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【第151回 直木賞 候補作】 『本屋さんのダイアナ』 柚木麻子
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【第151回 直木賞 候補作】 『本屋さんのダイアナ』 柚木麻子

2014-07-14 12:00
     新しい教室の窓際の席からは、空のプールがよく見える。昨日まで降り続いた雨のせいで、うっすらと底に水がたまり、その上には校庭から吹き飛ばされてきた桜の花びらがふかふかと積もっていた。新学年の一日目がなんとか晴れてよかった。新しい机は滑らかで木のいいにおいがする。三年三組の新しいクラスメイトの黒い頭がずらりと並んでいるのを、一番後ろから眺めるのは壮観だ。四月の風にそよぐカーテンもパリッと糊付けされていて清潔そのものだ。
     こんな風に何にも染まっていないまっさらの新学期はむやみに希望を抱かせるけど、それも名前を名乗るまでのわずかな間だけだとこれまでの経験からよくわかっている。自分の番がだんだん近づいてくることが怖くて仕方ない。頭がぼうっとし、みぞおちの辺りがしくしくと痛み始めている。数年後に必ず訪れると言われているノストラダムスの大予言がたった今、本物になればいいのにとさえ思う。朝、大急ぎですすり込んだパック入りのゼリー飲料が冷た過ぎたせいだけではないだろう。教室前方に座るおさげの女の子が立ち上がった。
    「出席番号十番、佐藤みゆきです。好きなことはドッジボールと指相撲です」
     ぱちぱち、と教室のあちこちから拍手が起きる。さとう、みゆき、という平凡な名前がうらやましくてたまらない。ああ、洋服を簡単に着替えるように、名前も着替えられたらいいのに。
     矢島ダイアナは字が読めるようになるずっと前から、自分の名前が大嫌いだった。外国の血など一滴も入っていないのにダイアナ、それもよりによって漢字で「大穴」と書く。ダイアナの父は競馬が大好きだったらしい。毎週のように府中の競馬場に出かけて、まったく働かずにけ事だけで生計を立てていたそうだ。大穴とは競馬や競輪、競艇で賭け金の百倍を超える配当を意味するらしい。
     ―パパと相談して、あんたが世界一ラッキーな女の子になれるようにと思ってつけたんだ。世界一の名前じゃん。本当はパパが毎年必ず行く「青葉賞」の青葉ちゃんにしようと思ったけど、ダイアナの方がかっこいいからそっちに決めたの。
     ティアラは得意そうに微笑むけれど、この名前のせいで、ダイアナは八歳にして未来に絶望している。もし今、父に会うことができたら、文句の一つも言ってやりたいが、彼の顔さえ覚えていない。ティアラの初恋の人だったが、ダイアナが生まれてすぐ遠くに行ってしまったそうだ。この話をする時、ティアラはなぜか誇らしげだ。
     ―うちを嫌いになって出て行ったわけじゃないんだよ、きっと。だから、うちはパパのやりたいようにさせてあげるのが一番だと思ったの。好きな人の夢を応援するのが、いい女じゃん。
     どういうわけか、ティアラはおしゃべりにノッてくると関西人でもないのに自分を「うち」と呼ぶ。
     外でティアラに名前を呼ばれるたび、周囲の人は一斉に振り返る。ダイアナとティアラを見比べると、誰もがははあ、と合点がいったように肩を竦め、皮肉な笑みを張り付かせる。ティアラの外見なら、へんてこな名前を娘につけても納得ということか。びっくりするほど小さな顔にとがった顎、つけまつげとカラーコンタクトで作り上げた大きな青い瞳、金色に染めた髪は高々と結い上げられている。とにかく派手で態度も大きいので、一緒に歩くのは相当恥ずかしい。ティアラの好みで、ダイアナの髪も小さな頃から繰り返し金色に染められているため、まるで古いバービー人形のようにパサパサに傷んでいる。
