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【第152回 直木賞 受賞作】『サラバ!』西加奈子
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【第152回 直木賞 受賞作】『サラバ!』西加奈子

2015-01-07 11:51
    第一章 猟奇的な姉と、僕の幼少時代



     僕はこの世界に、左足から登場した。
     母の体外にそっと、本当にそっと左足を突き出して、ついでおずおずと、右足を出したそうだ。
     両足を出してから、速やかに全身を現すことはなかった。しばらくその状態でいたのは、おそらく、新しい空気との距離を、測っていたのだろう。医師が、僕の腹をしっかりんでから初めて、安心したように全身を現したのだそうだ。それから、ひくひくと体を震わせ、皆が少し心配する頃になってやっと、僕は泣き出したのだった。
     とても僕らしい、登場の仕方だと思う。
     まるきり知らない世界に、嬉々として飛び込んでゆく朗らかさは、僕にはない。あるのは、まず恐怖だ。その世界に馴染めるのか、生きてゆけるのか。恐怖はしばらく、僕の体を停止させる。そして、その停止をやっと解き、背中を押してくれるのは、諦めである。自分にはこの世界しかない、ここで生きてゆくしかないのだから、という諦念は、生まれ落ちた瞬間の、「もう生まれてしまった」という事実と、緩やかに、でも確実にがっているように思う。
     僕の後の人生を暗示したかのようなその出産は、日本から遠く離れた国、イランで起こった。首都、テヘランの郊外にある、イラン・メヘール・ホスピタルという病院で、僕は産声を上げたのだ。
     母は、全身に麻酔をかけられていたから、その瞬間のことは、まったく、覚えていないそうだ。僕が逆子だったから、そのような処置を施したのだったが、近代的なその病院では、出産は自然の為されごとというよりは、手術が必要な軽度の病気と同程度、というような認識があった。全身麻酔での出産は、だから、そう不自然なことではなかったらしい。
     実際、母が分室に入ったときも、医師は、マスクをし、髪の毛を隠し、手袋をした両の掌を顔の高さまであげる、というあの、「映画やドラマなどで見る手術シーン」の仕草をしながら、部屋に入ってきたのだそうだ。
    「麻酔をします、ていうことと、時間で産ませてあげる、て言うてはったことは、覚えてるねんけど、あとのことは、なーんも、覚えてないんよね。」
     そう言った母は、イランの公用語であるペルシャ語も、英語も、まったく話すことができない。左足を突き出し、続いて右足を、という出産の一部始終も、母が後に医師から聞いたそうで、だから本当はどうだったのか、定かではない。だが、知るはずもない言葉が分かる、どういう回路でかは説明出来ないが、何かすごく伝わってくる感覚は、僕の身にも覚えがあるから、僕は母を信じることにしている。
     赴任先のイランで、母の妊娠が疑われたとき、父は母を日本か、医療技術の進んでいるドイツで出産させようと思っていた。だが、初めての検診から戻った母は、父にイランで産みたい、と訴えた。検診を担当した医師が、素晴らしい人だったから、というのだ。
     医師の名は、オストバール氏という。氏の写真が残っていないのが残念だが、母に言わせると、恰幅が良く、優しい目をしていて、一見して、信頼に値する人物だと、分かるらしかった。
     母の人生は、ほとんどこのような直感によって成り立っていた。特に、人物評に関して、それは顕著だった。
