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【第152回 直木賞 候補作】 『宇喜多の捨て嫁』木下昌輝
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【第152回 直木賞 候補作】 『宇喜多の捨て嫁』木下昌輝

2015-01-07 11:52
     「相手は宇喜多の娘だ。それを嫁に迎えるなど、家中で毒蛇を放し飼いにするようなものぞ」
     宇喜多家の居城・石山城(後の岡山城)に、そんな言葉が響いた。
     本丸にある庭で、木刀を振っていた於葉の太刀筋が乱れる。心地よく風を切っていた切っ先が、苦しげに呻いたように聞こえた。於葉は動きを止めて、袖で頬を伝う汗を拭う。
     声は大きくはなかったが、悪意は過分に含まれていた。まだ冬が明けたばかりの早朝の石山城内は静かで、嫌でも注意を向けずにはおられない。
    「宇喜多の娘」と、先程の言葉を於葉は復唱した。体を心地よく湿らせていた汗が、たちまち違う質感を帯び始める。
     きっと昨夜到着した東美作を支配する後藤家の嫁取奉行の声だろう。随分と年かさを感じさせる声質である。まさか、その宇喜多の娘が庭で木刀を振っているとは思いもしなかったのか。・表裏第一の邪将、悪逆無道の悪将・の異名をとり、毛利や織田にも恐れられる宇喜多・和泉守・直家の居城で言い放つなど、命知らずにもほどがある。あるいは、於葉がいると知っての上での発言だったのか。そう考えると、於葉の体が外気と同じ冷たさに侵される。
     父・直家によって無惨に仕物(暗殺)された者たちの名前を思い浮かべた。
     ――中山“備中”信正。
     ――島村“貫阿弥”盛実。
     ――所“治部”元常。
     ――金光“与次郎”宗高。
     そして、顔を覚える前に自害した母・富の名が、まるで寺鐘のように頭の中で木霊する。
     噛むようにして、木刀を握った。
     息をひとつ長く吐き、於葉は木刀を構える。かるさんという洋風袴に覆われた足を前後に大きく開き、両腕を振り上げた。先程の言葉をかき消すように、木刀を打ち下ろす。
     頭によぎるのは、父の謀略の犠牲になった姉たちの姿だ。自害した長女の初、気がふれてしまった次女の楓。そして主家に嫁いだ三女の小梅も浮かんでくる。木刀を打ち下ろすたびに彼女たちの姿が現れ、また打ち下ろすたびに消えていく。
    「姫様、そろそろ対面のお支度を」
     疲れさせるためだけに振っていた木刀の動きを止めたのは、老侍女の声だった。まさか、宇喜多家の娘が、稽古着姿で後藤家の嫁取奉行と会うわけにはいかない。かといって、打掛や小袖で身を飾るのにも違和感があった。己のことを「宇喜多の娘」と罵った悪意とこれから正対することを考えると、甲冑に身を包みたい気分だった。
     部屋へ戻る途中、腐臭が鼻をついた。口に布を巻いた侍女たちが、盥に血と膿で汚れた衣服を詰めて運んでいる。歩くたびに異様な空気が流れ、朝の新鮮な涼気が穢されていく。
     父である宇喜多直家の夜着を旭川に捨てにいくのだ。
     宇喜多直家は、尻はすという奇病にかかっている。体に刻みこまれた古傷が腫物に変じ、そこから血と膿が大量に滲みでる奇病だ。衣類は数刻もすれば乾燥した血膿で固まるほどであった。穢れた血膿を噴き出す様子が汚物を排泄する尻を連想させるために、尻はすという奇妙な名で呼ばれている。
     直家の汚れた着衣を旭川へと捨てるのが、石山城の侍女たちの仕事である。彼女らの苦労に於葉は同情した。役目を終えると、腐臭が半日近くこびりついてぬぐえないほどだという。
     もっとも彼女たちも、政略の道具とされる於葉に同情、いやもしかしたら軽蔑さえしているかもしれない。於葉が、自害した母の富や姉の初、気がふれた楓のようにならない保証はない。宇喜多家にとって嫁入りとは、殉死に等しい行為なのだ。