     ティアラには矢島有香子というちゃんとした本名があるのだが、勤め先のキャバクラで使っている名前をとても気に入っていて、ダイアナにもそう呼ばせている。口がかゆくなるような名は本当に恥ずかしいけれど、十六歳でダイアナを産んだティアラは確かに「お母さん」と呼ぶにふさわしくない。
    「お母さん」とは―。例えば大好きな『大草原の小さな家』のインガルス夫人、『若草物語』のマーチ夫人もいい。好きな本に登場するお母さんたちは、大抵家にいて、つくろいものをしたり、素朴なパンやケーキを焼いてくれる。控えめでしっかり者で優しくて家庭的で、なにより地に足がついている。ティアラのように「うちが作るより絶対うまいし」と娘にお金を渡してコンビニやファーストフードで食事を買ってこさせることも、携帯電話の待ち受け画面の男の人がころころ変わることも、明け方ホロ酔いで帰ってきて家中を引っかき回して大騒ぎすることも、チェーンの居酒屋で店員と殴り合いのケンカをすることも、万が一にもない。もちろん子供に変な名前をつけたりもしない。誰よりも正しくて、中心がブレることがない大人の女性こそ「お母さん」だ。
     だからといって、ダイアナは決してティアラを嫌いなわけではないのだ。ただ、周りの大人に笑されてもそれに気付かない母親を見ていると、自分がしくじった以上に恥ずかしく、いたたまれなくなる。授業参観、運動会、スーパーでの買い物。わあああ、と叫んでティアラの細い腰をつかみ、全力で制止したくなる場面は日々の暮らしの中で数え切れないほど経験してきた。
     ティアラの居ないアパートで膝を抱え、図書館で借りてきた本を読みふける時だけ、ダイアナは自分を取り戻すことができる。胸に湧いた思いを言葉にすることはもともと得意ではない。一生誰にも会わず、こうして家で本だけ読んで過ごせないか、と思う時がある。父がいないことも、母が明け方にならないと帰ってこないことも、なにより自分のおかしな名前も忘れることが出来るから。十五歳になったら、お役所に行って名前を変えよう。青葉でもいいし、花子でもいい。とにかく平凡で普通な名前―。呼ばれた時に周囲がクスクス笑わないような常識的な名前を手に入れるのが、ダイアナのささやかで一番大事な夢だった。
     とうとう、自己紹介の順番が来た。ダイアナはしぶしぶ立ち上がった。教室中の視線がこちらに集まるのがわかる。根元が黒くなり始めてパサパサした金髪頭、くだらないアニメのシャツ、とがった顎、やせっぽちの薄い体。自分でも嫌になるくらい鋭く大きな目に、皆が好奇のまなざしを向けている。
    「矢島ダイアナです。本を読むのが好きです」
     出来るだけ小さな声で言い、すぐさま椅子に腰を下ろす。周囲と目を合わさないように膝小僧を見つめた。皆がひそひそ話しているのがわかる。
    「ダイアナだって あの子、外国の子」
    「違うよ。私、二年の時一緒だったけど、日本人だよ。確か、公園の近くのアパートにお母さんと二人で住んでるの」
    「へえ、でも、髪が金色だよ」
    「あれ、根っこは黒いじゃん。へんなの」
    「染めたのかな 子供がそういうことしていいの」
     お調子者らしい男子が右手を耳につけてぴんと伸ばした。
    「ねー、ダイアナってどういう字書くの カタカナ」
    「……大きい穴」
     消え入るような声でつぶやくと、どっと笑いが起きた。
    「はい、皆さん、静かになさい」
     新しい担任の岩田敦子先生がきっぱりとした口調でそう言うと、教室は一瞬で静まった。色白ででっぷりした四十代くらいの女の先生で、縁なしの眼鏡の奥に鋭い目が光る。とても怖いけれど一人ひとりと熱心に接してくれるから生徒に人気があることで有名だ。
    「質問は今じゃなくて、休み時間にしましょう。新しいお友達と仲良くなるチャンスですよ。……矢島さんは本がとっても好きなのよね」
     突然話しかけられ、ダイアナはおそるおそる顔を上げた。
    「一年生の時も二年生の時も、図書室をたくさん利用した人に贈られる『たくさん借りましたで賞』を受賞してますね。たくさん本を読むのはとてもいいことです。みんな、矢島さんを見習って図書室をどんどん利用しましょう」