     例えば、テレビに出ている人を見る際、母はその人がどのような肩書きの人間かを知る前に、ほとんど直感で「好き」、「嫌い」を決めてしまっていた。そういった決断をする人間は、他にもいるだろうが、母の場合、その直感を、後々変えることが一度もなかったし、よしんばその人の行いを知ったところで、全く揺るがないという強さがあった。最初に嫌いと思った人間は、億円の寄付をしていたって、子猫をたくさん保護していたって、ずっと「嫌い」だったし、最初に好きだと思った人間は、脱税をしていたって、赤ん坊の前で煙草を吸っていたって、ずっと「好き」なのだった。
     僕の名前である「歩」を決めたのも、母だった。テヘランで妊娠が分かった瞬間、母は生まれてくる子供が男の子だと決めていた。そして名前は「歩」だと。直感通り男の子であれば「あゆむ」、もし女の子だったら「あゆみ」に替えられるフレキシブルな名前ではあるが、いかんせん「圷」という文字の苗字に対して「歩」という文字だ。それも、どちらも「あ」で始まる。もう少し考えてみても良かったのではないかと思うが、母のこと、直感を覆すはずもなかった。僕は生まれる前から「圷歩」だったのだ。
     父の赴任先であるイランを決定したのも、母の直感だった。当時父は、会社から、メキシコかイランのどちらがいいか決断を迫られていたらしい。考えあぐねた父が母に尋ねたところ、母は即座に「イラン」と、答えたそうである。
    「なんか、すごい素敵な場所に思えたんよね。」
     もちろんその後、母のその気持ちが揺らぐことはなかったし、後に、このイラン赴任を後悔したことも、一度もなかった。それどころか、家族にとって輝かしい幸福の一時期として、いつまでも記憶の棚に陳列していた。
     ただひとり父に対してだけは、その信念は貫けなかったようである。母の直感の「好き」は、とうとう覆され、ふたりは、後に別れることになったのだ。
     だが、僕がこの世界に登場したとき、ふたりはまだ、別れていなかった。それどころか、深く愛し合っていた。
     イラン・メヘール・ホスピタルの前で、僕を抱いた母と、その肩を抱いた父の写真は、当時歳だった僕の姉によって撮影されたので、大きく歪み、ボケている。だが、後の僕たちをわずかに赤面させてしまうほどの幸福感に、満ちている。
     年、月のことだ。
     母は、出産直後だというのに、太ももが露になった短いワンピース、その鮮やかな緑と同じ色のスカーフを頭に巻いている。そして驚くことに、ヒールのある、白い靴を履いている。
     イラン・メヘール・ホスピタルは、いわゆる金持ちのための病院だった。徒歩でやってくる人間など、ほとんどいなかった。すぐに車に乗る母がそんな靴を履いていたことを、だから、誰も責めなかったのだろう。
     だが、僕がそもそも逆子になったのは、僕を妊娠中、街を歩いていた母が二度転び、そして、就寝中に三度寝返りを打ったということが原因のひとつだった可能性もあるのだから、少しは注意する気になってもおかしくないのではないだろうか。ピンボケしているので、はっきりと確認出来ないが、母は唇を真っ赤に塗っているようだったし、つまり彼女は、母になっても自分のスタイルを変えないタイプの人間だったのだ。短いスカートを穿きたいと思えば穿いたし、それに合うヒールの靴を、ぺたんこの靴に履きかえることもなかった。
     隣に立っている父は、茶色の背広を着て、髪の毛を、ぴたりと後ろに撫でつけている。薄い色のついたサングラスをかけ、白くて尖った靴を履いている様子は、なるほど母の夫、という感じだ。
     母の身長は、センチあり、ヒールを履くと、もっと高くなった。奥二重で黒目がちの目、少しだけ上を向いた鼻、ぽってりして丸い印象の唇。オバケの太郎に出てくる、妹の子みたいな顔だなと、僕は思っているのだが、すべてが小作りで、挙句背が高いので、美人に見られる。特に、本人曰く、ヨーロッパへ旅行したときの人気は高かったそうだ。日本では地味だと思われる顔立ちが、そちらの人間にとっては「エキゾチックで可憐」なものに、なるのだろう。
     母は僕を27歳で産んだ。なので、そんなに若い、というわけではなかった。だが、僕の友人たちは、度々母のことを綺麗だと言ったし、綺麗とは言わないまでも、若いとは絶対に言うのだった。
