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記事 5件
  • 【第156回 芥川賞 候補作】『しんせかい』山下澄人

    2017-01-12 17:30  
    1
    「揺れますよ」
     と船乗りがすれ違いざまささやいたことに乗船口からずいぶん歩いて気がついた。振り返って船乗りを見た。光る黄色が横へ一本はいった紺の上着の船乗りの背中は広くヘルメットは白い。その向こうは夜だ。そこから次から次へトラックが来て人が来る。しかし船乗りはただ立っているだけで誰にもささやいたりしない。見てもいない。なぜあの船乗りはぼくにだけささやいたのだろう。ほんとうにささやいたのか。ささやいてなどいないのじゃないか。そもそもあれは船乗りか。船乗りだとしてあれはあそこにいるのか。いたのか。
    「何かいっつもそうやな」
     誰かがそういった。
    「あんたの話って何ひとつまともに聞かれへんわ」
     天だ。天がそういったのだ。天は高校の同級生で去年の春高校を卒業してからたまに会ったりしていた女で、しばらく遠くへ行くということをきちんと伝えようと昨日会った。何ヶ月も前に遠くへ行くと伝えた気でいた

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  • 【第156回 芥川賞 候補作】『カブールの園』宮内悠介

    2017-01-12 17:30  

     分数の掛け算だ。
     ムーア先生はこちらに背を向けたまま、ちらと手元のテキストを見下ろし、問題があっているかどうかを確認した。チョークの硬い響きに混じって、ささやきや小さな笑い声、椅子の軋む音が細波となってクラスを満たす。先生が向き直るよりも前に、威勢のいい数人の生徒が次々と手をあげた。先生はざっと教室を一望してから、わたしが手をあげていないことを確認して、少しだけ落胆したように目をすがめた。ミシェルが指された。
    「一と三分の二」
     先生はうなずいたが、その顔に浮かぶ一抹の物足りなさをミシェルは見逃さず、こちらを睨みつけた。答えがわかっているだろうに、どうして手をあげないの。男子らは二桁の足し算もおぼつかない。算数の成績は、わたしとミシェルがいつもトップ争いをしていた。それで、一方的にライバル視をされていた。
     次の問題が書かれた。
     今回は、もう少し難しい割り算だ。しばらく誰も動かな

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  • 【第156回 芥川賞 候補作】『縫わんばならん』古川真人

    2017-01-12 17:30  
    1
    「もしもし。内山さん? 渡辺やけど、今週は何がいります?」
     問屋の渡辺から、注文を訊ねる電話がかかってくるのは、夜の九時と決まっていた。
     電話に出て、帳面を開き、細かい文字で書かれた商品と売り上げの金額を指でなぞりながら、間違えのないように注文する品の名前を、幾度も高い声を出して繰り返し、また相手にも復唱させて伝えた内山敬子は、傍近く置かれた時計を手にとり、皺だらけの目を細めて時間を見た。
     いったい、いつ頃から渡辺が九時ちょうどに注文を訊いてくるようになったのか、敬子には思いだそうとしても思いだせなかったが、どうやら問屋の持つ販路の中でも、敬子の暮らす島が最も遠いことから、注文を訊ねる順番も遅い時間となるようだった。この習慣となった注文訊きは、毎週の水曜日、遅い夕食を終えた頃に、居間の畳に置いた電話の前まで、ここ数年来辛い仕事となっている歩行を彼女に強いるのだった。
     時計の針は

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  • 【第156回 芥川賞 候補作】『ビニール傘』岸政彦

    2017-01-12 17:30  
    1
     十七時ごろ、ユニバで客をおろして街中に戻る途中、此花区役所を通り過ぎたところで右折して小さな運河を渡る橋の上で、若い女がスマホに目を落としたままでこちらも見ずに手を上げていた。停車してドアをあけると、スマホを睨んだまま乗り込んできて、小さな声で新地、とだけ言った。
     北新地ですね、西九条から線路沿いにいって、そのまま二号線に入ったらいいですね、と聞くと女は、それ以外になんか方法あんの? とだけつぶやいた。あいかわらず目はスマホを見たままだ。
     俺は声を出さず苦笑して、車を発進させた。スマホの画面をいじるたびに、長いピンクの爪がかちゃかちゃと音をたてる。新地の女か、いまから出勤だろうか。新地にしては早い時間だし、まだ二十歳そこそこっぽいので、ちゃんとしたクラブのホステスじゃなくて、さいきん新地にもたくさん増えた、安いガールズバーのバイトかもしれない。此花、西九条、野田あたりは、昔はだれ

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  • 【第156回 芥川賞 候補作】『キャピタル』加藤秀行

    2017-01-12 17:30  


    1 肌寒いバンコク。
     ほとんど定義矛盾だな、早朝から路地に降る雨を見つめて思う。窓の下の袋小路はすでに水没している。寒くて、雨ばかり降っているバンコクに来たがる人がどれほどいるというのか。
     まだこの部屋に住んでから三日も経っていない。二十畳以上あるリビングを見回す。奥にはプールが見える。朝六時、気温二十度を切る雨の日の朝からプールに入る人などいないのだ。広い水面を雨がたたく。脇に植えられた南国植物から絶え間なく雨粒が滴(したた)っている。気づくと、さまざまな水音がする。僕がバンコクに入ってから一日も欠かさず朝に雨が降っている。
     まあいい。こういうこともあるだろう。
     だから女が逃げたのか。巨大なソファに寝転がって、想像してみる。この部屋で雨に降り込められた女。スリップを着て窓辺でプールを眺める。コーヒーを片手に持っているかもしれない。ある日思い立ち、トランクにすべてをつめて雨の中

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