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ワイルド・セブンという覆面レスラーを知ってるだろうか――。2014年頃に突如姿を表し、インディマットを中心に活動。あのキックボクサー上田勝次の最後の対戦相手を務め、大仁田厚に寄り添っていた謎のマスクマン。じつは元祖・大仁田信者であり、80年代からプロレス界にディープに関わっていのだ。このインタビューは13歳で大仁田厚と出会い、50歳でワイルド・セブンに変身した男のプロレス青春物語である。
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――ワイルド・セブンの「中身さん」が……って言い方は変なんですけど、プロレスデビューされたのはかなり昔のことなんですよね。
ワイルド・セブン(以下セブン) 大仁田(厚)さんがきっかけでいまから36年前の1982年にデビューしてるんですけど、その大仁田さんがきっかけで91年に引退して、20数年ぶりに2014年にワイルド・セブンとして復活してるんです。復帰したのも大仁田さんがきっかけなんですけど(笑)。
――すべてに大仁田さんが絡んでるんですか(笑)。
セブン これは大仁田さんにも直接言ってるんですけど、「元祖・大仁田信者」は自分だと思いますよ!
――元祖・大仁田信者を言い切れるって凄いですけど……。
セブン 絶対にそうです! だって大仁田さんことは全日本プロレス前座時代から応援してますから。大仁田さんがスターになる前に、そこまで熱狂的な大仁田ファンっていませんでしたし。
――プロレスデビューと大仁田さんはどういう関係があるんですか?
セブン もともとプロレスにはそんなに興味はなかったんです。中学の頃に野球をやっていたんですけど、大ケガをしちゃって。そんなときにプロレスが大好きな友達から「気晴らしにプロレスを見に行こう」と誘われて全日本の後楽園に行ったんですよ。自分が知ってるプロレスラーは馬場さん、鶴田さん、デストロイヤーぐらいで。この3人のサインをもらいたかったんですけど、まあ無理で。そうしたら第1試合に出る若手がウォーミングアップをしてたので、誰だか知らないけど一応サインをもらっとくかと。
――それが大仁田さんだったんですね。
セブン そうなんです。ケガで松葉杖状態の自分に大仁田さんは「おまえ、どうしたんだ?」と聞いてきて。「野球やってケガしました」と言ったら「俺も野球やってたんだよ」と。その会話のやり取りが凄く嬉しくて、初めて生で見るプロレスも面白くて。それから一気にプロレスにハマって大仁田さんのファンになっちゃったんですよね。土日は始発に近い電車で後楽園ホールに向かって、5階で開場を待つ。当時若手の大仁田さんが会場入りするときに「大仁田、頑張れ!!」って声をかけて。大仁田さんに声援を送るファンなんて自分ぐらいですよ。
――渋すぎる中学生ですね(笑)。
セブン そのうち大仁田さんが自分のことを気に入ってくれて。『月刊ゴング』か何かのコラムで大仁田さんが二十歳になったのを機に砧の合宿所を離れて、三鷹で両親と暮らし始めた……ということが書かれていて。自分は三鷹に住んでいたんで大仁田さんに「三鷹に住んでるんですか?」と聞いたら、自分の家から自転車で10分ぐらいの距離で。「今度遊びに来いよ」って電話番号を教えてもらったんです。
――プライベートの付き合いも始まるんですか。ホントに元祖・大仁田信者だ(笑)。
セブン 大仁田さんとはウマが合ったというか。その頃は自分がプロレスラーになるなんて思ってなかったんですよ、身長制限とかも厳しいので。一度だけ大仁田さんに「プロレスをやってみたい」って言ってみたら「ふざけんな!そんなに甘い世界じゃないんだ!!」と怒られて。
――当時は狭き門でしたよね。
セブン 大仁田さんがアメリカに海外武者修行に出たあとに「大仁田さんが帰ってきたらタッグを組みたい」という思いがふつふつと湧き上がってきて。おもいきって全日本に履歴書を出したんです。それを託したのは面識のあるターザン後藤さんで。自分のことを大仁田さんがかわいがってくれていたので、馬場さんや元子さんとも面識はあったんですね。
