「大好きだからね…」

 涙を浮かべた彼女が僕に力なく微笑みかける。その笑顔は儚くて、悲しくて、思わず手を伸ばしても…背を向けて歩いて行ってしまう。

「待ってくれよ!」

 必死の叫びが届くことはない。彼女は振り向きもせず、行ってしまう__


「夢、か…」

 はぁ。はぁ。僕は飛び起きた。汗でパジャマがぐっしょりと濡れている。

 カーテンから朝の陽の光が差し込んでいた。また、朝が来た。何度目の朝だろう。そして、こうやって彼女の嫌な夢で起こされるのも。

 散らかった部屋には足の踏み場もない。片付ける理由もなくなってしまったからだ。

 

 彼女がいなくなった。


「…来てるわけ、ないよな」

 淡い期待は見事に打ち砕かれた。携帯を確認しても、彼女からの連絡はやっぱりない。絵文字で目がチカチカするような連絡が今となってはとても恋しかった。

 そのままベッドの上で僕は布団にくるまり続ける。このまま眠ってしまって、朝が来なければいい。生まれて初めて味わう喪失感に呑み込まれてしまいそうだった。

 彼女の体調が悪くなるにつれ、会う頻度や連絡は減っていく。ただ、そんな中でも彼女とつながっていられることは唯一縋れる確かなものだった。だった、筈なのに。脳裏に焼き付いているのは最高の彼女の笑顔で、いくら思い返しても楽しい思い出しか出てこない。

 部屋が片付けられない理由はまだある。彼女を感じられる思い出がもうここにしかないからだ。一緒に遊んだゲームも、一緒に読んだ漫画も、部屋を片付けたら彼女が完全にいなくなってしまうような気がしていたのだ。懐かしくなって漫画本を手にとると、ふと見慣れない便箋が挟まっていることに気が付いた。

「…何だろう?」

 はっとした。彼女の字だった。

 鼓動が大きく鳴るのを感じながら、恐る恐る読み進める。


”この手紙を読む頃には、きっと私はもう君のところからいなくなっているかもしれません。

 突然いなくなってしまって、本当にごめんね。

 きっと覚えてなんてないだろうけど…いつか、カブトムシを助けたよね?

 信じられないと思うけど、実は私あの時のカブトムシだったの。助けてもらって、君のことを好きになっちゃったんだ。そこでね、人間になりたいって強く思ってたら…何かの力が働いたのか、人間の女の子になることができたの。信じられない? 信じられないよね…だって、私もだもん。

 君と一緒に過ごせた時間は本当に楽しかった。君が本当に私のこと好きになってくれて、嘘みたいに幸せだったよ。

 君を一人にしてしまうの、本当に心配だった。だって、私が来ないとお部屋も片付けないし、どこにも出かけないでしょ?笑

 いつも無理やり私が連れ出すと、しょうがねぇななんて言いながらもやっぱり思いっきり楽しんでくれるところ、好きだった。…それだけじゃないよ。好きなところなんて、数えきれないぐらいたくさんあった。人を好きになるって、きっとどんなところでも愛しく思えちゃうってことなんだろうね。

 私のことなんて早く忘れてください、って言いたいけど、そんなに大人じゃないから言えないや。だから、私のこと忘れないでね。いつか君に好きな人ができるまでは、まだずっと一番でいたいから…ワガママでごめんね。楽しい毎日を、本当にありがとう…”


 まさか。まさか、とは思いながらも、確かめずにはいられなかった。

 本棚から昆虫図鑑を引っ張り出す。小さい頃によく見たその重たい図鑑の中に__

「あ、あった…」

 カブトムシ。Trypoxylus dichotomus septentrionalis Kono…見慣れない英文字が並ぶのを、指でなぞりながら確かめていく。寿命は、一カ月から二か月。そして、何やら細い木の棒が挟まっていた。

「これは…?」

 スイカバーの棒だ。彼女が大好きだった、スイカバー。まじまじと見ていると、棒に文字が書いてあることに気づく。

「だ、い、す、き、だ、よ…」

 頬を伝う涙を感じながら、僕はへなへなと座り込んだ。秋の風がすっと涙の熱を奪っていく。残暑の残り香が恋しい。夏の終わりと恋の終わり。何度も何度も彼女の拙い文字を見返しながら、ただただ既に気配を消しつつある夏の余韻に浸っていた。