蒼井そらは、今こそAV女優を再開すべきだ。あれだけクソフェミとか笑、ガキみたいな言われ方をされるまで嫌われたフェミニズムが「夜職」(これも酷い言葉!)に関する全性別、全主義の人々に知らず採用されちゃって、そこに、そこそこみんなが気をつけていたミソジニーに問題も、もう決壊してグッダグダに入ってきてしまい(まあ、ファースト・サマー・オヴ・リベラルと今の違いは「デリカシーなんてない」という事、あるいは「デリカシーなんか気にしてる暇はないほど状況が苛烈」ということで、デリカシーを気にする人はもう、黙って仕事をして、得られるインカムをかき集め、可能な限り好きな暮らしをしているしかない。比較的簡単にできますよ。僕は大衆の神経を逆撫でにするのが「好きに生きる」に包含されるんで、発言するけど、あれカットすれば似たようなもんだ)、とにかくAV女優なんて悪魔の仕事ぐらいに平然と言われるようになっちゃったんで、蒼井そらの(いじめられた)子供が可哀想とか、もうそういうのは一切どうでもいいのだが(学童による虐めという問題系がどうでも良い、というわけではない。むしろ一番どうでも良くない。文科省は、ダンスなんていう遊びを体育の授業に取り入れている暇があったら、バルネラ持ちの子だけ別室に隔離し、防衛過剰で捕まるギリギリまでの「手ぬるくない」セルフディフェンスの授業を、隔離して行う方がはるかに良い)蒼井の、結構正直でストレート、かつ知的なポストを読むと、そこに満ち満ちているのは、差別に傷ついて嘆くとか、そっちではなくて、「え?え?20年前は、別に尊敬もされてなかったけど、無茶苦茶普通に扱われてたよAVギャルという仕事。違法行為してないし。なんであっという間に差別対象になったの?いやー。気が付いてなかったよ」という、一種の不条理感が満ち満ちていて、非常に好感が持てる。
ビュロ菊だより
「菊地成孔のアンダーグラウンドX (26/10/27=No.67)」
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10年かそれ以上前に、ボーズさんがあやまんさんと子供と一緒に、逗子の海が目の前にある良い感じのハンバーガーショップのテラス席で気の合う友人達と集う、というテレビを見たことがあります。転向の入口にありそうな記号で満ちているなーという印象でした。
菊地成孔(著者)
>>1
転向者の心理というのは、想像するに99%「いや、天候なんかしてる気はない。自然とそうなった」というもんだと思うんですよ。そこが怖いよね笑。発達学とかとも関係しますが、「自然な成長 / 変化なのか、不自然な転向か?」というのは。いっそのこと転向者の全員が心の中で「やっちまおう。その方が楽で儲かる」とか思っててくれれば、それ単に「悪いこと」なんで、評価は簡単というかねえ。
妻、子供、友人と一緒に逗子のビーチサイドハンバーショップに行ったら、ほとんどの人が自然にハートウォームするはずで、そういうことは絶対にしないし出来ない僕でさえ「ああ、素敵だなあ」とは思いますから、あとは、誰がどうやって儲けるかだけでしょうね。家庭なんちゅうもんは笑。
僕に「つるみませんか?(一緒に毒舌時代に戻りませんか?)」とお誘いが来たのは、なんか消防士の曲?みたいなの出して、「やっぱセンスやばいなあスチャは」と思わせてからもだいぶ経ってるんですよね。僕が地上波のニュース番組のレギュラーコメンテーターになったら(ガチで)殺して良いです笑。
スウェーデン出身の Freak Kitchen というバンドに『Porno Daddy』(2002)という曲があります。「皆は彼をポルノ・ダディと呼ぶ/そして私は不可視の子供だ/息子はどうするんだ? 気にかけないのか?/娘はどうだ? 気にかけないのか?/父よ、おお父よ/これで最後だ」という歌詞で、曲の出来が良いので聴けてしまうのですが、これが『Porno Mammy』でなかったのは何故だろう、男性だけのバンドからすると普通に興奮してしまうからなのかな? そもそも『Porno Daddy』の歌詞でさえ、被差別的な身分の「恥ずかしさ」をその子どもに代弁させていることになるから、セックスワーカーの家庭に対してかなり抑圧的な作品ではないか、おいリベラルで寛容な装いのスウェーデン人よ? みたいな議論に一切発展しないのは、ヘヴィメタルのファンダムが良くも悪くも(僅差で良いほうが勝つ)政治について語ることがほぼ不可能なトライブだからだと思います。