――全日本プロレスでも知られた存在だったんですね。
セブン 元子さんからは説教されたこともありました(笑)。テリー・ファンクの影響でジーンズにウエスタンブーツを履いていたら「それはテキサスの百姓さんの格好だよ。日本人なんだから、ちゃんとした格好しなさい!!」と。
――元子さんは自伝でも不良プロレスファンを叱ってたって話ですね(笑)。
セブン キャピトル東急の「オリガミ」で馬場さんとお食事させてもらったこともありましたし。
――大仁田信者というより、もはや馬場ファミリーですよ!(笑)。
セブン 馬場さんと会話はできなかったんですけど、馬場さんは大仁田さんのことをかわいがっていたので、その大仁田さんが「かわいがってるやつ」という認識ですよね。だからというわけじゃないですが、全日本に入れるもんだと思ってたんです。ただ履歴書を出しても一向に梨の礫で返事がない。そうこうしてるうちに大仁田さんがアメリカでチャボ・ゲレロからベルトを取って凱旋帰国するので、空港まで迎えに行ったんですよ。そうしたら空港で大仁田さんにいきなりぶん殴られたんです。
――大仁田劇場!
セブン そうなんです(笑)。マスコミや旅行客がいる前で、ですよ。なぜ殴られたといえば「この野郎! プロレスラーになりたいなんて言いやがって!!(怒)」と。あとあと聞いたら大仁田さんがチャボからベルトを取ったとき、馬場さんは鶴田さんや天龍さんを連れて現地に行ってるんですよね。そのときに私の履歴書が海を越えたらしいんです。
――ああ、馬場さんが履歴書を持って行った。それも凄い話ですねぇ。
セブン 馬場さんは「おまえ、この子を知ってるよな。入門したいと言ってきてるんだけど、どう思う?」と。大仁田さんは「コイツのことは入れないでください」と。それで帰国したときに殴られたんです。
――全日本入りの夢は絶たれたんですね。
セブン で、あるときいつものように大仁田さんの家でウダウダしていたら、突然大仁田さんが「おまえ、やっぱりプロレスやりたいのか?」と聞いてきて。「やりたいです!」と言ったら「おまえは身体が小さいからメキシコに行ってこい」と。それでメキシコに行ったのが18歳のときなんですね。
――何かツテはあったんですか?
セブン なんのツテもないです。大仁田さんから現地の人を紹介されるわけでもなく、行けばなんとかなる、と。実際は行けばなんとかなるようなもんじゃなかったんですけど(笑)。当時のメキシコはUWAが新日系、EMLLは全日系だったじゃないですか。EMLLで「大仁田のアミーゴだ」といえば、もしかしたらなんとかなるのかな……と思ったんですけど、結局ならずで。これは確かな話じゃないんですが、当時グラン浜田さんがメキシコに来る日本人レスラーの面倒を見ていて、自分とは浜田さんと面識はなかったのでご挨拶に伺わなかったんですよ。「俺の知らない日本人はメキシコシティで試合をさせない」と言っていたということをあとで聞いたんですけどね。
――顔役に話を通さないとダメだったんですね。
セブン でも、メキシコまで来て手ぶらで帰るわけにはいかないので、流れ流れてティファナのほうまで行ったんです。ティファナのオーデトリオという開場で火曜日に定期戦があったんですけど、モギリのオジサンみたいな人に「試合をやりたいんだ」って声をかけたら「来週また来い」って言われて。自動車修理工場が本業というルチャドールを紹介してもらって、その工場に置いてあったリングで練習するようになって。2週間ぐらいでデビューすることになったんです。
――行動力が実を結びましたねぇ。
セブン デビュー戦は素顔だったんです。そこで出会ったのがホセ・トレス。昔全日本女子でレフェリーもやっていた人で、長与(千種)さんとダンプ松本さんの大阪城の髪切りマッチも彼が裁いたんですよ。ホセ・トレスは全女でレフェリーをやっていたぐらいなので日本好きで日本語もちょこっと話せて。エル・ボルカノというマスクマンだったんですけど、自分が2号をやることになったんです。
――日本人レスラーとの接触はあったんですか?
