<Mステ>と<人生、歌がある>責めによって、脳がすっかり歌脳になったまま、コロンボ本(書名「刑事コロンボ研究」に正式決定しました)上巻の詰めに入ったらロス山火事で、聖地としてのロケ地が毎日バンバン消失するのを呆然と見ており、USスティールのブチ切れ声明文を横目で見ながら、やっぱバイデンが大統領選で勝った時からずっと続いていた嫌な予感が駆け込みで現実化してるわと苦い思いをしていたら(あいつが就任してすぐに宣言した公約を覚えている人いますか?「2025年までに中国のCO2排出を現在の50%に抑える」と言ったのである笑。リベラル全員に言いたい。お前ら非常に面白いよ笑)、トランプが政治評論家全員を苦笑させる大暴れ、今月中に納品しないといけない映画音楽(これ、言っちゃって良いと思うんですけどね、むしろ宣伝になると思うんで。大塚信一監督の「Poca Pon ポカポン」という作品です)に取り組んでは飽きて、SUNO(音楽生成AI)にコロンボ全話のタイトルだけ入力したら、もうちょっと嫌な気分になるほどかっこいいヒップホップになったんで、何というか今っぽいなー、それは絶望的なんだけれどもワクワクするといった感じ。
とか斜に構えていたら、僕に何の断りもなく「KUNOICHI」(SASUKEの女性版)が7年ぶりに再開したので、全部投げ打って集中しちゃったよねM-1よりRIZINよりUFC女子より芸能人格付けよりもヤバいもんねKUNOICHIのが絶対。24時間放送してたら24時間見れるし。やっぱスーパーマリオ世代っていうんですかね。もう推しとかいないよ全員頑張れ以外ことばが無い界隈ですが、パリ五輪のトランポリン森ひかるがサイドワインダークリアした瞬間、少しおしっこ漏れちゃいました。まあ、トランポリンってヤバいなとは思ってたけど、ボルタリストとかボーダーとか、まあまあ、わかるわけですよ、どこをどう使ってるか。でもトランポリン全然わからん笑。森がなんの気なしにストレッチした時、腕が360度まわるんじゃねえの?っていうぐらい柔らかくてうおーってなったよ。
何だこんなに興奮するかわかるんだよ、それは一昨年、怪我しまくっちゃって、あれからずーーーーーっと運動できてないからで、パリ五輪もそこそこ楽しんだけど、オリンピックって(当たり前だけど)専門競技者が専門競技やるわけなんで、情報としては閉鎖系ですよアレ。SASUKEとかKUNOICHIは、いろんな、あらゆる選手が、スーパーマリオみたいな無茶に立ち向かうんで、開放系なのである(すでに「SASUKEの選手」という状況はできてるんだけど、まだ全然、開放系ですよ。28年のロス五輪から競技化するとか言ってるけど、どうせ1回だ絶対。ブレイキンももう無いんだからさ)。
コメント
コメントを書く『刑事コロンボ研究』執筆の前半戦が無事に決着を迎えられたようで、お祝い申し上げます。
今月の頭から hulu で『刑事コロンボ』を観始めたのですが、まず1話ごとのクオリティが当時の映画に見劣らない出来であることに驚かされました。私はなぜか(本当になぜか笑)白黒映像のドラマだとばかり思っていたので、パイロット版からTV放送用に移ってもあのクオリティを維持し得た、ピーター・フォーク本人も含むスタッフたちの能力に感銘を受けます。「ドラマだが毎話が映画のようだ」とは、『ハウス・オブ・カード』が出てきたあたりから盛んに言われ始めたクリシェですが、USAにおいては70年代からすでにそうだったのだと認識を改めさせられました。
なのですが、第4話あたりまで観て「うわあこれからも毎話90分あるのか。すごい分量だなあ」と圧倒されつつ、同時に『刑事コロンボ』序盤の作劇にあまりノれない気分もあり、菊地さんのラジオデイズにおける「パス」概念回をガイドとして、個人的に気になる回を先に観てみることにしました。まず第1シリーズ最終2話(第44〜45話)に飛んだのですが、第45話『策謀の結末 "The Conspirators”』が本当に素晴らしかったので、こちらに書かせていただきます。