     於葉は館の窓から、城下を見た。城の横には旭川が流れており、鏡のような水面が空を映している。遠い川岸には枯れ木と破れ筵でできた流民たちの住み処も小さく見える。
     黒点のような人影が見えた。噂では、父の汚れた夜着を洗って売り物にする乞食の老婆がいるという。・腹裂きの山姥・という醜悪な名で呼ばれているらしい。
     身を穢し生計をたてる老婆と姦雄の娘として蔑まれる自分、一体どちらの生き様がよりましであろうかと考えた。
     宇喜多家の姫らしく、於葉はいくつもの色小袖を重ねて着こむ。花鳥の紋様がほどこされた帯で締めて、最後にその上から柿色の打掛を羽織った。裾と袖のあたりに申し訳程度に扇の柄があしらわれた質素なものだが、これを着ると於葉の心はなぜか落ち着く。稽古のために後ろで輪にしていた髪はおろして、丈長と呼ばれる和紙の髪飾りで結んだ。
     あとは老侍女の背中についていくだけだ。
     歩きながら後藤家の嫁取奉行のことを考える。宇喜多の家中で軽々しく於葉のことを毒蛇よばわりするのは、どんな侍であろうか。よほどの硬骨の士か、あるいはただのうつけか。
     そういえば、名前は何と言っただろうか。於葉は、自分の父である宇喜多直家の言葉を思い返す。猜疑心を発酵腐敗させたような父は、確か嫁取奉行の名を安東相馬と呼んだだろうか。後藤家の中でも重鎮として知られ、飛び出た釘のように厄介な男とも宇喜多直家は毒づいていた。
     やがて、ひとつの座敷へと出た。畳が床一面に敷き詰められ、いぐさの薫りが立ち込めている。その上にひとりの男?後藤家の嫁取奉行が平伏していた。
     異様な姿だった。手足は座敷の畳に這うようにしてあったが、顔は床ではなく斜め前を向き、於葉を見つめていた、否、睨んでいた。
     仮にも備前半国の主・宇喜多直家の娘である於葉に、後藤家の一臣下が直視するなどあってはならない。本来なら、許しがあってから顔を上げるべきである。
     於葉をさらに戸惑わせたのは、安東相馬が全く悪びれずにそんな態度をとっていたことだ。頭髪は半分以上白くなっている。左頬には古い火傷の痕が広がっていた。肉付きはそれほどでもないが、年不相応に引き締まった体をしている。
     碁打ちの名手で武者働きよりも帷幕の中で謀を巡らすのが得手だと聞いたことがあった。しかし、決して戦場働きができない男ではないのだろう。汗と手垢が滲んだ佩刀の柄は、於葉の眼から見ても実によく使いこまれていた。
     猟犬が熊に襲い掛かるかのような平伏の姿勢だった。
    「嫁取奉行を務めまする後藤家家臣、安東相馬」
     名乗る男の声は、庭で聞いたものと全く同じだった。於葉は目眩を感じた。自分が歓迎されざる花嫁であることを、今更ながら強烈に思い知らされたのだ。
    「宇喜多家、後藤家が手をとりあわば、主家である浦上家の繁栄も間違いなし。毛利、織田などは、もはや敵のうちに入らず」
     安東相馬は、老いてはいるが呆けてはいない眼を於葉に向けたまま言上を続けた。彼の口からでた・主家である浦上家・の言葉が、ことの外軽い。於葉の父である宇喜多直家、そして嫁入りする後藤家はともに浦上家が主筋だが、その忠誠は形式以下のものである。事実、父の宇喜多直家は数年前、浦上家に弓をひいたことがある。形勢不利ですぐに講和し形だけはまた臣従したが、いつまた戦端が開かれるか予断を許さない。
     同じく美作の後藤家も何度か浦上家に弓をひいたことがある。主家である浦上家が背いた家臣らの帰参を許すのは寛大だからではない。西に毛利家、東に織田家が圧力をかけている今、彼らの力――特に宇喜多家の力なくして独立は不可能だからだ。
    「安東殿は碁の名手とか」