     父は、身長がセンチもあった。僕が覚えている限り、ずっとせていた。とにかく、何かを美味しそうに食べるということをしない男で、目の前に出されたものを、ボソボソと口に入れていた、という印象がある。そのくせ、山に登ったり、泳いだり、体を動かすことが好きだったので、まったく太らなかった。
     ナイフですっと切ったような細い目と、頑丈な鼻、薄いが大きな唇。ハンサムではないが、それこそ、一見して信頼に値すると言っていい、実直さにれた顔だと僕は思うのだが、やはり、オストバール氏の写真が残っていないので、比べることが出来ない。
     父は母より、つ年上だった。母が短大卒業後に入った、カメラのメーカーで、ふたりは出会った。当時、母、今橋奈緒子は21歳、父、圷憲太郎は29歳。
     母に、当時の父の印象をくと、「背の高い人」と答え、父に同じことをくと、「顔が小さい人」と答えた。劇的な出会い、というわけではなかったようだ。だが、とにかくふたりは何らかの形で恋人同士になり、結婚した。今橋奈緒子は、圷奈緒子になったのである。
     結婚写真のふたりは、息子の僕から見てもため息をつくような美男美女ぶりである。すらりと背の高い父は、少しなで肩気味だが勇ましく、白無垢を着た母は、地味な顔立ちがここぞと際立ち、ちょん、と赤く塗られた唇が、なるほど可憐な人だった。
     結婚が決まってすぐ、母は会社をやめ、父も転職した。転職先は、石油系の会社だった。カメラとは大きな違いだが、ある程度の学歴があれば、大企業にだって転職が出来る時代だった。父は国立の四大を出ていたし、カメラ会社も名の知れたところだった。右肩あがりの経済、終身雇用、年功序列、そんな世界において、父はほとんど無傷で過ごしていられたのだ。
     父は、転職早々、海外勤務を希望した。だが、英語があまり話せなかったため、しばらく国内勤務を余儀なくされた。英語の勉強をし、ある程度社内で実績を積んでから、ようやく念願の海外勤務が決まったのは、年後だった。それがイランだ。
     その年の間に、姉が生まれた。
     僕の家を、のちに様々なやり方でかき回すのがこの姉、貴子なのだが、生まれてきた瞬間から、もうすでに、その片鱗は現れていた。母の腹から、予定より週間も早く生まれたがり、母が病院に着く前から、タクシーの中ですでに産道を通っていた。病院に駆け込んだときには、頭が少しだけ見えていたらしいのだが、姉はこのときになって、急に外に出たくなくなったらしく、その状態のまま、なんと時間もふんばっていたらしい。
     僕が生まれたイラン・メヘール・ホスピタルでは、そんなことは、間違いなくありえなかったことだろう。オストバール氏が姉の頭をひんづかみ、早々に引きずりだしていたに違いない。だが、当時、自然な分にこだわっていた母が選んだその病院では、赤ん坊の意思を尊重していた。おかげで母は、本人曰く死ぬほどの苦しみを味わったそうである。
     世界に対して示す反応が、僕の場合「恐怖」であるのに対し、姉は「怒り」であるように思う。姉は産道ですでに、世界の不穏な気配を察したのではあるまいか。そして生まれ落ちる前から、もう怒っていたのだ。怒りのような積極的な感情がなければ、時間も踏ん張っていられはしないだろう。
     長じてからも、姉の態度には、どこか喧嘩腰の雰囲気があった。それは姉流の、身を守る術だったのかもしれないが、そもそもこの出産時の母との関係に、端を発しているように思う。母は何度も、
    「はよ出てこいや!」
     そう、怒りに任せて叫んだと言うのだ。チンピラが喧嘩の際に使う、
    「表に出ろ!」
     と同じ熱量で。もちろん母は、出てきた姉と喧嘩をする気などさらさらなかったが、産道にいた姉は、その言葉を母流の「表に出ろ」であると受け取ったのではないだろうか。
     母の言い分はこうだ。
