「試写会 / 名画座 / シネコン」

 

 

 コロナ以来、映画の試写は全部オンラインになったし、ずーーっと部屋でDVD / Blu-rayを観ていたので、コロナ後初めて都内の試写会場(ギャガ)で3次元試写を観た(これは全体的な水準ではなく、あくまで菊地基準。試写会場での試写は去年ぐらいからとっくに戻っている)。

 

 もうオスカーも終わっちゃったんで、ネタバレこそしないまでもギリギリまで書くが、試写で見たのは「TAR(ター)」だった。

 

 この作品は、まあ主要部門は兎も角、作曲賞と音響賞を取れなかったのは痛恨であろう。作曲賞はドイツ映画「西部戦線異常なし」で、音響賞は「トップガン・マーヴェリック」である笑(あれは絶対、「ドッガーン」とか「ドブワーーーーー!!!!」とか「ギュイーーーン!!」とかの、いわゆる爆発空気抵抗的SE系ではなく、冒頭、命知らずのトムクルーズが、最新鋭機に乗ってマッハ9まで出してみろと言われ、命令を聞かずマッハ10まで出す。その時の、もう音速超えしてるので、静かな飛行音の中に響く、AIの「ナイン・ポイント・ワン」から「ナイン・ポイント・ナイン」までの、恐るべきカウントアップのシーンで取ったに違いない。すごい音響効果だあすこは笑)。

 

 「TAR(ター)」は結局6ノミニー、0受賞となったが、僕的にはかなり喰らった(後述するが、主要部門をかっさらった「エヴエヴ」は僕的には、嫌いな作品では全くないが、大したことない)。以下、クラシック音楽に関する用語ばかりになるので、門外漢の方には申し訳ないが、まず第一に、あのグラモフォンが全面協力である。ゴダール「愛の世紀」での ECM全面協力とは地響きが違う。というか、協力構造が全く違うが。

 

 つまり、「TAR(ター)」では、グラモフォンの過去の名盤がドカドカ流れまくるとかではないが、グラモフォンが物語に直接実名で食い込んでくるわ、クラウディア・アバドのジャケ写が小道具に出てくるわ、そして、グラモフォンが先かベルリンフィルが先か、という感じで、ベルリンフィル映画である。もう、ベルリンでのシーンは8割、ベルリンフィルハーモニーホールの大ホールで、あそこにこんだけカメラが入った映画はない。

 主人公のリディア・ターを演じるのは今最もいけてる<令和のローレンバコール+キャサリンヘプバーン+メリルストリープ+グレンクローズ+シャーリーズセロン>である、ケイト・ブランシェットなのだが、あらゆるクラシックの賞を総舐めている主人公リディア・ターはなんと、ベルリンフィルの初の女性主席指揮者かつ、エンタメクラシック(要するに映画音楽やポップスのオーケストラアレンジ等々)でもエミー、オスカー、ゴールデングローブ、グラミーをも総舐めており、映画の開始時に彼女が抱えているミッションは、「ベルリンフィル最後のやり残し」と言われている、マーラーの交響曲5番のライブ録音(マーラーは実質9曲の交響曲を書いているが、ベルリンフィルは5番以外全部録音しているので、これを補完して、マーラーの交響曲全集を出す)と、現代作曲家としてのデビュー曲の初演、自伝の出版、という、もう「これ以上偉くなるの無理じゃないの?」つうぐらい偉いのである。

 

 本作はオープニングがターのトークイベントで、彼女のこうした偉大な履歴をMCが語るのだが、それだけに10分以上かけている(ダレるという意味ではない。全く飽きないし、そうして紹介が終わったターの語り始めと、その後さらに10分以上にわたるインタビュアー / MCとのクラシック議論は、観ていて感嘆するほど知的高度が高く、かつエンタメぐらい面白い)。

 

