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“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合■小佐野景浩のプロレス歴史発見
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“天龍番”が感傷に浸れなかった天龍源一郎引退試合■小佐野景浩のプロレス歴史発見

2015-12-01 00:00
    プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は小佐野さんが番記者として30年近く取材し続けた天龍源一郎! “天龍番”は引退試合をどう見届けたのか――?


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    ――小佐野さんは天龍番として天龍さんのレスラー人生を見続けてきましたね。

    小佐野 こないだ自分が出演したスカパー!の天龍さん特別番組を見てたんですけど。85年当時の全日本プロレスの映像が流れたんだけど、リングサイドで写真を撮ってる自分の姿を見つけたんですよ(笑)。

    ――30年前の自分を発見(笑)。

    小佐野 記者席を見ると、当時の先輩マスコミ方がズラリと並んでいたし、「あれから30年も経ってるんだ……」って懐かしくなっちゃいましたよ(笑)。天龍さんと初めてちゃんと会話したのは83年頃なんですけどね。

    ――一人のスポーツマンの人生を30年近くも見続けるってなかなかないですよね。

    小佐野 ボクは新聞社の記者ではなかったので、人事異動で部署が変わることなくプロレスを見続けてきたところあって。これまで何人かのプロレスラーの引退を見届けてきたけど、天龍さんの場合は自分が担当記者だったから、ほかの選手とはちょっと違う思い入れもありますよ。19845月から『ゴング』が週刊になって、そこから編集者から記者という立場になり、全日本プロレス担当として天龍さんも取材対象になったんだけど。876月に天龍革命が始まったときから「ああ、自分は天龍番なんだなって」という自覚が生まれた。

    ――それはどういう理由があったんですか?

    小佐野 なぜかというと、全日本担当として『ゴング』の誌面を取る上で、切り札は天龍源一郎しかいなかった。全日本のほかのレスラーだとページが取れないんですよ。

    ――だから天龍さんを徹底的に取り上げるしかないと。

    小佐野 そう。当時、誌面の軸になるのはやっぱり新日本プロレス。月刊の頃だったら猪木、テリー・ファンク、ミル・マスカラスですよね。何にも話題がないときはとりあえずその3人にしておけば売れた(笑)。

    ――馬場さんでは売れない。

    小佐野 売れない。というか、馬場さんの全盛期は日本プロレスの頃だから。あと全日本の選手は記事にしにくい。だって選手が主張しないから。新日本のレスラーは「噛ませ犬じゃない!」とかみんなドンドンと主張するからね(笑)。

    ――刺激的なほうがページは取りやすいですよね。

    小佐野 なぜ全日本の選手が主張しないかといえば、馬場さんがそういう人じゃなかったし、馬場さんが主張しないのであれば当然、他のレスラーもやらない。そんな世界の中で初めて発信したのは天龍さん、天龍同盟だった。

    ――そこから天龍番として自覚が生まれたんですね。

    小佐野 ただ、天龍さんが新日本と違ったのは、たとえば猪木さんのように夢やロマンを大きく語るんじゃなくて、天龍さんは現実を語る人だったんです。猪木さんは雲の上の話をする人だったけど、天龍さんは身近な話をする人だった。だからボクは天龍さんの話のほうがピンときたんです。

    ――猪木さんの場合は、国家論やエネルギー政策にまで話が及びますからね(笑)。

    小佐野 それに猪木さんはカッコイイことを言うじゃないですか。天龍さんはそこ違った。地に足がついてるというか。口にしたことはやる人だから、試合内容も含めて「なるほど!」と思えたんですね。

    ――そうして各マスコミも天龍革命を支持していったんですね。

    小佐野 あの頃は長州力たちがいなくなって全日本は下降線を辿っていたわけです。そこで天龍さんが行動を起こしたことで、各社は天龍さんに注目した。巡業についている新聞記者たちは、地方の試合を毎日見てるんだけど、どんな田舎の体育館でも天龍さんは絶対に手を抜かない。

    ――言葉は悪いですけど、当時の地方プロレスって花相撲的だったというか……。そこまで全力ではやってなかったですよね。

    小佐野 でも、天龍さんは違った。本当に全日本を活性化させようとしてるんだなってわかるわけですよ。しかもその当時は川田利明も冬木(弘道)さんもいなかったので、天龍さんと原さんだけの2人だけ。その2人のタッグマッチしかできなかったんですよね。

    ――ハードですよね……。6人タッグマッチならまだ回復できますけど。

    小佐野 全日本の正規軍は日替りでできるけど、天龍さんたちは毎日全力でタッグをやるしかない。移動も自分たちで車を借りたり、電車の時間を調べて乗り継いで会場に向かった。どうしても電車で行けない場所は、リング屋さんの車に乗ったりしてね。リング内外でそれだけ真剣にやっていたら、マスコミとして「いい加減に書くわけにはいかない」という意識にさせてくれましたよ。そこは天龍さんと原さんが言っていた「まずは毎日取材しているマスコミを勝負する」と。毎日取材に来るマスコミに「凄い!」と思わせれば、ファンにも届くと考えていたわけです。

    ――『ゴング』編集部にもその熱は届いたんですか?

