定期号[2013年4月30日号/通巻No.76]
今号の執筆担当:渋井哲也
渋井哲也 連載コラム【“一歩前”でも届かない】vol.12
「受験のために訪れた水戸市で被災した高校生」
■茨城県水戸市で出会う
2011年3月16日、関東の被災地である茨城県水戸市に向かった。この頃は、首都圏から北関東、東北方面に向かうJRの路線がストップしていた。また、ガソリン不足により、まずは東京から近場の被災地を取材しようと考えていた。
しかし、東京から水戸に向うまでに見えてくる景色のなかで、地震の被害だけでも甚大な影響があることがうかがえた。また、水戸市内に入るまでガソリンを求める車の列を多く目にした。当時は、高速道路が使えずに国道6号線を走っていったが、水戸市内に入るのは夕方になってしまった。
地震から5日目、水戸市内、地震被害だけだったとはいえ、観光名所の偕楽園では、園内が地盤沈下や液状化現象の影響で閉園となるなど、震災の影響は少なくなかった。市内に入るとあたりはすぐに暗くなったが、市内を走る車も少なく、停電などの影響で街灯や信号機が復旧していないところも見られた。市街地の中心部でさえ休業している店が多く、街全体がひっそりとしていた。
県庁の災害対策本部を訪れて現状を確認したところ、市内には避難所がいくつかできていた。
私はJR水戸駅から比較的近い三の丸小学校に向かった。地震から5日後ということもあり、避難所に留まっている人たちは少なくなっていた。しかし、遠方の人たちは帰れず、また一人暮らしの人たちは不安だったために、まだ避難所に残っていた。そこで宮城県石巻市の高校3年生・佐藤大貴くんと出会った。
3月12日が入試の茨城大学を受験しようと佐藤大貴さんは市内を訪れていた。大学までの下見を兼ねて出かけバスに乗っていた時だった。突然、揺れ始めたのだ。このとき、佐藤さんは過去の地震体験を思い出していた。
「バスに乗っていたときに地震がありました。これの揺れは、2年前の地震(岩手・宮城県内陸地震)と同じだと思ったんです。実家が心配になりました」
2008年6月、岩手県内陸南部を震源とする地震が発生した。このときはマグニチュード7.2、最大震度6強を岩手県奥州市と宮城県栗原市で記録し、土砂災害が多かった。佐藤さんが住んでいた石巻市は震度5弱だった。
今回の地震は太平洋三陸沖を震源で、2年前の地震とは震源が内陸と沖との違いがある。水戸市は震度6弱だった。ただ、バスの中だったために、地面を歩いていた人や建物にいた人との感覚とは違っているはずだ。ただ、08年の地震で被害が大きかったために、心配になった佐藤くんは周囲を見渡した。バスの乗客の中には、地震について携帯電話でインターネット検索している人がいた。そのため、宮城県が震源だということがわかった。
「mixiやTwitterはやっていません。周囲の乗客が携帯電話で地震情報を見ていました。そのため、僕もYahoo!ニュースでチェックしました。その後、家に電話してもつながらなかったですね。入試どころではなくなったんです」
結局、バスはJR水戸駅に向かった。そのため、駅から近い三の丸小学校の避難所に来ることになった。そこで、同級生の高橋美穂さんと偶然、出会った。高橋さんも大学入試のために来ていた。見知らぬ土地で、顔見知りと一緒なのは心理的には安心するところがあった。ただし、夜は余震が続き、眠れなかったという。また、自分たちが住んでいる石巻市は津波の被害があったことがわかると、家族を心配した。とはいえ、連絡がつかないために安否が分からない。
「一刻も早く帰りたい」
なんとか帰れる方法を探ってみた。JR水戸駅はホームなどが被害があり、運行ができなくなっていた。そのため、すぐには帰れず、足止めをされてしまう。私が避難所になっている体育館に行ったとき、佐藤くんは高橋さんらとトランプ遊びをしていた。息抜きがほとんどない中で、コンビニでトランプを買ったのだという。
その後、3月31日、JR常磐線の土浦ー勝田間が開通した。また、4月25日まで東京から仙台まで向かう新幹線が開通しなかったものの、東京から仙台行きの長距離バスが出ることになった。さらに仙台から石巻までのバスも運行できるようになった。そのため、4月になってから、仙台行きのバスに乗るために、水戸駅から東京へ向かった。
■宮城県石巻市で再会
4月15日、佐藤さんに会うために石巻市築山の自宅へ向かった。佐藤さんの家の周辺は海岸から2キロ離れているため、全壊した家は多くはないが、ほとんどが床上浸水をしていた。単なる集中豪雨とは違って、津波が海底のヘドロを運んで来ていた。生臭いにおいが漂っていた。佐藤さんは使えなくなった物をビニール袋に入れて整理をしていた。
「(家を)見るとわかりますが、(一階の)窓がないんです。風が吹くと、砂埃が入ってしまう。一階が生活の中心だったんです。いつになったら、(震災前と同様の)生活できるのか。とりあえず、住めるために自分に何ができるのかを考えて、掃除しています」
入試前に被災したが、進路はどのように考えているのだろうか。
「自分としても呑み込めていない部分があるです。生活自体が変わって、なんとなく過ごしていた一日一日が、意味のあるように考えるようになった。第一は家のことを考えたい。進路は被災前と変わらず、教育学部を目指しています。中学校の先生に憧れていたから。先生になったら、地元の子どもは全員が被災を経験している。こういうことがあった時、どうしたらいいのかを教えていきたい」
[キャプション]石巻市の佐藤さんの自宅前で。自宅を掃除し、津波
の影響で使えなくなった家具などを整理しているところだった
