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野球にとっての〈1995年〉とは?
野茂、イチローと阪神淡路大震災
(「文化系のための野球入門
――ギークカルチャーとしての平成野球史」
vol.1)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.7.17 vol.368

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本日のメルマガでは、今年の春に公開され好評だった野球企画の続編が登場します!
マスメディアと巨人戦を中心に盛り上がってきた戦後日本の「野球」。それが2000年前後を境に大きく変貌を遂げ、メインカルチャーからサブカルチャーへ、巨人一極集中から多極型の地域コンテンツへ、マスメディアからネットへとその重心を移してきました。
この連載では、その変化が始まった90年代半ばを起点に、現代までに至る「文化史としての野球」を考えていきます。


▼この座談会の参加者
かしゅ〜む:92年生まれ。PLANETSチャンネル「朝までオタ討論!」でおなじみ。アイドルだけでなく野球にも一家言持つ生まれながらの論客。高校まで軟式野球をやっていた。巨人ファンだが、最近は推し(PIPの空井美友さん)の影響でロッテにも心が動いている。
石丸:84年生まれ。『弱くても勝てます』で有名な某日本一の進学校・K高校の元4番・主将。現在は東京で会社員。横浜ファン。
中野:86年生まれ。PLANETS編集部。野球歴は10年ぐらい。最近好きな選手は小林誠司(巨人)、西川遥輝(日本ハム)、森友哉(西武)、関根大気(横浜DeNA)。
◎構成協力:かしゅ〜む


■ 今こそ物語としての「野球の歴史」を語るべき!

中野 前回記事(いま文化系にとって野球の楽しみ方とは?――「プロ野球ai」からなんJ、『ダイヤのA』、スタジアムでの野球観戦、そしてビヨンドマックスまで)が好評だったため続編をやることになったのですが、まず、そもそもなぜPLANETSが野球に関する記事を始めたのかという説明が何もなかったので、改めて説明したいと思います。
 最初は宇野編集長から編集部スタッフである僕(中野)に「その無駄な野球知識を活用して記事をつくれ!」という指令が下ったのがきっかけでした。
 なのですが、文化史的な意義を踏まえてやっている部分もあります。たとえば現在、ネット上で「ンゴwww」「ぐう◯◯」「(震え声)」「あっ…(察し)」「ファッ!?」などの「なんJ語」がネットスラングの代表格になっていますよね。
 なんJとは言うまでもなく、ニュー速VIPなどに並ぶ2ちゃんねるの人気板(なんでも実況ジュピター)のことで、野球を中心とした雑談が日夜行われています。その雑談の内容がたくさんのまとめブログによってネット上に拡散されたことで、なんJ語がすっかりネットスラングの主流の地位を占めるまでになってしまいました。

かしゅ〜む 確かにこの辺りはネタが先行して,元ネタを知らない人が多かったりしますよね。「え?その用語って野球関係だったの?」みたいな。まあ「ンゴ」がまさか外国人投手が元ネタだとは思わないですよね。

中野 ネットカルチャーの歴史を紐解くと、初期2ちゃんねらーやその後のVIPPER、そして2000年代後半以降のニコ厨など様々なトライブが生まれてきましたが、「なんJ民」は2010年代に表舞台に登場した種族ではないかなと思います。そしてそのネタとして、古くて新しい文化である「野球」があった。こうした2010年代特有の文化状況がなぜ生まれたのかを色々な角度から考えてみようというのが前回の趣旨でした。
 今回は、90年代以降の野球の「歴史」をテーマに話していきたいと思います。なぜ90年代以降かというと、それ以前だと我々(座談会出席者)がリアルタイムで経験していないということもあるんですが、やはりこの時期、90年代から2000年代にかけて、巨人戦中継を中心とする「マスメディア型興行」としての野球の時代が終わったと言えるからです。この時代的なインパクトを中心に据えて、野球の歴史というのを語ってみたいと思います。
 もう一点、なぜ歴史を振り返ってみるのかというと、最近ネット上での様々な野球談義を見ていると、「そんなことも知らないのか」「にわか乙」というような、2000年代にネット上の様々な趣味の場でよく見た風景が繰り返されていると感じたからです。ちなみに2000年代初頭の初期2ちゃんねるで僕が最初に覚えた言葉は「はい論破」でした。

かしゅ〜む 僕は92年生まれなので初期2ちゃんねるの雰囲気はよくわからないですが、たしかに「はい論破」をやっていると、あんまり生産的な議論はできなさそうですね。ネタでやってるならいいんでしょうけど(笑)。
 野球の歴史ってYouTubeやWikipediaなども充実しているし、NPB(日本野球機構)のサイトスタメンデータベースなどもあるので、後からいくらでも振り返ることができそうですけど、でもそれぞれの出来事の重み付けはわからないですよね。

中野 はい。というわけで、プロ野球だけでなく、メジャーリーグやアマチュア野球、その周辺文化も含めて、我々なりの「歴史観」そして「物語」を作ってみようと思います。ではさっそく、すべての変化の起点となる90年代半ばから行ってみましょう。


■ 「昭和最後の日」は、1994年の「10・8決戦」!?