     於葉は、ふてぶてしく平伏する安東相馬に声をかけた。いや、投げつけたというべきか。下剋上を生きた女たちは、薙刀で武装せざるをえない状況も少なくなかった。於葉は実戦で得物(武器)を握ったことはなかったが、宇喜多家では女ながらに剣術上手として知られている。まだ数えで十七歳の娘にしかすぎないが、悪意を持つ相手と談笑するような生き方は送ってはいない。
    「備中、備前、美作はまつろわぬ国々です。碁にて、三国の形勢を教えていただけぬか」
     自分の声に安東相馬を試す悪意が隠しきれていないことを自覚しつつ、於葉は「碁の用意を」と侍女に声をかけた。
    「碁盤は不要です」
     於葉が振り返った時、すでに安東相馬は平伏していなかった。懐から碁石袋を取り出していた。普段から碁石を持っているとは、よほど碁が好きなのだろう。
    「盤がなければ、碁もうてないでしょう」
    「姫がおられる備前も、我ら後藤家がいる美作も、碁盤のように四角くはありませぬ」
     碁石袋を開き、白石をひとつ取り出した。それを畳の目へと打ちこんだ。畳の目ひとつが、碁盤の一目ということだろうか。
    「ここが宇喜多家のおわす備前、そしてこちらが我が後藤家の美作」
     白石を上下にふたつ打った。その間隔から一畳を碁盤と見据えているようだ。
    「まず北に尼子」
     備前と美作を示す二つの白石の上に、黒石をひとつ置いた。さらに「西に三村、毛利」と口にして黒石を左に二目。「東にかつては赤松、今は織田」と右に一目。中央にある備前、美作の白石ふたつを、黒石が囲みきってしまった。
     西の毛利、北の尼子は謀略でのしあがった下剋上の代名詞ともいうべき戦国大名。東の織田家も、もとは守護代家臣から成り上がった勢力だ。そして、於葉の父宇喜多直家の形式上の主家・浦上家も主君を傀儡とすることでのし上がった過去を持つ。今、中国の覇権を争う大名たちはみな、主家を血祭にあげてきたのだ。
     於葉のいる中国ほど下剋上の激しかった地はない。尼子、陶、毛利、浦上、宇喜多の謀略を上手とする大名が鎬を削り、そこに新興の織田が苛烈な圧力をかけてきた。結果、最も国が乱れたのが後藤家のいる美作だ。大勢力が何度も大兵で乱入し、その度に周辺土豪の旗幟が乱れた。“境目の国(国境線のある地)”とも呼ばれるゆえんだ。
     何気なく置かれた碁石だが、毛利、尼子、宇喜多と呼んで打ちこまれると、白黒の石から禍々しい臭気が立ち込めてくるようだった。
    「もはや尼子は滅び、三村は弱体化し、毛利、織田、浦上、宇喜多が争っております。要となるのが浦上家と、その家臣である宇喜多家」
     安東相馬は、備前の白石の位置を右手の人差し指と中指で微かに調整した。
    「中でも宇喜多家が、中国十五ヶ国の争乱の鍵となりましょう」
     安東相馬の目が妖しく光り、「沼城、砥石山城、龍ノ口城、金川城」と口にしながら次々と白石を備前の周辺に打ちこんだ。十数個の白石が一畳の中に広がる。
    「まず、中山信正の沼城」
     一番最初に置いた備前の石の左下の白石をとり、めくった。
    「あっ」と於葉は小さく声を出した。
     ただの碁石ではなかった。白石を裏返すと鮮やかな朱色に彩られていたのだ。
    「次に島村盛実、砥石山城」と口にして、沼城の下方の白石を裏返す。また、目に鮮やかな朱石。さらに安東相馬が続ける。
    「続いて、龍ノ口城の?所元常」
    「さらに金川城、松田親子」
    「そして石山城、金光宗高」
     一旦、安東相馬の手が止まった。白石の中に鮮やかな朱色の石が何個も混じっている。まるで白壁についた血痕を見ているかのようだった。
     於葉は感情が顔に現れないように苦慮した。今、安東が口にした名前は、全て父である宇喜多直家が仕物した武将たちである。