 また、本作(の、少なくとも「構え」は)は、いわゆる<さあ多様性リベラル見て見てちゃん>映画で、「もうわかったよ。すごいなあ、まだリベラルって先があるのね」と、驚嘆するほどリベラルに脚本が書かれていて、ターは古典的なレズビアンで、パートナーはコンマスの女性、養子も女子、スタッフも主要な者は全員女性なのだが、別にレズビアンコミュニティとか、レディネーションとかでもない。ベルリンフィルだけに、ちゃんと半々、というか、あらゆる多様性が描かれていると同時に、全ての設定、台詞にアメリカのリベラリズムの先端の、更に3歩ぐらい先をゆく欧州リベラリズムの強度を、すべてクラシック音楽界の中の出来事として、物語に乗せてガンガン打ってくる。

 

 だがアメリカ映画なのである。ハリウッドの、ビッグバジェットしかも下世話ギリギリの大エンタメ(ここはネタバレぎり)に「あの」グラモフォンが協力しているのである。画面にあの黄色いラベルが映った時には「ウッヒョー!」と思ったぜ。

 

 フィルハーモニックホールのラージには僕も2回だけだが行ったことがあるし、映像では何度も観ているので、最初は、さすがにこれは再現セットだろう。と思うのだが、なんと実物なのである(ロケはベルリンで行われ、ケイトブランシェットは本作のために、指揮法とピアノ演奏の技術以外に、ドイツ語をバイリンガルぐらいに習得している。台詞の40%ぐらいはドイツ語である)。

 

 「どのぐらいリベラルか?」についてちょっとでも書くとネタバレるので、ヒヤヒヤ物なのだが、ターは、女性指揮者のコンペティションの審査委員長として、「今更、クラシックの女性指揮者なんて珍しくもない。もうこんなのやめるべきだ」なあんて事を言うし、ジュリアードでの現代音楽の作曲&指揮のワークショップで、アフロアメリカンの学生と議論になるのだが、彼はなんと、ターの「バッハをどう思う?」と言う質問に「僕はパンセクシュアルなのでバッハに興味が一切ありません。彼はドイツの白人で、当時としては虐待と言って良いほど妻を妊娠させたポテンツの権化だから」と言うのである。パンセクシュアルの人が男性的なポテンシャルを嫌ってもなんの問題もないよ。でもそれバッハに言うか?すげえ!!そしてターはこの青年と白熱の議論を繰り広げるのだが、勿論これ以上は書けない。

 

 映画は2時間半以上あるのだが、途中までは(色々ありながらも)話の主流である「マーラーの交響曲5番」とエルガーのチェロ協奏曲のリハーサルシーンが延々と続く。シネコン5・1チャンで、いきなりベルリンフィルのマーラーが鳴った瞬間から「こりゃあ得したな。わざわざドイツまで行く必要ねえじゃん」ぐらいの高音質、名演奏(リハシーンなんだけどね)で、全く飽きない。

 

 んだけれども、かくして本作は物凄く、映画史上「オーケストラ映画」は数あれど(それは、恐怖映画だったり、オケを擬似家族とみなした上でのファミリーメロドラマであったり、ラブロマンスだったり、エンタメが主流だったのだけれども)、その中でも最も考証性と実演性が高く、最もリベラルで、最も問題意識に溢れた、シリアスでリアル、かつハードコアな最高傑作で、下手したら、映画史上、指揮者を演じた役者の中で、ケイトブランシェットが一等賞なのでは?と思うほど「リハーサル」の演技が完璧すぎるのである。あるのだが、とーこーろーがーだ。こーれがご主人!なんとビックリ、本作は無茶苦茶エンタメなのである。最後の数十分で、本作は「サイコスリラー」になっちゃうのよ!!サイコスリラーだよ!!あの、無闇におっかないやつ!!

 

 「市民ケーン」みたいな<帝国の崩壊><頂点まで上り詰めた人物の失墜劇>とかじゃないのである、サイコなスリラーになるんですよこーれが!!しかもだ!サイコとはいえスリラーでサスペンスなのだからして、絶対に描かれなければいけない「○○○○○?」○○○、○○○○○○○○○○、○○、○○○○○○○○である!!!