本人は東欧系であるというピーター・フォーク演じるイタリア系探偵コロンボは、良心的なアイルランド支援活動家としての顔を世間に見せながら同時にIRAへの武器輸送を担うジョー・デブリン(ニュージーランド出身のクライヴ・レヴィル演: この役名 Devilin が第一次世界大戦後に独立を回復したアイルランドの首都 Dublin とほぼ同音であることは言うまでもなく、それが「Dublin の Devil」として語呂合わせになっているのでは? および、そのような役割を直接アイリッシュの俳優にではなく・同じイングランドの属国であったニュージーランド出身の俳優に演じさせることには一体どのような意味があるのか? などのトピックについてはすべて省略します)を相手にするわけですが、これら両の人物がひとつの決着を迎えるまでの流れは、とても悪魔祓い《エクソシズム》的だと思いました。祖国アイルランドの解放を願う男の思いが悪であるわけがなく・さらにイタリア(≒ローマ)とアイルランドのカトリックが全く同じであるわけもないのですが、劇中のデブリンが身を置いている行動を止めるために召喚されたのがコロンボだったというセッティングは、純カトリック的な意味での悪魔祓い《エクソシズム》の型《カタ》を思わせます。
詩的な活動家とIRA支援家というデブリン2面性を暴くために、コロンボは主に酒宴とパブ内の娯楽と詩の応酬をこなしますが、その過程をともにする2人の姿が(少なくとも表面上は)気のおけない級友のように映る。という絵面の良さが、実際は仮面劇であるところの脚本にさらなる魅力を加えていたと思います。
この過程で浮かび上がるものとして私がとくに撃たれたのは、酔い混じりにコロンボと話すデブリンがまるで「助けてほしい」と訴えているように見えたことです。実際、このエピソードはデブリンが残していた「アレ」を手掛かりとして決着しますが、「捕まらないように動いているはずの男があんな痕跡を残すなんておかしいだろ」という正気のツッコミが全く無意味に思えるのは、デブリン自身が(純フロイト的意味での)無意識裡に残していた message on a bottle にコロンボが気付き、その痕跡に呼ばれて悪魔を祓う。というエクソシズム的な型《カタ》がこの上なく強靭にエピソードの出来を支えているからだと思います。
シャーロック・ホームズ以前の「猟師の知」を、19世紀以降の精神分析とも関連する「その場にあらわれている痕跡を読み取ってそこから到来する物事を予測する能力=徴候知」に結びつけたことは、中井久夫さんがカルロ・ギンズブルグの著作から敷衍させた理論の中でも特に驚くべき業績ですが、『策謀の結末 "The Conspirators”』では文字通りデブリンの痕跡を読み取ったコロンボが一種の「治療」を行ったわけで、あのエピソードの終わりで「詰み」を取られたデブリンが(自分の計画を止められて悔しいというよりも遥かに)心穏やかに癒されて見える。という結末も含め、『策謀の結末 "The Conspirators”』は「推理モノ」という20世紀のドラマジャンルに(前述の)エクソシズムや精神分析の歴史性までをも豊かに汲んだ、素晴らしい結晶度の出来になっていると思いました。
「警察権力の役割は、癒し」とは、『ユングのサウンドトラック』で菊地さんが『エクソシスト』から抽出しておられた物語構造のなかのひとつですが、『策謀の結末 "The Conspirators”』でもコロンボが一種の悪魔祓い師としての役割を担っており、それは(前述の)イタリアン×アイリッシュ的ムードによって誘発された結果なのかもしれません。同じく菊地さんが剴切な批評を寄せておられた『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』も、私はエクソシズム映画として解釈しています。どうしても勝つ札を選んでしまう博打師であるスティーヴ・カレルが、躁的な哄笑=悲鳴を上げていたら、その救難信号を聞き受けたエマ・ストーンが助けにくる。という意味で、「自分を倒して=悪魔を祓ってくれる相手を必死で追い求める」タイプの物語類型があり、『策謀の結末 "The Conspirators”』では(前段落で述べた通り)その型《カタ》が推理モノや精神分析の歴史性にも直接根ざしているのが、最も得難いように思われます。