    小佐野 いや、初めは誌面取りは厳しかったですよ。巻頭カラーはなかなか取れない。でも、活版のモノクロ見開きページで天龍同盟の記事を何かしら書いてましたよ。試合レポートに収まらない部分を記事にする。そのうち会社の人間からも「天龍は面白いことをやってるね」という反応があったりして手応えは感じつつあったし、お客さんがついてきたのが一番大きい。だって全日本に客がすぐ戻ったんだもん。

    ――すぐに!

    小佐野 すぐですよ。天龍革命がスタートして2シリーズ目には後楽園が満員になった。天龍さんの最初の目標は「後楽園ホールを満員にする」ってことだったんだけどね。

    ――ああ、後楽園を埋められないほどに全日本は落ち込んでいたんですね。

    小佐野 それだけ天龍同盟にインパクトがあったし、それくらい全日本に何も話題がなかったということだけど(笑)。結局、長州たちがいた頃、日本人同士の熱い戦いをファンたちは見てしまった。それが日本人vs外国人の戦いに戻ってしまったら、やっぱり刺激は受けないでしょ。そこで長州に、いの一番に噛み付いていた天龍さんがジャンボや輪島に噛み付いたわけだから。盛り上がるよね。

    ――その天龍同盟は210ヵ月で終幕し、天龍さんはSWSに移籍しますけど、そこからしばらく逆風を浴びますよね。

    小佐野 SWS2年間は天龍さんもつらかったと思う。私は当初、全日本の担当も続けてたけど、天龍さん追いかける延長上でSWSも取材していた。全日本とSWSは選手の引き抜きをめぐって敵対してるけど、どちらも取材したかったんですよ。全日本は6年間取材してきたし、頑張ってる三沢(光晴)たちのことも取材したい。結局、大人の事情でそれは許されなくて。全日本の担当からは外れてね。

    ――小佐野さん何歳くらいですか?

    小佐野 28から29歳になる頃ですね。

    ――そんな大人の事情をよく我慢できましたね。

    小佐野 まあ、しょうがない。プロレス業界にそれなりに長くいたから、そこは理解してますよ。取材という立場だから敵も味方もないんだけど、団体関係者や選手からは敵と見られたり、味方として見られたり。とくにあの時代のプロレス界はそのへんは顕著だったと思う。自分の担当記者は味方だけど、違う担当は敵だ、と。

    ――担当はその選手や団体と一蓮托生なところはありましたよね。

    小佐野 ただ、天龍さんは誰にでも普通に接してくれてましたよ。『週プロ』は知らないけど。あれだけバッシングされたら……『週プロ』というか、当時の編集長だった(ターザン)山本さんに対してはよくは思ってないでしょうし。




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    作/アカツキ




    ――SWSバッシング以降、天龍さんって、ふとした瞬間にプロレスをやめてしまうんじゃないか……という雰囲気を感じていたんですけど。

    小佐野 90年代に限っていえば、それはないですね。905月に設立したSWS926月に終わって、WARを旗揚げして新日本と1年間やって……少なくとも団体をやってるあいだはやめられないでしょ。選手を食わせてるわけだから。それこそ天龍さん本人からすれば猪木さんに勝った時点でやめれば一番カッコイイ。9414日に猪木さんに勝ってやめれば、業界全体相手に勝ち逃げするやり方もあった。あのときの天龍さんの年齢的にはやめてもおかしくない。猪木さんに勝った1カ月後に44歳だから。

    ――もしそこで引退していたら衝撃でしたね(笑)。

    小佐野 天龍さん本人の中では引退の考え方は変わっていったんだろうけど。ボクが思っていたのは、行き着くところはお相撲さんなので「ああ、もうやめた!」と思ったらやめちゃうんじゃないかなって。お相撲さんの引退ってそうでしょ。「体力の限界!」「気力がなくなりました」と言って場所の途中だろうがやめる。「この一番で引退です」ってやめた力士はひとりもいない。

    ――「これが最後の一番」として相撲は取らせないんですね。

    小佐野 やらせないです。親方に「気力がなくなりましたけど、最後の一番を取らせてください」と言っても認められない。たしか小錦が引退を決めたとき、ハワイの両親が来日するから親の前で最後の一番を取りたかったんだけど、許されなかったのかな。そこは相撲の美学があるんだろうけど、天龍さんも同じ。それこそ天龍さんが全日本最後の試合となった90年4月19日のジャンボ鶴田戦の3日前、大阪大会の控室でボクと2人きりになったときに「ジャンボに負けたらやめる」と口にしたけど、「うわ……!?」と思ったしね。

    ――底知れぬ迫力があったわけですね。

    小佐野 SWSの内部がゴチャゴチャしたときも「もうやーめた!」と言ってもおかしくなかった。あのときは天龍派と反天龍派がそれぞれ団体をやっていくのあれば、メガネスーパーは引き続きお金を出しますよという話だったみたい。天龍さんが団体をやれば天龍さんについてくる選手を食わすことができる。だから天龍さんは団体を続けたんですよ。天龍さんはあの時点でフリーになるやり方もあった。ニューヨーク行きの話もあったんだから。

    ――WWF(現WWE)のテンルー!!

    小佐野 でも、天龍さんはニューヨークを選ばなかった。周囲の「やりましょうよ!」という声に応えて団体をやり始めて、あとは現役をやれるところまでやろうと思ったんじゃないかな。鶴田さん、馬場さん、さらに冬木さん、三沢さんが亡くなったあとは「この人たちのぶんまで……」という心境にもなったと思うしね。

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