     はーい、と元気のよい声が響く。ダイアナの名前のことは忘れてしまったようで、ほっと胸を撫で下ろす。岩田先生が自分のことを知っているなんて、考えてもみなかった。ダイアナは先生のことがもうすっかり好きになっていた。先生なら二年生の時の担任みたいに頭ごなしに叱りつけたり、「乱暴で育ちの悪い子」と決めつけたり、ティアラを悪く言ったりもしないだろう。ほうれん草や魚など、給食で出る普段食べ慣れないものを残したって、怒らないかもしれない。もっともっと本を借りて、先生に褒められたい。
     休み時間になっても胸のどきどきを抑えられずにいると、ピンク色のカーディガンを羽織り、髪を編み込みにした女の子が、ダイアナのところにつかつかやってきた。
    「ねえ、その髪の毛、どうしたの 自分で染めたの」
     気の強そうな味っ歯が唇から覗き、探るような目で尋ねられた。
    「ううん……。ティ……、ええと、お母さんが」
    「へえ、うちのママが言ってた。子供のうちに髪を染めたり、脱色すると、健康によくないんだって。大きくなれないらしいよ 矢島さんのお母さんって変わってるんだね」
     訳知り顔で、周囲に聞かせるように声を張り上げる。何人かの女の子が振り返ってじろじろとこちらを見ている。出会って間もないのにどうしてこちらを攻撃するような真似をするのだろう。恐れる気持ちを堪え、上目遣いで観察していると、味っ歯はおびえたような色を浮かべた。みんなそうだ。話しかけてきたのはそっちのくせに、ダイアナが大きな目で見つめ返すと、大抵の子供は怖がって先に目を逸らす。
    「なに、その目。にらむことないじゃない」
     にらんだつもりなんてない。びっくりして何か言い返そうとしても言葉が出て来ない。
    「私、なんにも悪いことなんて言ってないじゃない。なによ、ダイアナなんて変な名前のくせに。あんたのママ、おかしいよ」
     味っ歯の言う通りだった。ティアラは確かにおかしい。どうして普通のお母さんのようになれないのか。わざわざ指摘されなくても、ダイアナはいつもため息をつきたいような思いで生きている。どうしてみんなはダイアナを放っておいてくれないのだろう。自分が人を不快にする存在だということくらい、よくわかっている。好かれようなんて思ってない。ただ、静かに過ごせればそれでいいのに。
    「ダイアナは変な名前じゃないわよ。みかげちゃん」
     すっと胸がさわやかになるような、よく通る声がした。振り向くと、真っ黒なおかっぱ頭の女の子がにこにこしていた。真っ先に、綺麗な子だ、と思った。華やかな顔立ちではないが、目鼻だちが整っている。陶器人形のようになめらかな肌、形のよい広い額はいかにも頭が良さそうで、髪はお習字の墨のように黒々とつやがある。着ているものは地味なブラウスと紺色のスカートだけど、パリッとしていて清潔な印象だ。明らかに、他の子とは何かが違う。
    「『赤毛のアン』って知ってる アンの親友はダイアナって言うんだよ」
     わあ―。ダイアナは目を丸くする。『赤毛のアン』はほとんどベストワンと言ってもいいくらい、大好きな一冊だ。暗記するくらい何度も読み返している。アンというおしゃべりで空想好きな女の子が好きでたまらなかったし、いちご水やパフスリーブ、ハートのキャンディなど可愛いものや美味しそうなものに満ちている。ダイアナはアンの自慢の美しい親友で、どんな時でも心が通じ合っている二人の関係がうらやましかった。こんな風に本の話を誰かと出来るなんて―。みかげちゃん、と呼ばれた味っ歯はなんだかつまらなそうに肩をすくめた。
    「知らない。私、本なんて読まないもーん。彩子ちゃんと違ってね。ママは読め読めうるさいけど」
     みかげちゃん、とやらはどうやら彩子ちゃんに一目置いているらしい。たしなめられた時に、ひどく傷付いた顔をした。彩子ちゃんという女の子にはおしとやかに見えて、周りの人をぐっと納得させてしまうような芯の強さが感じられた。
