を捨てて、原理主義に回帰するしかないだろうとは思ってますね。

落合 例えば、昔は同じテレビ・新聞・教科書を見て生きていたから、福山雅治がビールを飲むだけで一気に説明されてしまうようなCM文化が存在していたわけです。福山雅治というコンテクストが一瞬で15秒の間で共有されることが可能だった。でも、その共通文脈が崩壊してしまえば、CM文化も同時に消滅してしまう。逆に言えば、コンテクストでウケを狙いたければ、まずはその説明から入る必要があるんです。

宇野 僕はエンターテイメントの評論家なので、そこに関してはあっさりとした回答を持っています。例えば、いま一番日本で支持を受けているエンターテイメントは、「300人くらいグループにいたら、1人ぐらい好みの女の子はいるでしょ。その子と1ヶ月に1回は握手させておけば、コンテクストが豊富になるので楽しいでしょ」という発想なわけです。

つまりは、コンテクストの感動というのはプラットフォームで完全に設計できる――これで、終了です。結局、そういう感動というのは、実はほとんど個人的なコミュニケーションの問題でしかないと判明してしまったんですね。あとは残っているのは、そのコミュニケーションの環境をいかに整えるかという問題と、個人の努力の問題だけでしょう。握手会で変なことを言って嫌われないとかね(笑)。
 
 
■ 質問3.ヒューマズムな表現とは?
 
落合 ここに質問が一個きているので読みます。

「『魔法の世紀』は文脈主義から原理主義へ移っていくというお話は、ヒューマニズムのような感動よりも五感に直接訴えかける感動の方が主流になるということでしょうか?」

はい。そう思います。ヒューマニズムというのもポイントですね。BBCなんかは、よく泣けるコンテンツをバズらせるんです。例えば、死ぬ直前の老婆が愛する馬と会った瞬間に死んだみたいな話です。ただ、それってヒューマニズムなのかというと、少し違う。「死」という直接的なコンテンツをバズらせているだけとも言えて、実は「原理主義」的な話なんだと思います。別に些細な心の機微があったわけではなくて、ガツンと人が死んだからええやろ、という発想ですよね。人間の心を直接に金槌でぶん殴るような表現なんだと思います。
それって嫌だなと思う部分もありますが、機微のある表現はコンテクストが重要である以上、どんなコミュニティの人間も共通して理解できる表現は減少しています。もちろん、あるアートのコミュニティ、SF好きのコミュニティ、何かの映画作品好きのコミュニティみたいなところに分断された表現は残っていくと思いますが。

宇野 繰り返すけれども、いわゆる狭義のヒューマニズムがもたらす感動というのは、プラットフォームによっていくらでも設計できると判明した。だって単純に、本当にシステムを作って多様な選択肢と近い距離さえ確保していけば、確率的に発生するともう証明されてしまったわけですよ。そうである以上、それはもうアーティストの仕事ではなくなっていく。おそらく、マーケッターやアーキテクトの仕事になっていくでしょう。

落合 感動の話だったら、前田敦子が転ぶ瞬間を捉えたらいいんだよね。しかも、それは確率の問題でしかない。

宇野 その感動の大きさというのも、前田敦子との距離の近さによって設計できるわけだからね。つまり、2005年の12月から劇場に通い続けたやつの感動は1億なんだけど、テレビで何となく「何だあの人」と思っている人間の感動はもしかしたら−3みたいなね(笑)。それって、ほとんど多様な選択肢と近さをどう設計するかという問題に、おそらく8割ぐらい還元されている。

ただ、今日の話について言えば、僕はそういう作業を馬鹿にする気は全くないけれど、もうちょっと別の回路があるんじゃないかという気がする。もう少し文脈主義に回収されない、「魔法の世紀」における「死」とはなにか、みたいなことは考えられると思う。人間と情報との関係が変わりつつある時代の絶対的なものとかね。

落合 それ、俺も連載で書こうかな。だって、外在的に俺たちは死ななくなってるもんね。死んだ後もブログは残っているわけで。

宇野 そうなんですよ。「認識できても触れられないものとは何か」みたいなものが、おそらくテーマになっていくんだと思う。
 
 
■ 質問4.ソニーについて
 
落合 次の面白そうな質問は、「ソニーに関して聞いていいですか」というものです。
 

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