〔『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』はとくに思い入れ深い映画なので括弧内で脱線しますが、あの映画では、悪魔憑きであるスティーヴ・カレルを癒すことができなかった最も近い人=妻も/真正面からの勝負で悪魔を祓った他人=エマ・ストーンも、どちらも女性である。つまり「治療者は必ず男性である」というアンナ・フロイトおよびジュディス・ハーマン以前の精神分析偏向を、「悪魔憑き=患者は男性で、それを祓うことができるのもできないのも女性である」と性差を逆転させるだけのように見えて、実は「患者=男性(マッチョイズムによって拒絶するのではなく、治療者の技に身を任せる)」と「治療者=女性(相手の苦悩を除去するための主体として知能を発揮する)」両方の尊厳を余すことなく解放できている。という点が、当時のUSA平均で見ても凄まじく高いレベルのフェミニズム的達成だったと思うのですが、この点を指摘できていたのは(私が読んだ限りでは)菊地さんの評だけでした。
ちなみに、『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』が舞台とする1973年は『エクソシスト』の公開年であり、『エクソシスト』の本編序盤でも女優がフェミニストではなくとも反戦活動家として演技する場面がある。というのは単なる偶然の符号に過ぎませんが、『刑事コロンボ』も含んだ70年代前半USA的磁場を明らかにするものとして記しておく価値はあると思います。〕
以上、これは完全なコロンボ素人たる私が『策謀の結末 "The Conspirators”』に見出したものを縷述しただけなので、おそらくエモ過多な誤謬が含まれている可能性も高いですが、少なくとも菊地さんのご紹介でこのエピソードに辿り着き・感銘を受けたことをお伝えしたく思います。
このエピソードを通して、私が惹かれる脚本の型《カタ》はどうもカトリシズム的テーマ(独りでどうしようもなくなっている者とそれを助ける者)を取り扱ったものばかりで、ピューリタニズム的テーマ(職業意識と背中合わせの衝迫により雁字搦めの合理化に陥る)が前面に出たものを見せられると心底どうでもよくなってしまう。という偏向に気付かされ(笑)、『刑事コロンボ』序盤のエピソードがあまり楽しめなかったのもそのせいではないかと思われるのですが(笑)、ともあれ、この知見は私による私自身の臨床のために役立てつつ、引き続きドラマを楽しんでゆこうと思います。菊地さんの『刑事コロンボ研究』の完成も楽しみにお待ち申し上げております。
菊地さん、お疲れさまです。
「人生、歌がある」5x5、ようやく完走しました。八代亜紀「おんな港町」や森進一「冬のリヴィエラ」、そして都はるみをカバーしたキム・ヨンジャの「千年の古都」なんかが印象に残りました。茶の間のテレビやラーメン屋のカウンター越しに見るテレビの感覚が戻ってきてしばし浸っていました。歌唱もさることならがレジェンドの方々の顔ににじみ出ている時間の流れには何も言葉が出ませんね。
老眼がひどいので、「刑事コロンボ研究」Kindle版が出るといいのですが。
運動とかトレーニングって、血圧と脈拍をガチで下げるんだなって最近痛感してたりします。
スマホを見る時間をちょっと散歩するとかでも、自分の中の興奮を多少は笑、落ち着かせられますし。
菊地さんみたいに気功で落ち着かせるのが、理想的ですけど。
コロンボ本を書きつつ、なんらかのトレーニングができると良いですね。
菊地さま、お疲れ様です。
先日の100de名著にて、エロチック街道とビートルズのアルバムの話をされていたのがとても興味深かったのですが、その時言及されたビートルズのアルバム名を失念いたしまして、教えていただけますでしょうか?アイドル路線と、アートとの境界だといった内容でした。
>>1
「策謀の結末」はリアルタイムでは、本当にもう次はない最終回だったんで、予算も気合も凄いんですよね笑。ほとんど指摘されませんが「踊る大捜査線THE MOVIEレインボーブリッジを封鎖せよ」の元ネタです(「事件は現場で起こってるんですよ」という有名なセリフもーー別回ですがーーコロンボです)。