石丸 90年代のどこから話を始めるかだけど、僕は1994年の「10.8決戦」がいいんじゃないかと思う。これは前回話した「巨人戦、セ・リーグを中心にしたマスメディア的興行」としてのプロ野球がピークを迎えた時期だと言える。日本プロ野球史上初めて、リーグ戦の勝率が同率首位で並んだ巨人と中日が、最終戦で直接対戦する優勝決定戦だった。社会的にも大変な注目を集めた「伝説の試合」だよね。
 桑田真澄・槙原寛己・斎藤雅樹という巨人史上でも屈指の先発三本柱がいて、特にこの日は松井秀喜・落合博満・原辰徳という(名前だけ見ると)超強力なクリーンナップだった。ちなみに甲子園での松井の5打席連続敬遠事件が92年で、この94年頃に彼は巨人で不動のレギュラーになっていた。

中野 その10.8決戦が注目された1994年ですが、もうひとつ社会的な事件としてイチローの登場とブレイクも大きいですよね。打率.385で210安打(当時史上最多)を放つというとんでもない記録を、弱冠20歳にしていきなり打ち立てたわけです。
 イチローは当時、注目の少ないパ・リーグの弱小球団であったオリックスから出てきたスーパースターだったわけですが、20世紀的な野球と21世紀的な野球を分かつものがあるとすると、松井はちょうどその端境にいる存在で、イチローは「アフター」というか、新時代の野球を象徴する存在ではないかなと思います。

石丸 年齢的にはイチローの方が1個上ではあるんだけど、松井はイチローよりも早い段階で話題になっていたから、松井が中間でイチローが「アフター」というのはたしかにそのとおりだろうね。

中野 前回も話しましたが、僕は90年代半ば当時は小学生で、日テレ土曜9時のドラマ『家なき子』『金田一少年の事件簿』『銀狼怪奇ファイル』『透明人間』『サイコメトラーEIJI』『プライベート・アクトレス』などを楽しみにしていたので、巨人戦が延長して食い込んでくるのがすごく嫌でした。「野球、早く終われ!」と思っていた。
 原辰徳が引退したのが1995年で、当時の小学校の同級生たちはすごく話題にしていましたが、「ケッ」と思ってましたね。でも、そういう野球と〈マスコミ的なもの〉の結託に対しての反感抜きに、イチローはあっという間に好きになった。

石丸 そこで言うと、「巨人の4番としての原辰徳が昭和最後のスターだ」というのは歴史観としてありかもしれないね。原と同時期のスター選手としては落合博満が挙がると思うんだけど、落合はロッテ・中日の選手というイメージが強いし、巨人にいたのも一時期だけで、その後日本ハムに移籍もしている。

中野 落合は、位置づけの難しい人物だと思っています。そもそも高校・大学と体育会系的な上下関係が嫌で、一度完全に野球からドロップアウトし映画ばかり見ているような文化系の人だった。そこから社会人野球チームに入りなおしてプロ入りしたという異色の経歴で知られている。
 2000本安打を達成した打者、200勝or250セーブ以上を達成した投手だけで構成される名選手のサロン「日本プロ野球名球会」への入会も拒否しているんですよね。つまり、戦後日本的な「世間」とは距離を置いて個人主義を貫いているわけです。だから彼を「昭和」的な人物と位置づけるのは難しいし、むしろ「プレ・平成」型の人物だと思います。これは後で述べる権藤博にも共通して言えることです。
 ちなみに落合はガンダムオタクとしても知られており、好きなガンダムは『ガンダムW』に登場するウイングガンダムゼロカスタムだそうです。ご子息で最近声優デビューした福嗣さんの影響もあると思いますが、近年では『ガンダム00』を高く評価しているらしいですね。

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かしゅ~む だいぶ話がそれてますけど(笑)、落合さんは、「長嶋茂雄はひまわりの花、私は月夜にひっそりと咲く月見草ですよ」と言ったノムさん(野村克也)に近いものがありますよね。人気よりも実力に誇りを持っているというか。

中野 “スター性"って明確な基準はないんだけど、原辰徳よりも落合博満はやや地味な印象があるかもしれない。原さんは巨人軍の4番で、その後巨人の監督やWBC日本代表の監督も務めて大変な好成績を残している。落合もそれに負けず劣らずというか、選手としての成績は圧倒的に落合の方が上なはずなんですけど、なんとなく原さんのほうが「スター」として扱われるというのはありますね。

石丸 「人気のセ、実力のパ」と言われていたパ・リーグで三冠王を獲得してセ・リーグに移籍していった落合と、アマチュア時代から超エリートコースを歩み巨人軍一筋で常にスポットライトを浴びてきた原さんとはここが大きく違うとこだろうね。


