見上げた濁天の奥で、幾重もの啼声が折り重なるように響いた。
美しい声だった。だがそれは、危機の接近を否応なく感じさせるものでもあった。
陣の位置を知らせるためか、フーマァもまた応じて声を張る。澄んだ響きではあったが、連続して震え鳴るその高音はどうやら魔力をも伴っているらしく、エルフの血を引く私の耳と鼓膜に優しいものではなかった。誰にも気付かれぬよう、思わず目を細める。
やにわに、曇天の一角が膨らんだように見えた。
次の瞬間、幾つもの影が雲を突き抜けて陣の上空へとなだれ込んでくる。ハーピィたちだ。乱れた隊列のまま、ある者は翼を大きく打ち、ある者は高度を失いかけながら、それでも落ちまいと必死に風を掴んでいる。何かに追われているのは明らかだった。
だが、その背後にあるはずのものが見えない。
見えない、というのも正確ではない。そこには確かに、『何か』がいた。
空が、ごく僅かに歪んでいる。そう表現するのが最も近いのかもしれない。
輪郭と呼べるほどのものはない。ただ、背後に広がる曇天と流れる雲の筋が、その一点に差しかかるたび僅かに歪み、押し曲げられ、そこだけが空ではない『何か』に占められているのだと分かる。大きさで言えばおそらくそれは、重装備の戦車馬ほど。もっとも、姿の見えぬものを目で量ったところで、当て推量に過ぎないのだが。目では捉えきれず、それでも気配だけは確かにある。そんな異様な『何か』が、ハーピィたちの背後に張り付くように迫っていた。
陣の真上へ差し掛かったところで、一羽が鋭く鳴いた。
その声を合図に、ハーピィたちは一斉に両翼を畳み、垂直に降下を始める。次の瞬間、翼を爆発的に広げて大気を叩き、捉えた風に乗った。さらにその風を、紫電を散らしながら回転する透き通った円刃へと変化させる。
幾つもの円刃が、空を滑るようにして上空の『何か』に放たれる。
その一つは、歪んだ空間に弾かれた。
一つは、陶器のような音を立てて砕け、空気の揺らぎを一瞬だけ露わにする。
また一つは、見えぬ『何か』に軌道を逸らされ、雲の中へと吸い込まれた。
残る幾つかも、空を裂くだけで決定打にはならない。
それでも、そこに間違いなく『何か』がいることだけは分かった。
その直後だった。
破裂にも似た音が、空のどこかで弾けた。
空気の歪みが大きくぶれ、かと思えば、それが一気に落下してくる。そう認識した時にはすでに遅く、なお迎撃の態勢にあったハーピィたちへ『何か』が喰らい付くように迫っていた。ある者は慌てて翼を返し、ある者は大きく旋回し辛うじて躱す。だがそのうちの一羽が、真正面から衝撃を受けた。
肺の空気を強制的に搾り取られたような、短く掠れた悲鳴。
翼の角度を失ったその一羽が、力なく落下を始める。
私は咄嗟に地を踏みしめ、蹴り出していた。
その背後で、蹴爪が地を掻く音。
それ以外には、相変わらず吹き荒れる横風しか聞こえなかった。
落下の軌道を読む。
遠くはない。
十分間に合う距離。
乱れた羽ばたきと啼声が頭上で交錯する。
地面へ激突する瞬間、ハーピィは半ば反射で両翼を開いた。深い藍色の羽が、乱れた角度のまま風を噛み、どうにか墜落を免れようとする。だがそれは着地と呼ぶには程遠く、落下の被害を少しでも減らそうというだけの、最後の抵抗に過ぎない。いずれにしろそのまま落ち切れば、危ういことに変わりはなかった。もっとも、そこに私がいなければの話だが。
私は、ハーピィが広げた翼ごと、包み込むように抱き留める。
いくらかが舞い落ちる、藍色の羽根。髪もまた同じく藍に沈み、短く無造作に乱れた前髪、その奥に覗く目は人間と変わらず、白の中央に深い藍が落ちている。フーマァとは印象がだいぶ違って見えた。私を見上げながら、瞼代わりの瞬膜をせわしなく行き来させたハーピィは、ややあって歯牙を剝き出しに私を強く睨み返すと、満足に力も籠められないくせに腕の中で暴れ出した。助けなど求めていない、とでも言いたげな顔をしていることは理解できるが、放っておいて良い状態でもない。
腕の中でなお続く小さな抵抗が、いささか面倒に傾き始めた時だった。
ハーピィが身体を強張らせ、視線を上空へと跳ね上げる。
釣られて私も顔を上げた。
『何か』が、来る。
形は見えない。だが、空気の押し出される気配と、曇天の色がわずかに歪む一点だけで判断はつく。このままでは直撃を許してしまうだろう。
私は、抱えたハーピィの身体を翼ごと抱き直し、尾羽の内側へ右手を差し入れる。触れた感触から察するに、少なくとも腰まわりの構造は人間とさほど変わらないらしい。腕の中でハーピィが短く息を呑み、尾羽の奥をびくりと震わせた。そのまま身体を捻り、翼を傷めぬよう後方へと投げ逃がす。その軽さも相まって、ずいぶん素直に飛んでくれた。
放られたハーピィを、後方のフーマァが薄灰色の両翼で受け止める。その衝撃を受け流すようにして後退し、それが済むと、フーマァは私ではなくその上空を見据えていた。私よりも彼女の方が『何か』を捉える力に長けているなら、いま少しの猶予はありそうだ。
「フーマァ殿、回復魔法の心得は?」
「嗜む程度デ」
そのやり取りだけでも、ハーピィを手当てしてくれという意図は伝わるだろう。
羽根の擦れる気配が遠のいていく。私は空へ向き直った。