石原慎太郎が都知事時代は書類渡されたら何でも
ハンコ推していたと言っている。
「めくら判」(差別用語らしい)押していたと言うのだ。
天皇陛下はそうではない。
法案に御璽を押すときは、しっかり目を通しておられる。
それは「シラス」(お知りになる)天皇だからだ。
法案を見て拒否はできないが、日本のこと、国民のことは
知っておかなければならないと思われるのが天皇陛下だ。
石原慎太郎は生前退位の報を聞いて、「私は陛下より
一つ年上だが、それでも頑張っている。本当に陛下には、
もうちょっと頑張っていただきたい」と上から目線で
忠告した。
だが石原は都庁時代も週に数日しか出勤していない。
自宅で小説を書く自由を満喫していたのだ。
天皇陛下は、祭祀も、国事行為も、公務も、すべて全身全霊
で打ち込まれる。国民のために!
気力も体力も疲れるのが当たり前だ。
石原はもともと「皇室には興味はない、国家は歌わない」
と言っていた。
仕方なく歌うときは、「わがひのもとは」と歌詞を替えて
歌うと自慢そうに言っていた。
尊皇心などひとかけらもない者を、自称保守論壇が重宝
していたのも実に不思議だ。
誰だって歳はとる。
石原慎太郎の歩き方を見ると本当に年取ったなと思う。
ぽてぽてぽて・・と完全に老人の歩き方だ。
もともと体格もいいし、若いころヨットに乗って健康的な
姿を誇示していた父権主義者も、80歳過ぎれば、自然に
歩くこともできなくなる。
引き際を心得ないと老醜をさらすことになる。
天皇陛下はそこを分かっておられる。
わしは老いぼれたら世間には出ないようにしようと
思っている。
だがそれは美意識だ。
陛下の場合は美意識を守るという「私」的な感情からの
生前退位ではない。
天皇は「無私」である。「公」の体現者である。
陛下が退位したいと仰るときは、それが「公」に適うという
ギリギリの判断があったからだ。
そこが保守モドキ、尊皇モドキの馬鹿どもには分かって
いない。
自分の「公心」が薄すぎて、陛下のご真意を察することなど
できないのだ。
陛下の生前退位が徹底的に「公心」であり、国民のため
であることを、尊皇モドキは分かってない。
陛下が十全に満足されるルール変更に、政治家は挑戦
せねばならない。
「とりあえず特措法で天皇だけ退位させちゃえ。」
「とりあえず特措法で新天皇も即位させちゃえ」
「そのためには皇室典範に、ちゃちゃっと、抜け穴になる
条文を加筆しちゃえ」
こんな態度は「私心」の極致であって、「公」に適うこと
ではない。
政治家に「公心」があるか否かが問われている。