    「出産はしんどいよ、そら覚悟してたよ。でも産道でずっと踏ん張るんやったら、なんで週間も早く出てこようとしたんよ。嫌やったら、まだそこにずっとおったら良かったやんか。」
     早く出たがったのは姉の生来の好奇心や、じっとしていられない性格から来るものだと、僕には理解出来る。そして、急に出るのが嫌になったことも、姉の気まぐれな性格を知る身としては、納得がいく。だが、確かにそんな気まぐれで、産道に長いこと居座られ続けたらたまらない。僕には産道はないから、想像出来ても、「肛門まで下りてきながらもなかなか出てこないうんこ」程度のことだが、それでもやはり、やり切れないのは理解出来る。
    「ここまで来といて、何故出ない?」
     ようやく生まれ落ちた瞬間から、姉は激怒していた。
     赤ん坊の泣き声というよりは、母猫が怒ったときに発するような叫び声をあげ、看護師に一発蹴りを食らわせたというのだから、さすがである。そのおかげで看護師は、舌の先端を、ほんの少しだけ、み切ってしまった。み切られた舌は、姉と共に零れ落ちた体液や血にまみれ、二度と見つからなかった。
     姉は、長らく産道に留まっていたせいで青黒い肌をし、頭も蚕豆のような形になっていた。その姿で怒りの雄たけびをあげ、看護師の顎を蹴り上げる娘を見た母の第一声は、
    「もっと可愛くなるやんな?」
     感動的な対面、というわけには、いかなかったようだ。姉はきっと、その言葉にも、激怒したに違いない。
     そんな経験からか、母はこだわっていた自然な分にあっさり別れを告げ、僕を妊娠したときは、麻酔上等、帝王切開も辞さない、という態度になっていた。
    「母親って、お腹を痛めて産んだ子を愛するって言うけど、私はそうじゃないと思うわ。お腹を痛めれば痛めるほど、苦しめば苦しむほど、その痛みや苦しみを、子供で取り返そうとすんのよ。分かる あんたはいいわよ、麻酔してなーんにも分からない間に、するっと生まれてたんだから、何も取り戻す必要ないの。ほらあんたって、全然期待されてないじゃない でも私は、覚えてないから迷惑な話だけど、だいぶあの人を苦しめたわけでしょ、だからあの人は、私から何か取り戻したいのよ。あんなに苦しんだんだから、せめて可愛い子であってほしい、とか、優秀であってほしい、とか。ご希望に添えなくて、申し訳ないけどね。」
     姉が母のことを話すときは、ずっとこんな風だった。
     小さな頃、姉は母のことを、「ママ」と呼んでいたはずだった。だが、長じてからは、僕には「あの人」、本人に話しかけるときは、「あの」とか、「ねぇ」とか、とにかく、決して「お母さん」に類する呼び名では、呼ばなかった。
     姉のオリジナリティが発揮されるのは、呼び方だけではなかった。
     僕ら家族は、長らく大阪に住んでいた。家族内で会話をするときは、皆自然に関西弁を使っていた。だが、姉だけは、前述のように標準語を話し、関西弁になるのを、頑なに拒んだ。関西弁が嫌いなわけではない。標準語が飛び交う日本人学校では、僕たちも使わないようなオールドスタイルな関西弁で話したし、日本に帰国後は、なんと英語を交えた日本語を話すという暴挙に出た。
     とにかく姉は、その場所で一番のマイノリティであることに、全力を注いでいた。それはきっと、姉の「かまってほしい」という気持ちの表れであり、それを遡れば、生まれる瞬間から母親にがっかりされていた、という過去にいきつくのかもしれなかった。だが、人間の性格や言動を、すべて過去の出来事とつなげてしまうカウンセリング的な考えは、僕は好きではない。姉はきっと、愛され慈しまれながら生まれてきても、きっと姉だったのだ。


    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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