菊地さんが昨晩言及しておられたMGAの曲のビデオについては、楽曲そのものよりもビデオの内容について語る、というか楽曲とビデオを切り離して後者のみを批評の対象にするという手続きを疑問無しに踏んでいる連中が大勢おり、これは菊地さんも書いておられたとおり「原理を失っているということだ」と思います。
2001年9月11日以降の英語圏ミュージシャンたちのMVで「大切な人がいきなりいなくなってしまうことの切なさ」みたいなのを現在の政治状況がらみで表現したものは沢山ありましたが、それでも動画情報のみを単体で取り出して良い悪いと言いたがる風潮は全くありませんでした。現在のそれは動画と音声が同居した作品を前にして2要素を無意識に分離し・前者のみの出来について侃侃諤諤するということで、そこに俳優(とくに声優)の演技については語れるけどレイヤーで構成された音源作品については無感覚になるX政治専の傾向も加わり、評者側の部分的無感覚と他部分の過出力=ヒステリーによって、「動画自体の出来は良いのに中で流れてる音楽の出来が最悪」とか「ひっどい映画なのにどうして劇伴の出来だけこんな良いんだよ」とか複合的な評価をせざるを得ない特質を備えた作品群を前にしても、ただ動画情報のみの注視によって出力された評価を貼り付けることしかできない。という例が常態的に起こっているのだと思います。
『シンデレラ』についての記事はその典型で、そもそも植民事業者&奴隷商人のコロンブスのモチーフをマンガ的に取り入れてしまった件と今回の『シンデレラ』は質的に全く別だろ(笑) ということすら判らなくなってしまった書き手が、「そもそもミセスには社会的事象を扱う際の悪いクセがあって」みたいな短絡でなんとか接続しようとしてたのがイタすぎました。その両作の批評に際して、ビデオが付けられる前の音楽作品の出来についてはまったく触れられていないのも、先述したヒステリーの在処を如実に示していると思います。
(現在のネット上の音楽讃テキストでは「楽曲構造はともかく歌詞は間違いなくすごいように思われるのでそれについて書く」というものが主流ですが、件の記事に関しては歌詞の引用すら無く、この極端さは明らかに新しい事例だと思わされました。もちろん、掲載社側から「歌詞を引用すると権利侵害云々言われるから一切無しでやってくれ」と事前に達されていたのかもしれませんが。しかし「テレビでも時々やってた音楽理論?による分析?の意味が全然わからなかったから、そういうことができる人たちのことは尊敬するけども、私はやっぱり自分に刺さった歌詞についてだけ語ろ」という一般的にありうる学理無しの音楽受容が現在あるようなヒステリーへと直接的に進展したのか、それともこれほど極端な動画/音声の分離知覚はさすがに特異な新種なのか、どちらと見るかは分けるべきなのかもしれません。私は後者の見方です。)
斉藤和義さんが2011年3月11年以前に『歩いて帰ろう』で予見していたように、今や「右も左も同じ顔」になっていますし、菊地さんが「『ずっとウソだったんだぜ』を出しても一番大きいダメージが及ぶのは原曲でタイアップしてた美容企業だけだよ。それよりも『歩いて帰ろう』をそのまま演ったら?」と当時に書いておられたあの内容は、政治が音楽を圧しているかのような現在の状況に対する早すぎの先例アンサーだったと思うのですが、右も左も音楽を政治的に語りたがるこの状況でかつて菊地さんが『歩いて帰ろう』に寄せたテキストを思い出したがる人間は誰もいない(AZ-MANの番組で「音楽(家)の時間感覚」について話が及んだ後でさえそのような質問は出なかった)というのが、ヒステリーによって音楽と政治の本当の連関について捉え損なっている事実を証していると思います。
