侵略
日本の行為と言わず
「安倍談話」は「侵略」について、「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も…」と一般論としていっています。侵略が日本自身によるアジア侵略だったという肝心のことを語らず、「安倍談話」の戦前の歴史部分にはでてきません。これは村山談話にある「国策を誤り」「植民地支配と侵略によって…アジアの諸国の人々に対し多大な損害と苦痛を与え」たとの認識とは異質で、事実上これを否定するものです。「安倍談話」は、戦前の日本が、欧米列強の「経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受け」その「行き詰まりを、力の行使によって解決」しようとしたと描いています。昭和史に詳しい作家の保阪正康氏は「経済ブロックが戦争の原因だという言い方は、1930年代の日本が太平洋戦争を起こすときの論理と通底している」と指摘します。(14日テレビ朝日「報道ステーション」)
さらに日本が日露戦争で「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」とのべています。しかし、日露戦争は、朝鮮や中国東北部(満州)の支配権をめぐってはじめた、日露双方からの、いわば“強盗”同士の戦争でした。
植民地支配
主体がだれか、語らず
「安倍談話」は、植民地支配について、「植民地支配から永遠に訣別(けつべつ)」すると、戦後の誓いのなかでいっています。しかし、日本が戦前、朝鮮半島と台湾を長く植民地支配したという、支配した主体がだれなのか、肝心のことが語られていません。日露戦争にふれながら、その戦争の目的だった韓国併合(1910年)=朝鮮半島の植民地化にも言及なしです。
朝鮮半島は併合から敗戦までの35年間、日本の軍事強権下で独立・自由を完全に奪われ、日本の侵略戦争に動員されて多くの命を奪われました。「韓国への誠意が感じられない」(マイク・モチヅキ・ジョージワシントン大教授、「東京」15日付)といわれて当然の内容です。
「慰安婦」問題
談話で一言も触れず
談話は、「二十世紀において、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた」といいますが、人ごとのような言い方です。肝心の日本軍「慰安婦」問題にまったくふれていません。女性の問題をとりあげるのなら、当然「慰安婦」問題にふれて、「当時の軍の関与」を認めた河野談話(1993年)にも言及すべきでした。それがいま日本の謝罪を求める、高齢になった被害者の声に応える道です。そうしなかったことに安倍首相の「慰安婦」問題への態度があらわれています。
「お詫び」
首相自身の意思表明なし
「安倍談話」は、「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ちを表明してきました」としました。「お詫び」が首相自身の意思と責任によるものではなく、まさに人ごとで欺瞞(ぎまん)に満ちたものであることを露呈させました。戦後50年の村山談話は、「私は…心からのお詫びの気持ちを表明いたします」と明言していました。これと比べても、「安倍談話」の主体性なき「お詫び」ぶりは一目瞭然です。「安倍談話」を「内閣総理大臣談話」としている以上、安倍首相本人の意思表明のない「お詫び」は意味を持たないはずです。
「安倍談話」は「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と強調しました。自ら謝罪しないことに加えて、その必要は今後も一切ないといっているに等しい異常な姿勢です。
「積極的平和主義」
戦争法案推進と一体
「安倍談話」は結びの部分で、「価値を共有する国と手を携えて、『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と安全にこれまで以上に貢献してまいります」と表明しました。首相が唱える「積極的平和主義」とは、「平和」の文字とは裏腹に、「戦争する国づくり」を推進するためのスローガンにほかなりません。
それは、集団的自衛権行使を容認した閣議決定(昨年7月)が「国際協調主義に基づく『積極的平和主義』の下、国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に貢献するためには、切れ目のない対応を可能とする国内法制を整備しなければならない」としていることからも明白です。
「安倍談話」が村山談話を投げ捨てるとともに「積極的平和主義」を掲げたことは、安倍首相の歴史認識と戦争法案の推進姿勢が一体ということをあらためて浮き彫りにしました。