■ 野茂のメジャー挑戦と「VS日本的世間」

石丸 1994年ってなかなか面白くて、イチローと10.8決戦があった一方で、メジャーリーグでプロスポーツ史上最長のストライキが起こり、アメリカ国内でのメジャー人気の低迷が誰の目にも明らかになったんだよね。

中野 今はメジャーって日本のプロ野球よりも国内的な人気も高いし年俸もバカ高いしで、「成功しているリーグ」という印象だけど、当時のメジャーリーグは「しょうもないことやってんな……」という感じだったんですよね。日本プロ野球が盛り上がっていたので余計にそうだった。この時期、巨人で活躍したシェーン・マックが代表的ですが現役バリバリのメジャーリーガーが日本プロ野球に活躍の場を求めるケースも多かった。
 ちなみに1994年には映画『メジャーリーグ2』が公開されています。前作からの主人公チャーリー・シーンを中心としたインディアンスが低迷するなか、とんねるずの石橋貴明演じる日本からの助っ人選手「タカ・タナカ」らの活躍で復活していくという内容です。ちょうどこの年の後半から現実のメジャーでストライキが起こり、人気が低迷していったところを翌95年の野茂英雄の登場で持ち直したことを考えると、『メジャーリーグ2』ってなかなか予言的な映画なんですよね。
 内容自体は、後年の『マネーボール』とは違って昔ながらの「人情が勝つ」というものなんですが、野球コメディ作品としてはなかなか痛快な作品だと思います。当時、貿易摩擦でアメリカ国内で反日感情が高まっていたにもかかわらず、タカ・タナカのキャラクター造形は(もちろん類型的な日本人キャラクターとしてギャグテイストで描かれているものの)なかなか繊細なコントロールが効いていて素晴らしかったですよね。

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▲ホームランになりそうな当たりをフェンスによじ登ってキャッチし、大歓声を受けるタカ・タナカ役の石橋貴明(映画「メジャーリーグ2」 | 一番星みつけた(歯科学生の日常) より)

石丸 そして94年の冬から翌95年の初めにかけて野茂英雄のメジャーリーグ移籍騒動があり、野球の日米関係がより密接かつ複雑になっていったわけですね。

中野 そう、これもみんな忘れかけているし「そもそも知らない」という人も多いと思うんですが、野茂のメジャー移籍に対して当時のマスコミやプロ野球のOBたちはものすごいバッシングをしていて、それはもう「非国民」のような扱いでした。
 野茂がメジャーに挑戦したのは、もちろんメジャーでやる夢を持っていたというのもあるんですが、当時所属していた近鉄の鈴木啓示監督の前時代的な方針(走りこみのような根性練を重視する、故障しても投げろと指令される等)に反発したからだと言われていますよね。

石丸 日本球界からメジャーに挑戦した選手だと、それ以前はサンフランシスコ・ジャイアンツの村上雅則がいるけど、彼もメジャーでプレーしたのはほんの偶然で、たまたまマイナーリーグに野球留学していたところを「メジャーで投げない?」と声がかかり昇格してしまって日米間で大問題になった。それ以来30年間、「日本人選手はメジャーでプレーしてはいけない」という不文律ができてしまった。

中野 そこを当時の日米間の協約の穴を突いて、半ば亡命するようにメジャーに移籍したのが野茂英雄だった。当時の野茂への風当たりの強さは、96年に野茂が日米野球で凱旋したときにスポンサーであるナイキがつくったポスターがよく表しているんじゃないかと思います。

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これは野茂が出て行くときにメディア上で展開された大バッシングの文言をまとめたものだそうですが、要は野茂英雄という「自由」を重んじる個人主義者と、「不文律」や「空気」を重んじる「日本的世間」が鋭く対立していた。

かしゅ〜む これはすごいですね。「日本のプロ野球のしきたりをめちゃくちゃにした男がアメリカに行って成功できるか」というフレーズなんて、『八つ墓村』の「祟りじゃ〜!」と叫ぶ老婆を彷彿とさせる勢いがある。古き因習の残る山奥の、村落共同体の息苦しさそのものですね。字体もなんか市川崑っぽいし(笑)。

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▲市川崑監督・豊川悦司主演による1996年版『八つ墓村』のひとコマ(2005年09月23日の記事: 『ブタネコのトラウマ』 Blog版 より)

石丸 で、実際に野茂がメジャーで投げたらバッタバッタ三振を取って、日米で「NOMOマニア」という言葉が生まれるほどの人気を得た。ほぼ同じぐらいの時期にFA制度やポスティング・システムなど、日本プロ野球からメジャー移籍するための制度が整い、日本人選手が続々とメジャーに移籍するようになる。この頃から野球ファンの興味がメジャーにも行くようになったんだよね。

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