 

 ラストシーンも、いわゆる「どんでん返し」として驚天動地のオチなのだが(久しぶりに「どんでん返し」でびっくりした)、それ以前の話として○○○○○○○○、○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○なもんだから、本当に座席から落ちると思ったし、最近のラジオデイズの用語に倣えば、「アイム・アイス」と言うか、とうとう憧れのアイスお父さんにオレなっちゃったよ!と思い(前情報も、当日会場で配られた紙資料も一切読まずに観たので)、誰がどう言ってるのかなと一応検索してみたのだけれども、これは公開後の映画評を読むしかない。挟間みぽりんに感想を聞きたい。と言うか、絶対にコメント出すと思うけど。

 

 すでに「サイコスリラー」と宣伝が謳っちゃってるんだが、悪いことは言わない、あれは止めた方がいい。今からでいいから<クラシック界の頂点から失墜する女性指揮者を描いた>ぐらいに書き直した方が、アカデミー賞をいっぱい取れるであろう。残念一つも取れなかったが。後述するが「エヴエヴ独占」もポリティカルオスカーに過ぎるきらいがあるけど、それはともかく、「音響賞」をトップガンにやっちゃって笑、グラモフォンとベルリンフィルどうすればいいんだ笑。

 

 まあ「パワーオブザドッグ」辺りから、そっかあ、これがアメリカ映画に於けるビッグバジェットエンタメの21世紀的、シン文法なのだな。と思わざるを得ない。

 

 もう公開してるけれども、「フェイブルマンズ」もそうだし、(ハリウッドではないが)パク・チャヌクの「別れる決心」もそうで、もう20世紀的なドラマトゥルギー、クライマックス、カタルシス、ハリウッドエンディング、といった基礎文法では観客が食い足りないか、そもそも生理的に合わないのであろう。僕自身は20世紀の人間だが、物凄くよくわかる。エンタメの文法が変わる時が世界が変わる時なのである。

 

 とまあ、びっくりしつつも納得したのだが、それにしても僕の中で、異常なほど「コロナ前の時間が戻ってきた」感があった<試写会>は、どういう自我のいたずらか、中原昌也さんの事が思い出されて、別の煩悶に苦しんでしまった。勿論、1日も早い健康の回復を祈るが、これに関してはラジオデイズに譲る。年1のペースでお会いしているのに、試写会場という空間で最初に思い出したのが中原昌也さんだった。 

 

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 数日後、「ラピュタ阿佐ヶ谷」に行った。言わずと知れた日本映画専門の名画座で、いま丁度、川島雄三のレトロスペクティヴをやっているので、「還って来た男(44年の処女作)」「続・飢える魂(56年)」「女であること(58年)」の3作を観に行った。川島作品は、いわゆる「ニコニコ大会(終戦直後によく開催されていた、短編喜劇の3本立て)」用の短編までカウントすると、全51作あり、僕は37作まで観たのだが、これで40作になった。

 

 もう「TAR(ター)」の話でお腹いっぱいだろうから、川島映画についての僕の基本的な考えは(「幕末太陽傳」が最高傑作、というのは間違い。また、晩年、大映での傑作「しとやかな獣」に萌え狂う人々がいるのは仕方がないけれども、僕にはさほどではない、という基本的な認識だけは再確認するに留め)書かないとして、とにかくここでも驚いて腰が抜けた。

 

 まあまあ、「全員お爺さんだろうな」というのは(還暦の僕がいうのもアレですが)予想がついた。しかしですよ。大体50席なのねラピュタ阿佐ヶ谷は。はっきりと「スマートフォンが発売されてから」とするが、僕はこの日、「ある空間に、スマホを持っている人が1人もいない」のを初めて見た。というか、全員がおじいさんであるのは言うまでも無いのだが、「ちゃんと」としか言いようがない、昭和の名画座と全く同じで、全員がノートに鉛筆で見どころ等々の書き込みをしていた。老刑事の集団のようだ。

 

 デザインがカッコいいんでポスターが欲しかったんだが、売ってないようだったので、「偽善への挑戦~映画監督川島雄三」「川島雄三~乱調の美学」「映画監督のペルソナ / 川島雄三論」の3冊を買って来た。新刊ではないが、古本でもない。前2冊は、川島の研究会である「カワシマクラブ」の出版物として良い。カワシマクラブは、僕が知る限り、コロナ前ぐらいまで、全作品のデジタルマスタリングBlu-ray化を画策していたが、まだまだ全然内圧が死んでいない。それでも「幕末太陽傳」を最高傑作とする事に躊躇はない。が、仕方ない。僕が読んだ唯一の「反・幕末太陽傳」は、脚本家、桂千穂のもので、はっきりと「過大評価」としている。