    「もったいない。とっても面白いんだよ。ああ、ダイアナなんて名前で羨ましいなあ」
     女の子はこちらをまっすぐに見つめると、にっこり微笑んだ。素直でまっすぐでぴかぴかで、友達になりたいとどんな子でも思うようなそんな笑顔だった。育ちがいい、とはこういうことを言うのかもしれない。
     ―あなたは育ちが良くないから……。
     二年生の担任に投げつけられた暴言がよみがえった。
    「私は神崎彩子っていうの。子がつく名前なんてめずらしいでしょ。おばあさんみたい」
     味っ歯が行ってしまうと、彼女ははにかみながらそう名乗った。ダイアナはやっとのことで首を横に振る。おばあさんだなんてとんでもない。神崎彩子―うっとりするくらい素敵な名前だ。きっとお父さんとお母さんが心を込めて名付けたのだろう。
    「私、一年生の時からあなたのこと知ってるの。中央図書館を使ってるでしょ」
    「う、うん」
    「私、何度もあなたのこと見てるよ。中央図書館でも貸し出しの数が多くて、ロビーのところに表彰状が飾ってあったでしょ。パパがね、あなたをすっごく褒めてた。いっつもにたくさん本を詰めて、あなたが一人で借りたり返したりしているところを私達、何度か見たのよ。あんなにたくさん本を読むなんて偉いねえって。岩田先生も言ってたけど、ダイアナちゃん、すごいね。私、あなたと同じクラスになれて、とっても嬉しい」
     まさか、自分の姿が誰かの目に留まってるなんて考えたこともなかった。この子と仲良くなりたい。心の中で何かが静かに震え出す。彩子ちゃんと仲良くなったら、途方もなく楽しい毎日が始まる気がした。彼女を取り巻く穏やかで澄んだ空気にどうしようもなく惹かれる。このチャンスを逃したくない。彼女ならきっと自分を分かってくれる。腹の底に力を込めた。アンにジョー、パッティにロッテにエリザベス。物語のヒロインはいつだって勇敢で、自分から人とがることを怖がらない。ああ、みんな、私に力をちょうだい。
    「ねえ、あのよければ……。学校が終わったら、中央図書館に行くの。返却が今日までなんだ。一緒に……行かない」
     彩子は大きく目を見開いた。綺麗な顔にやさしい微笑が広がっていくのを、ダイアナは息を詰めて見つめた。カーテンが風にふくらみ、ふんわりと二人を包み込む。教室の喧噪が一瞬遠のき、世界はダイアナと彩子だけのものになった。春が始まったばかりのしんと冷たくて、それなのに日向くさい風がをなでた。


     早く、早く―。
     一刻も早くおうちに帰ってお昼を済ませ、あの女の子の待つ図書館に行かなければ。通学路を走る神崎彩子の頭の中は、ついさっき親しくなったばかりの素敵な名前の美少女でいっぱいだった。矢島ダイアナ―。一年生の頃に図書館で見かけてからずっと気になっていた彼女とついに同じクラスになった上、こんなに早く親しくなれるなんて夢みたい。走る度にランドセルが揺れ、中で筆記用具ががちゃがちゃとぶつかり合う。一年生の時から使い続けているそれらは、今年もやっぱり買い換えてもらえなかった。
     新学期、女の子たちは持ち物を一新する。光るシールや蛍光ペンや人気アニメのキャラクターがまぶしい。だけど、彩子だけはずっと同じペンケースや筆けずりだ。いずれもママが自由が丘の文房具店で買ってきた、フランス製の高級品である。いくら乱暴に使っても憎たらしいくらいに壊れにくく、新品同様のままだ。
     地味で丈夫で長く使えるもの。それがパパとママの好みだった。でも彩子は、すぐに壊れてしまうとしても、キラキラした可愛いものが大好きだった。八歳の女の子ならごく普通の感覚だと思う。

    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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