再び石巻で暮らす佐藤さんの自宅を訪ねたのは7月14日だった。4月に佐藤さんの家を訪ねたときは、津波で床上浸水をしていた家の片付けに追われていたが、その後、予備校には通わずに、自宅で浪人生活を送っていた。
「予備校には通っていないです。でも、(出身の)高校に行けば、勉強を教えてくれるんです。それに、親が『石巻から離れるな』って心配しているんです」
予備校に通わないのはハンディだが、出身高校の教諭が受験勉強のアドバイスをするといった配慮を被災学生にしていた。しかし、佐藤さんにとって、この時期の心配は、復興計画の行く末だった。その内容によっては、佐藤さん宅が建築制限の対象になる。住宅を修理して住めなくなることもありえた。
「まだ家は治さないようです。復興計画で具体的にどうなるかはわからない。はっきりするのは9月になってから」
「東日本大震災により甚大な被害を受けた市街地における建築制限の特例に関する法律」(特例法)という法律がある。この法律では、震災によって津波被害を受けた地域は、しばらくは家を建てられない。その対象地域となったら、引っ越しも検討しなければならなくなる。
建築制限の対象になると、余震や大雨の浸水で危険性が指摘され、また、土地区画整理が検討されている。建築基準法では、震災発生日から2ヶ月が建築制限の期間だが、東日本大震災では、被害が甚大であることから「特例法」によって、9月11日まで延長された。
結局、石巻市では、釜地区、大街道地区、南浜地区、中央地区、住吉地区、湊地区、渡波地区、鮎川地区、雄勝地区の一部の地域が、建築制限の対象になることが決まった。しかし、佐藤さんの家はぎりぎりで建築制限にひっかかっていない。ただし、石巻市の都市基盤復興計画「災害に強いまちづくり(基本構想)案」によると、「避難路・緊急輸送ネットワーク」での「高盛土構造による道路」が提案されている。その案次第では、佐藤さんの家がルートに入ってしまう。そうなると引っ越しを余儀なくされる。そのため、佐藤さんの家はリフォームをきちんとしていなかった。
9月12日、その「被災市街地復興推進地域」が決定した(石巻市内では鮎川、雄勝の両地区はのぞく)。結局、佐藤さんの家は引っ越さないで済むことになった。
「おかげさまで(受験勉強に)集中できそう」
2012年6月30日、私は佐藤さんと改めて会うことができた。しかし、今度の場所は北海道旭川市。宮城県石巻市から約600キロの地点だ。佐藤さんは北海道教育大学に入学していた。中学校の教師になりたいという夢を着実に近づいていた。別の取材で旭川市を訪れた私は、佐藤さんとJR旭川駅で待ち合わせをし、駅近くの喫茶店で話を聞いた。
「中学校の先生になりたい、という思いは変わりません。ただ、被災地である宮城県を離れ、あまり被害の無かった北海道に来て、友人たちの話を聞くと、改めて震災というものを実感させられました。第三者の目線とも言える友人たちの話から震災を別な角度から見れた気がします」
北海道も地震と無縁なわけではない。北海道では「十勝沖地震」が心配されている。十勝沖地震は1952年(浦幌村で震度6、帯広市、釧路市で震度5)と2003年(新冠町などで震度6弱、帯広市などで震度5強、北見市、苫小牧市などで震度5っ弱)、2008年(新冠町などで震度5弱)に起きている。しかし、旭川市は内陸部で、大陸プレートの影響を受けない地域にあり、地震発生率が低いと言われている。
「十勝地震のことはやはりこっちに来てからも何度か耳にしました。ただ大学がある旭川市は内陸部で、『ほとんど地震がないから安心していい』と多くの地元の人に言われ、そのせいか地震から逃れられたような安堵のようなものも抱いてます」
ただ、佐藤さんは将来は教師になって宮城県に帰りたいと考えている。地震調査研究推進本部の「活断層及び海溝型地震の長期評価」によると、宮城県は今後も「宮城県沖地震」が想定されている。宮城県沖ではM7〜7.3の群発地震の発生は10年以内が30%、30年以内が60%、50年以内が80%となっている。また、三陸沖北部から房総沖の海溝寄りの津波地震は、M8.6〜9の地震が10年以内が9%、30年以内が30%、50年以内が40%となっている。宮城県で教師をするということは、防災教育と切り離せない。
「大学でも地震について考える講義があり、自分が教師ならどうするかなどディスカッションをしています。そうした積み重ねが、将来的に宮城へ戻る自分としては助かってます」
[キャプション]三の丸小学校の避難所で、トランプをしている佐藤さん
[参考]地震調査研究推進本部「活断層及び海溝型地震の長期評価」
http://www.jishin.go.jp/main/p_hyoka02_chouki.htm
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■渋井哲也 携帯サイト連載
ジョルダンニュース「被災地の記憶」
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渋井さんによるニュースサイトでの連載です。最新号は、「母子4人の犠牲が教えたもの−本州最東端の岩手県宮古市姉吉」というタイトルです。
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渋井哲也 しぶい・てつや
1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーション等に関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」(河出書房新社)など。
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