 

 当時は小児麻痺、現在ではalsもしくはsmaと分類される病によって45歳で夭逝する川島だが、確かに「死へのデカダン」が最も図式的に濃厚なのは、「幕末」である、が、逆に言うと、「幕末」以外に、「死のデカダン」は正直、全く感じない(過小評価による落ち込みやイジケによって酒浸り、それがダークネスになっている作品は多いが)、特に晩年の10年は、エネルギーに満ち溢れており、テーマも自然信仰、ポテンツ信仰に躊躇がなくなる。これを「来るべき死への反抗」とするか、それ以外の何かとするかが、川島の全体像を把握する上で非常に重要だと思う。

 

 しかし少なくとも、この日ラピュタにいた老人たちの生命力は(「ご丁寧に」と敢えて書くが、「びっこを引いている」者もいた)凄まじく、川島の、とうとう温泉の採掘(「箱根山」62年)、そして鉄鋼業と地方都市開発(「イチかバチか」63年遺作)と言う、人間にとっての、2つの自然信仰を描いて死んだ川島の、死後のバイタリティを継承する者達だと言えるだろう。

 

 「偽善への挑戦」をベッドで読みふけっていたら、オスカーの第一報が届いた(友達がメールで教えてくれた)。「ター」が無冠だと知ったのはこの時である。そして、オスカー史上、主要賞を7部門受賞、という記録を打ち立てたのが「everything,everyhere,at all ones(ネット内俗称「エヴエヴ」)」であることも同時に知った。

 

 僕は直感でしか動かないので、前回のオスカーには何故か全く興味が湧かなかったのだが、今年は「コロナ前が帰って来た感」とともに、かなり注目していて、WOWOWのオスカー系煽り番組をみんな見ていたので、「エヴエヴ」がどんな映画化は分かっていた。今は「オチさえ言わなければ情報全開放」という時代で、ほとんど分かってしまう。

 

 「逆転のトライアングル」がノミニーになった時は、リューベンオストルンドに祝電を打とうかと思ったが(過去、対談して意気投合した。彼のi-Tunesには「デギュスタシオン」と「構造と力」が入っている)、バス・ラーマンの「エルヴィス」がどんなもんかだけは煩悶が絶えないだけで、全体図としてはエヴエヴが主力だろうと思っていた。

 

 オスカーは、ポリティカルとまでは言わないが、メキシコ国境にトランプが壁作るぞという時にアレハンドロとデルトロを上げ、BLMですよとなるとシン黒人映画を上げ、ここのところは、留学者が多い文化的な同盟国韓国、独自にクールな日本、と上げたのち、香港華僑の家族映画を上げるという順番は周到とも言えるし、伏魔殿だなあ、と思うのは、ちゃんとガチンコに、「周到さ=アメリカの政治との茫漠としたリンク」にあたる作品が制作されることだ。僕はご存知の通り、「お得」が嫌いで「お損」が好きなキチガイなので、シルヴァー割引も、シネマイレージも一切つけずにTOHOシネマズ新宿歌舞伎町でチケットを買い、ついでにウーロン茶とスペシャルポップコーンのキャラメルを買った。 

 

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 A24の集大成的でもあり、泣き落としの堕落大作でもある「エヴエヴ」は、平行宇宙とメタヴァースとマトリックスの違いもわからないSF音痴の僕には、いかなコメディかつエモ泣きホームドラマど真ん中に収斂される作品(ではない、のかも知れないが、劇場=TOHOシネマズ新宿歌舞伎町の、しかもI MAX シアター!で1回見ただけでは、そうとしか思えなかった)とはいえ、「まあ、これじゃあ取られちゃうよガッサリ」と思うに十分の笑って泣かせる20世紀的な作品だった。

 

