なしさん のコメント
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私達日本人のほとんどが 、 枕草子 を随筆の最高傑作の一つと習い、目に触れてきている。
枕草子の第一段は 「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」で始まる。冬については「冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。 昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃 ( すびつ ) ・火桶の火も、白き灰がちになりぬるはわろし」とある。
確かに、あけぼの詩情を呼び起こす。芭蕉の「曙や白魚白きこと一寸」や一茶の「曙の空色衣かへにけり」等がある。こうしたあけぼのについての他者の描写と、、枕草子とを比較してみると、曙の描写では。清少納言は群を抜いて素晴らしいことが解る。
それにしても何故「春はあけぼの」になるのか。春にはもっと代表的とされるものがある。
ブログに「蕪村俳句の
漢字語が少なく和語が多いのは美意識による選択の
結果というよりは当時の日本語がそのようなものだったのです。
現在日本語を支配している漢熟語が大量に作られ日本語に
ぶち込まれ、それなくしては身動きのできない言語に
日本語をしてしまったのは明治に入ってからです。
その結果日本語には大量の同音異義語が生まれ、漢字の
知識が十分でないと日本語のちゃんとした使い手ではないという
悲しい言語になってしまいました。
中国自身ができるものならやめたいと考えている「悪魔の文字」
漢字に日本語がとらえられ身動きできなッたのは明治時代という
つい昨日のことです。
韓国はもっとひどいですよ。
日本語のヤマ(山)だとかカンガエルなどの基本的語彙すら漢字語
にとってかわられています。
こんな言語に学ぶ価値があるのかと思ったものです。
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