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【第153回 芥川賞 候補作】『朝顔の日』高橋弘希
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【第153回 芥川賞 候補作】『朝顔の日』高橋弘希

2015-07-02 13:59
         一

     風車を持った女児が、すぐ傍を通り過ぎていった。
     女児が持っていたのは、赤い風車だった。二枚の折り紙を重ね合わせて作った、八枚羽根の花風車。通りに風はなかったが、女児が歩くから、その歩みに合わせて風車も廻った。青空の下に廻っていた。赤い羽根の立てる音は、足音よりもくっきりと響く。凜太(りんた)は前を向いて、再び石畳の歩道を歩き始めるが、網膜には未だ青空の花風車が残っていて、少しばかり胸が疼く。自分の胸に棲んでいるあの糸屑が、また悪戯をしている。心神にも影響を及ぼすという、透明な糸屑。
     十二月も半ばを過ぎていたが、尾根から午前中の眩い陽光が射し、街道には春の長閑さがあった。その百米ほどの平坦な街道には、民家や煙草屋や文具店が建ち並んでいる。途中、背の高い一本の唐松がある。その唐松のものだろう松笠が、ときに路傍に転がっている。忘れられたように転がっている。彼は意味もなくその一つを拾い上げて、袂に納めた。
     見慣れた風景だったが、その道を歩いてみるのは初めてのことだった。凜太はいつも、バスの車窓からその風景を眺めていた。流れていくはずの風景の中を、その日は歩いていた。何かに引き止められるようにして、彼は目的地より二つ手前の停留所でバスを降りた。或いは、誰かに引き止められるようにして。今はもういない人々の姿を思い描いたが、しかしそうした人々が、彼を引き止める理由はなかった。
     高台へと続く坂の麓には、一軒の民芸店があった。そこに店があることを初めて知った。藍染の暖簾の下には、花瓶敷や、扇子入れや、がま口財布などが並んでいる。再び足を進めようとしたとき、また胸が疼いた。迷ったが、結局はその店で土産を買った。二つも買った。暇そうに店番をしていた老婆は、頼みもしないのに紙箱へ朱色の飾り紐を巻き、蝶々結びを作った。
     民芸店を出ると、次のバスが凜太を追い越していった。終着駅へ向かうバス。バスの行き着く高台には、銀杏並木がある。あの銀杏の梢では、よく椋鳥が鳴いていた。その囀りが、ふいと耳元で聞こえたような気がする。銀杏並木の向こうには、幾棟かの木造病舎が続き、その先にはもう空しか見えない。
     これは唯の菌です。医師はいつか云った。学校や会社、工場や銀行、電車にバスに映画館、何処にでもいる、唯の菌です。私の中にもいる、旦那さんの中にもいる、顕微鏡でしか見えない程の、小さな、唯の菌です。
     行李を持ち直すと、彼は高台へと続くその坂をゆっくりと登り始めた。
         *

    「そこで手を消毒してから入って下さいな。」
     それはまだ秋分の頃だった。受付の女が小窓から顔を出して云う。十秒は両手を浸してから、ブラシで擦って下さいな。長廊下の左手にタイル貼りの水飲場があり、そこに大きな金盥が置いてある。希釈したリゾール液が入っているという。その金盥へ両手を浸す。冷たい水だった。如何にも病院らしい、薬品よりも薬品らしい、リゾールの臭気が鼻を突く。その臭いを感じながら、頭の中で数字を数えた。窓から入る午前中の陽光が、金盥の水面を七色にちらつかせている。僅かに泡立つ冷たい消毒液の中で、何か自分の指は伸びたり縮んだりしているかに見えた。両手を金盥から上げ、ブラシで擦って、蛇口の水で濯ぐ。手首から下だけが薄らと赤らんだ。
    「帰りも同じように消毒してから出ていって下さいな。」
     廊下の奥の暗がりから、ゴム草履の音を響かせて、一人の男が歩いてきた。板張りの長廊下には、日向と日陰が交互に落ちている。或とき、男の横顔に眩い陽光が射す。四十半ば程の、丸眼鏡を掛けた、小太りで背の低い医師だった。白髪を坊主頭にして、髭にも白いものが混じっている。首から金色の聴診器を提げ、両手を診察着のポケットへ入れ、水飲場へと近づいてきた。
    「奥様の病室は、三階になりますな。」
     床板を軋ませながら、医師に続いて廊下を奥へと進んだ。処置室やレ線室や臨検室を過ぎると、左右には入院患者の病室が続いた。幾人もの患者が、寝台で横になっている。どの病室も窓が開放してあり、患者は着物を何枚も着込んでいる。或患者は、厚手の襟巻を顔にまでぐるぐると巻き、また或患者は、毛糸の手袋をした両手に喀痰コップを握り締めていた。秋の肌寒い日であったが、廊下の端にはときに扇風機が置いてある。ぎしりぎしり首を振って風を送り出している。着物の裾から入り込む冷風が、ときに凜太の足首から膝頭までのぼってくる。廊下の角を折れ、薄暗い階段を上る。踊り場にだけ、格子窓から射す陽光が降り注いでいる。その陽光の踊り場で、医師は振り向いて、――しかし未だにこの病を、チブスやコレラといった伝染病と一緒くたに捉える人が多いものですから、甚だ困ったものです。全く、明治時代の考え方ですな。再び板を低く軋ませ、彼と医師は階段を上っていく。二階の踊り場に達すると、医師は同じように振り向いて、――ここはラザレットやら修道院やらとは違います。瀉血(しゃけつ)なんてものに、医学的根拠はございません。
     医務室の木戸がギィと鳴り、医師に続いて室内へ入る。丸椅子に腰掛けると、リゾールの臭気は湿度を持ち始めたかの気がした。その臭気は次第に自分の皮膚へ染み始めている。医務机の上には、黒電話、顕微鏡、膿盆、水銀血圧計、ゴムチュウブといったものが雑然と置かれている。その竹中という医師は、ときに丸眼鏡を中指で持ち上げながら、妻の診察録へ目を通していく。漆喰の壁に“ガフキー氏表”という褪せた貼紙がある。顕微鏡内に映る細菌の数に、等級を付けて評価する表だった。ガフキー氏表の下にはアルミ台車があり、そこには何か妙な物が並んでいた。十数本の細長い硝子管が一列に並び、金属撥条(バネ)で木板に固定されている。硝子管の中では赤黒い血液と、黄色い溶液が分離して層になっていた。彼はふと、硝子管のラベルの一つに、妻の名前を見つける。竹中医師は、彼が硝子管を見つめていることに気づくと、
    「赤沈(せきちん)を測ってましてな。」
     患者の血液と薬液を混ぜたものを硝子管に入れ、赤血球の沈降する速さを測定しているのだという。妻の診察録を捲りながら、先週の赤沈が四十粍(ミリ)、今週の赤沈が三十粍、僅かに好い、というところですな。医師はハトロン封筒からレ線フィルムを取り出し、写真投光器(シャウカステン)へ並べる。白い投光に、妻の臓器が映される。医師は指棒で写真を指し、この長い影は横隔膜、この一塊の影は心臓、横線の影は肋骨、この辺の薄い影は気管やら気管支と、説明を加えていく。心臓が左に寄っているので、左肺はやや窪んで映っていた。窪みのある、小振りな、一寸愛嬌を覚えるような妻の左肺。その左肺の下葉と呼ばれる部分に、医師の説明から洩れた幾つかの黒い点があった。医師は最後にその黒い点を指すと、
    「これがカヴエルネというやつですな。」
     

    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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