
選手やレフェリーとして活躍した芹澤健市インタビュー。和術慧舟會とは何だったのか?(聞き手/ジャン斉藤)
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――芹澤さんは波乱万丈な格闘技人生を送っているので、聞きたいことがたくさんあります。
芹澤 まあ端から見たら波乱万丈みたいです(笑)。そういう武勇伝で残したくて、わざわざ飛び込んでいる部分もあるので、格闘技の世界に浸かってからは一般社会人にはない強烈な体験や楽しさが30年近くたったいまでも続いてますね。人生ヒマ潰しのネタづくりです。
――いまはタイでジムをやられてますけど、どのへんにあるんですか?
芹澤 いまはプラカノンという都会と田舎の境界線みたいなところに移転したんですが、以前は違う場所にあって。問題山積みのまま譲渡されて唐突にタイ移住を決めました。もうノリでやってますね。「人生、迷ったらGO!」です。言語も喋れないので雰囲気で乗り切ってます。
――雰囲気でやれるもんなんですね(笑)。芹澤さんが格闘技デビューされたのは 2001年のことですが、30歳と遅めですよね。格闘技をやろうと思ったきっかけはなんだったんですか?
芹澤 もともと気性は荒かったので小さい頃から金曜日ゴールデンタイムの沢村忠のキックボクシングや、そのあとの『ワールドプロレスリング』を見てました。格闘技のきっかけはケンカに強くなる、です。……そしてケンカをUFCで目の当たりにしてですね、「これ、オレもいけるんじゃないか」と。
――ケンカは強かったんですか?
芹澤 ケンカはボチボチしてましたね。でも不良ってわけでもなくて、世代的に『タイガーマスク』世代。小さい頃は漫画の『あしたのジョー』や『空手バカ一代』を読んでましたね。
――要は梶原一騎イズムを注入されていたと。高校時代はボクシングとレスリングをやってたんですよね?
芹澤 そうですね。ボクが通っていた高校は沼津学園は、いま飛龍高校という名前に変わってるんですけど。ボクの時代はスポーツ名門校だけど、その裏側はド不良校。静岡ではダントツで悪い高校だったんですよね。
――そんな高校に通っていたから、普段から緊張感のある生活を送っていたと。
芹澤 はい。弱肉強食の世界でした。毎日のようにケンカを目の当たりにしたから、慣れたというか、感覚が麻痺してました。
――レスリング部とボクシング部がある学校ですし……。
芹澤 当時ボクシング部がある静岡の高校は少なくて、勝てば静岡代表にはなれる感じでした。全国でも有名校でしたね。入ってすぐに「オマエ、センスがあるじゃねえか」ってことでインターハイ候補になったんですけど、まあなんせ練習はキツイし、毎日練習後にはヤキです。
――ヤキはありがちですね。
芹澤 遊びたいこともあって逃げました。「学校もやめようか」みたいな感じだったんですけど。ボクが2年になってからレスリング部ができたんですよ。「腕っ節ならレスリング」「プロレスができる」みたいな勘違いで入部して。
――レスリングのプロがプロレスみたいな勘違いって昔はありましたね。
芹澤 で、入ったのはいいけど、ボクシングより練習がきつかった(笑)。レスリングの練習はホントにヤバくて。ボクは片親で貧乏だったんで、母親に「また逃げた」は顔向けできんと瀕死の思いで卒業までレスリング部を続けて。恩師の井村陽三先生に「オマエ、ちょっと行ってこいや」みたいに言われて、卒業後は子供のレスリングのコーチを10年間やりました。社会人のレスリングの試合に出たり、極真空手をやったりとか。
――格闘技には携わっていたんですね。
芹澤 それでたしか22~23歳ぐらいのときに冒頭で話した初期UFCを見て。ボクシング、空手、柔道の奴が出てきて、異種格闘技そのものだったじゃないですか。オレは空手、ボクシング、レスリングやってるし、「いけんじゃん」って。
――その当時の静岡に総合格闘技のジムはなかったですよね。
芹澤 カケラもないです。中途半端な田舎だし、ボクは25、26歳までまともに東京に行ったことがありませんでした。格闘技関連で初めて東京に行ったのは、『格闘技通信』を読んでいたら和術慧舟會のアマチュアがあると。タイガーマスクが好きだったから修斗のアマチュアに出たかったんですけど、そっちは締め切りに間に合わなくて。「じゃあ、和術ナントカ会でいいや!」と。それがきっかけで慧舟會に入ったんです。
――慧舟會に入るまでは、沼津で独学でやられてたってことなんですか?
芹澤 少年レスリングのコーチをしながら空き時間に「総合格闘技ごっこ」をしてましたね。組技中心でレスリングやって関節を取ってみたいな。
――当時はUWF系の団体も人気があったじゃないですか。
芹澤 大好きでした。
――でも、その実態はプロレスだったりしたわけですけど。自分でも実際にやってみて「……あれ?」と戸惑うことはなかったですか?
芹澤 あの当時はもう夢中になっちゃってるから、「ロープに飛ばない」というだけで腑に落ちちゃって。UWFの蹴り、関節、投げを真似してやってましたね。
――教材がUWFだったわけですね。当時の修斗は試合映像も出回ってなかったですし。
芹澤 そうなんです。当時の情報って雑誌しかないじゃないですか、『格闘技通信』一択でした。

――和術慧舟會のアマチュアに出たことでスカウトされたわけですけど、すぐに上京されたんですか?
芹澤 当時、沼津から出れなかったので勝手に沼津支部を作らされてました(笑)。
――誘ったのは和術慧舟會・東京本部を運営されていた久保(豊)社長ですね?
芹澤 そうです。久保社長とは年齢が一番近かったのもあり、いろいろと見てきました。
――2000年代格闘技界の重要人物ですよね、久保さんは。
芹澤 久保さんは格闘技界の起爆剤になってるじゃないですか、良くも悪くも……。
――良くも悪くもなんですか?(笑)。
芹澤 久保社長のおかげでチャンスをもらった選手はいっぱいいますし、それはオレもそうだし。でも、久保社長はメチャクチャも私的には慣れてたので(苦笑)。
――ザ・昭和って感じですよね(笑)。
芹澤 久保社長はキツイですけど、これも私的に腑に落ちる人でした。ボクが慧舟會に入ったのは29、30歳だったから、世代的なとこですかね? 当時の慧舟會って大人はボクくらいで、あとは20歳そこそこの若い人がいっぱいいて。光岡(映二)、漆谷(康宏)、星野(勇二)とか。
――芹澤さんだけは世代が違って、社会経験があったわけですね。
芹澤 そういうことですね。私生活や仕事もイヤになっちゃって「もっと格闘技をやりたいな」と。そうしたら久保さんから「道場に泊まれるぞ」と。
――それは道場で住まいにしていいと?
芹澤 そうです。
――もう30歳間近なのにムチャしますね(笑)。
芹澤 ですよね(笑)。そこは自分の夢の思いが強かったんですよね。
――当時は東京でもMMAのジムはなかったですし。和術慧舟會はその時点で道場はいくつかあったわけですね。
芹澤 ボクは最初RJW(和術慧舟會・東京本部系列ジム)に住み始めるも、すぐにジムの代表だった阿部裕幸さんが「オレ、やめるからさ」と。RJWの代表3代目は俺なんですけど、2代目がレスリングエリートの柴田(寛)って奴になったんです。そいつは打撃も何もできないけど、フィジカルとレスリングだけでパンクラスに出たりして。
――慧舟會は初期から離脱する人が多かったですよね。小路晃さんとか。
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