セブン 皆さんメキシコシティが主戦場だったので、一度もなかったですね。自分は基本的に小さい体育館の興行がほとんどで。ギャラはピンキリで10ドルぐらいのときもあれば、客が入ったからといって50ドルぐらいもらったときもあって。結局ビザの問題とかいろいろあって日本に帰ってきたんですけど、当時の日本で上がるリングなんかないですよ。でも、プロレスから離れたくなくて、物書きをやっていたんです、とあるプロレス雑誌で。
――プロレス雑誌というと『週刊プロレス』、『週刊ゴング』、『週刊ファイト』のどれかですが……。
セブン そのどれでもない『ビッグレスラー』です(笑)。
――ありましたねぇ、『ビッグレスラー』!
セブン 自分で言うのもおこがましいですけど、まあ文才があって(笑)。あるプロレスラーが本を出すときにゴーストライターなんかもやってるんですよ。
――誰ですか?
セブン これはちょっと言えないですけど、◯◯◯さんです。
――あ、なるほど。まあレスラー本人が書いてるわけないですよね。
セブン 実際取材もしていないんですよね(笑)。半生を書いてるわけじゃないから、それらしいことを書いておけばよくて。『ビッグレスラー』では女子プロを担当になったので女子プロ界隈はけっこう取材してました。長与さんとはクラッシュギャルズを結成するかしないかぐらいの頃からの付き合いですし。 でも、だんだんと「俺はプロレスをやりたいんであって書きたいわけじゃないよな」と。
――近くにいるぶん、プロレスの思いはよけいに募りますよね。
セブン 結局『ビッグレスラー』が廃刊になる直前ぐらいにやめたんです。で、そんなときに三鷹駅前のロータリーで大仁田さんとばったり再会して。大仁田さんが引退したあとはしばらくつるんでたんですけど、何年も疎遠になっていたんですよね。そのとき大仁田さんはジャパン女子のコーチをやっていて、復帰したい思いが凄く伝わってきたんですよ、でも、当時は上がるリングがなかったじゃないですか。
――90年代の多団体時代が訪れる直前でしたね。
セブン 復帰した大仁田さんが「格闘技の祭典」で青柳館長とやったときは、都合がつかなかったんでセコンドはできなかったんですけど。パイオニア戦志の旗揚げ戦で剛(竜馬)さんとやったときは、ウルトラセブンの覆面を被ってセコンドに付くはずだったんです。剛さんのセコンドには高杉(正彦)さんがつくじゃないですか。
――ウルトラセブンの正体は高杉さんでしたね。
セブン 大仁田さんはパイオニア戦志の継続参戦を視野に入れてたんですよ。自分も「俺もパイオニア戦志に上がって大仁田さんとタッグを組めるかもしれない……」と思って。ウルトラセブンのマスクを被ることで、次は大仁田&ウルトラセブンvs剛竜馬&高杉正彦をやろうとしたんです。
――伏線を張ろうとした。それが現在のワイルドセブンに繋がっているんですね。
この続きと、マサ斎藤、マシン引退、天心vsロッタン、北原光騎、WWEvs新日本……などの記事がまとめて読める「11万字・記事19本の詰め合わせセット」はコチラ http://ch.nicovideo.jp/article/ar1639388この記事の続きだけをお読みになりたい方は下をクリック!
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もうね。最高だよ。今回のインタビューは最高です!
素敵すぎて何度も読んでいます。ラーメンの話で涙出る。