     それもただの仕物ではない。下剋上でのしあがった侍たちが唾棄するような、卑怯な方法であった。最初の沼城・中山“備中”信正は宇喜多直家の妻の父、つまり於葉の実の祖父にあたる。宇喜多直家の妻、つまり於葉の母の富は、夫が父を仕物したという凶報を聞き、自害してしまった。
     そして、金川城・松田家と、その部下である虎倉城・伊賀久隆は於葉の実の姉二人の嫁ぎ先である。まず宇喜多直家は娘婿の伊賀久隆を籠絡して、彼に主筋であり同じ宇喜多家の娘を娶った松田元賢を攻めさせたのだ。姉妹が敵味方として戦ったのである。滅びた松田家に嫁いだ長女の初は自害し、滅ぼした伊賀久隆に嫁いだ次女の楓は精神を失調し錯乱してしまった。
     自分の娘を道具のように扱う謀略は、敵はもちろん味方や家臣からも忌み嫌われていた。
     後藤家の嫁取奉行が、なぜこのような不吉な名前を列挙するのか。
    「後藤家は宇喜多直家の娘である於葉を歓迎しない」という明確な意思表示だ。
    「それにしても宇喜多直家様の調略は凄まじいの一言」
     ほとんどの碁石が朱色に変わった畳の上を見て、安東相馬が重々しく言葉を発した。値踏みするような視線が、於葉の体にまとわりつく。於葉は己の動悸を必死に隠して、その眼を見つめかえす。
    「碁に捨て石という考えがありもうす。一石を敵に与えて、それ以上の利を得るというもの。あるいは将棋の捨て駒。血のつながった娘を嫁がせ、油断させた上で寝首をかく宇喜多直家様のご手腕は、まさにこの捨て石や捨て駒のごとき考え」
     於葉は、この老人にひるんでいる己を自覚した。
    「そう、正室や己の血のつながった娘さえも仕物に利用する。これを言葉にするならば、捨て石ならぬ……」
     安東相馬が仰々しく天井を見て、一拍置いた。
    「捨て嫁」
     罠にかかった獣の息の根を止めるような、ゆっくりとした言葉遣いだった。べったりと侮蔑の意思が込められている。それは於葉の心胆を貫くに十分な威力を持っていた。足が震えている。もしかしたら、後藤家の家臣、小者、侍女、妾、そして夫となる後藤・左衛門尉・勝基らはみな於葉のことを・捨て嫁・と呼んでいるのかもしれない。そう考えると天地が揺れたかのような不快感が全身を襲う。
     於葉がこの場を逃げ出さなかったのは、踏みとどまったのではなく、すくんでしまったからだった。
    「おお、そういえば浦上家のご嫡男の奥方?確か小梅様も姫の姉君では」
     わざとらしく安東相馬が手を打ってみせた。
     浦上家に対して叛旗を翻した宇喜多直家だったが、あっけなく下剋上は失敗した。あろうことか、無様にも謝罪して投降。誠意の証しとして自分の娘の小梅を主君の嫡男に差し出したのだ。
     ――次に宇喜多直家が狙うのは三女の小梅が嫁いだ浦上家か。
     ――それとも四女の於葉が嫁ぐ後藤家か。
     そう安東相馬は皮肉を述べているのだ。
     於葉は、後ずさろうとする体を必死に押しとどめた。三女の小梅は、於葉にとって特別な存在だ。母とふたりの姉を失った幼い於葉を何かと面倒を見てくれたのが小梅だった。気遣いは於葉に対してだけではなかった。翁や老婆の能面をつけて、いつも皆を笑わせて、場を明るくしようと心を砕いていた。
    「安東様、あまりにも無礼がすぎますぞ」
     たまりかねて後ろに控えていた侍女が口をだした。
    「いや、これは失礼。老人の妄言、気になさるな。ただ、自害され気の病に倒れた二人の姫と母御の末路を考えると」
     白々しく語尾を濁して、安東相馬は悪意のある笑みを顔面に貼りつける。左の火傷痕が蠢動していた。


    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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