 とはいえ、「バックトゥザ・フューチャー」のタイムリープ表現の矛盾さえよくわからず、「タイムマシンなんて、そもそもないんだから、どうでもいいじゃん、、、、、」ぐらいの感慨しかない僕には、エヴエヴは、<シンプルな現在肯定の移民ホームドラマ><というわけにはいかない><平行宇宙&メタヴァース(少なくとも台詞にはこの2つの言葉がーーおそらく、同義語としてーー両立している)の存在と介入><が、作品の品格として、一応、整っている>といった作品になるのだろうな、それがまあ、A24じゃないの?ぐらいに漠然と予測していた僕を、少々驚かせ、かなり落胆させた。

 

 これだったら新海誠の「君の名は。」の方がタイムリープかつ平行宇宙いけてんじゃねえか?(アレだってちゃんと考えて見ちゃいないし、完全なアイアムアイスだけど笑)と言うぐらい、最後は「現在地」に収斂されたホームドラマになっていて、アメリカは大泣きだろ。どっちかつうと泣きより笑いの方が優れた作品だが、まあ、まだ20世紀は健在だ。でも少なくとも作劇の凄さでは「パラサイト」のが全然上だと思うんですけど。こんなじゃさ。と思わざるを得なかった。

 

 音楽のセンスも悪くはないのだが(っつうか、普通に「センス良い」のだが)ドビュッシーの「月の光」が、実は、映画の最初の音楽からアレンジされて鳴らされていて(ほとんどの観客は気がつかないと思われる)、中盤の、原曲ピアノ演奏シーン(<指先がソーセージの宇宙>なので、足で弾く)を経て、実はエンディングまでずっと通奏されている。

 

 ななななんだこれは?まさか同じA24(とPLAN-Bの合作)の「ムーンライト」にリスペクト?いーやいや流石に違うでしょ。一体どういう、、、、あ、そこ!スマホをスカスカすんのやめて。そんなんしてるとメタヴァースでラピュタ阿佐ヶ谷送りにするぞー!といった感じだが、僕はA24PLAN-Bの精神を最も体現している制作会社は「アス」を制作した、モンキーパープロダクションズだと思っている(ジョーダンピールの会社)。

 

 A24は作品の水準の乱高下が激しく、すげえの(「エイミー」「フロリダプロジェクト」「ムーンライト」「エイスグレード」これ好きなやつ全員友達)と、ええちょっと、それって間違ってるよ絶対。というの(「スキン」「アンダーザスキン」「ミッドサマー」「アフターヤン」これ好きなやつ全員敵)と、どうでも良い感の作品が混在しているので、「エヴエヴがモンキーパープロダクションズだったら、もうちょっとなんかあったろうに」と思う。これは予測だが、そろそろネットに「エヴエヴ 大したことない」「エヴエヴ 過大評価」といったアレが出始めると思う。あんなに韓流みたいに家族の絆が修復することでワンワン泣かれてもなあ。確か僕とタメのミシェル・ヨーは凄いんだけど、確か僕より5個下とかの(信じらんねえ笑)ケイトブランシェットのが遥かに凄かった気が。 

 

 川島雄三まで含め(え含めちゃうの?笑)、今回、一週間のうちに起きた映画経験のうち、僕が最も高く評価するのは「TAR(ター)」である。最後にもう一度だけ書くが、 まあ「パワーオブザドッグ」辺りから、そっかあ、これがアメリカ映画に於けるビッグバジェットエンタメの21世紀的、シン文法なのだな。と思わざるを得ない。

 

 もう公開してるけれども、「フェイブルマンズ」(「自伝的映画」の意味作用も、21世紀対応に進化したのだ、と思うこれは)もそうだし、(ハリウッドではないが)パク・チャヌクの「別れる決心」もそうで、もう、20世紀的なドラマトゥルギー、クライマックス、カタルシス、ハリウッドエンディング、といった基礎文法では観客が食い足りないか、そもそも生理的に合わないのであろう。僕自身は20世紀の人間だが、だからこそなのか、この移行期の現状が物凄くよくわかる。エンタメの文法が変わる時が世界が変わる時なのである。「こんなに映画について書けるなら、一刻も早く「張り込み」評の続きを書け」とか言わないでお願い。タイムマシンにお願い。評論家には評論家の精神的ペースというものがあるのだ。12周目のコロンボに戻る。全エピソード中、最も痛切な悲劇である「黄金のバックル」は昭和の少女漫画の如きではあるが、感涙を禁じ得ない。