(斉藤さんの音源を検索したら2023年のライヴで『歩いて帰ろう』を演っており、さすがに12年を経過して自然に抑圧が解けたのだと思いますが、『ずっとウソだったんだぜ』の件は、大震災と原発事故という特殊な事態が過去の音源の世界にあらかじめ包摂されている──『3月の水』も同様──という、オカルトでもスピでもない音楽の営為として当然の時間感覚に基づく力の作用例を、「いやそんなんじゃない、ちょっと前に出した曲の歌詞を変えて東電の欺瞞を暴くべきだ」というふうに抑圧してしまうことで、結果的に音楽の力の奉仕者として弱い結果を招いてしまう。という禁圧の例として解釈されるべきで、『歩いて帰ろう』の「早さ」に堪えられなかった斉藤さんの状態を、90年代末にDCPRGを企画していた「早い」音楽家こと菊地さんは正確に捉えていた。というのは、率直にいって美しいことだったと思います。)
無理矢理話をまとめますと、蒼井そらとミセスグリーンアップルの色はそれぞれブルーとグリーンだが、日本語には「青いりんご」という表現があり、それは「ケツの青いガキ」などの表現とも連結しているので、「青」なのに実際はグリーンという事態が成立する。見ている情報をそのまま信じ込んではいけないし、腐れイングランドの「緑の党」に期待するのはもっといけない。ラベルと実質との相違をこそ見なくてはいけないのだ。ということでしょうか(笑) 実際、音楽理論の勉強は「音は同じなのに違う名前がふたつ(以上)ついている」という事態への適応を求められるため、あらゆるアンビバレンスへの抗体が形成されやすいと思っています。
菊地成孔(著者)
>>3
Freak Kitchenは、数少ない「僕でも知っている北欧プログレ・メタル」のバンドの一つですが、言葉の使い方が高級?というか、引用や駄洒落が多いように感じます。「ポルノダディ」が「ポルノマミー」にならない理由は、ひょっとすると、ですが、何か英語の洒落とかかけ事ぼという由来があるか、やはりポルノマミーはメンバーも観客も催させ過ぎるからかな?と思います。それこそ、歌詞やタイトルにインターテクスチャリティが「ありそう」に思え、リズムの作り方に「趣味よくかつ緻密に」割変えがあったりして、何か、企まざるして知的。という感じですね。絶対関係ないと思いますが「フランク・チキンズ」からバンド名がとられているような感覚もあり。
「シンデレラ」批判は、<ちょっともう笑えないわ>ギリの物件というか、政治専だったら当然であろう「抽象生の除外」が、音楽批評行為そのものに、思いっきり入ってきて、具体的説明の完備をぐいぐい求めてくるので圧倒されます。もちろんこれは、ミラーリングすれば「政治に抽象性の完備をぐいぐい求めてる」ような事なので、あらかじめ無茶なんですが、その話をしても、一生に付される予感しかなく笑、僕も含めた「普通に、音楽が好きであり、研究も愛好もしている人々」が、絶滅種となる趨勢を感じているので、<好意を持たれる差別対象>として、猿の惑星の人間みたいに飼い慣らされるのはまだ良しとして(面白そうだし)、「大丈夫?世界?」と、思いながら「ニューオーダーが完成する」興奮みたいなものさえあります笑。
「早く帰ろう」そのままの方が、音楽の歌詞が持つ批評性が高いという指摘は、今よりも僕の無料文章が数多く読まれていた頃だと思いますが、それでも、もう余裕の共感性ゼロ反応で笑、「え、何言ってんの?」「あーねー、そういえばそうかもね」が圧倒多数でしたが、今なら「変な替え歌、資生堂に迷惑じゃね?」は通じるかも、、、、ぐらいの感じですが、まあ、いずれにせよ、音楽に具象性を求める(勢い、音楽批評からサウンド全般への言及は消える)傾向は、来年以降、勢いがつくと思います、どっち向きの改革も、保守よりも楽しいので笑。
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