ジョー・デブリンがダブリンのデヴィルから命名されているのは海外のファンサイトなどでは指摘が多いですね(コロンボの役名には、そういうのが多いんですが)。いずれにせよフェイク・イタリアーノ(父親がロシア系ユダヤ、母方がアシュケナズです)とフェイク・アイルランダーのーー正に、ご指摘通りのーーカソリシズム&エクゾシズムが生じる構図は、ちょっと薔薇の名前名た雰囲気もあって、「社会的な巨悪が出てきたらギャグ回にしてしまう(過去、産油国、CIA、FBI、芸能界、ロス市警内の腐敗、サイエントロジー等々が扱われる時、「社会派じゃないんだよーん」という感じでギャグ回にしています)コロンボ世界で、唯一、IRAを扱い、シリアスな大作にまとめ上げた傑作で、器の大きさからファンから嫌われるという笑、回でもありますね。また「本筋である殺人事件だけでなく、同時にテロリズムも回避させる」という、二重解決がある、数少ない回でもあります。
僕は2人がいちゃつく「恋」のシーンで(「刑事コロンボ研究」は、「倒叙形式」が発生させる心的効果の落とし所を、転移のパスとして、殺人から自白までを、「前の彼氏(彼女)を捨てて、新しい彼氏(彼女)と恋に落ちるが、告白したら振られる」というアナロジーで貫通しています。日本人に一番わかりやすいと思われたので)、即興詩の応酬があり、あれこそ日本字幕が困るやつなので、文字起こしして訳してみたところ、デブリンが無茶苦茶テクニカルで文学的なのに対し、コロンボが童謡みたいなので返して、それでウケている。という構図がわかり、ご指摘の「カソリック的な、患者と分析医ーー被憑依者と悪魔祓いの関係ーー」が、「インテリで文学的な方が患者」という設定にうまさを感じました。
コロンボは最後のゴールデンゲートブリッジ爆走シーンを経ても武器輸出が止められず、車を降り、偶然、貸し望遠鏡の料金フックに置き忘れられた銀貨を拾うことで、本業である殺人事件の方が軽く(ご指摘の通り、犯人は捕縛要求のメッセージをウイスキーのボトルにマーキングし続けますし、そもそも動機が勘違いーー裏切られたと思い込んで死刑に処するーーであることから、殺人の重みがかなり軽いです)、副産物であるテロリズムの方が(「テロリズムだから」という意味ではなく、コロンボの知性との闘いにおいて)重く、結果、どん詰まりで「銀貨を拾う」事で粉砕する所が、「エクソシスト」めいてますよね。
>>2
「冬のリヴィエラ」って本当にすごいですよね、僕あれ、はっぴいえんどのどの曲より、大瀧詠一のどの曲よりも名曲だと思います。基本的にシャイネスである大瀧詠一の筆をあそこまで奮い立たせた森進一のオーラはものすごいと思います。座りでは常にふざけている細川たかしが、菅原洋一のシャンソンを聴いている間、「ものすごく染みている顔」を隠せなかったところとか、あの番組はとにかく半端ないです。制作統括は「夜のヒットスタジオ」の疋田氏ですね。
刑事コロンボ研究は、Kindle版出るかどうかわからないんですが、なるべくでかい本でデカい字にします!笑
>>3
僕はスポーツ心臓で、走ると心拍や血圧が下がるので、運動不足が一番堪えるんですよね笑。気功があるんでなんとか収めてますが、ストレッチを怠ると気も通りが悪く笑、少しづつでもトレーニングを始めないとなと思っています。
>>4
サージェントペパーズ・ロンリーハーツクラブバンドですね。
>>5
ご返信をいただきありがとうございます。
望遠鏡と銀貨のギミック、ご指摘されるまで気づきませんでした。『エクソシスト』冒頭では邪性の象徴のようなペンダントを拾う場面があったと記憶していますが、『策謀の結末』で手詰まりの状態から銀貨に導かれるというのは、同じエクソシズム的表現でも全く別の意味になりますね。銀貨が望遠鏡を介して「来たりて見よ」(ヨハネ福音書1:39)と働きかけるわけですね(笑)
あの回でコロンボは、ラジオ出演前にせびった小銭で電話をかけて横槍もとい揺さぶりをかけるので、その後にくる望遠鏡と小銭のくだりは単なる時間の遷移と切迫感の演出(「マズいなあコロンボ、いつもの手でハメられなくなってるぞ」的な)だけだと思っていました。
そして前回のコメントでは書き忘れましたが、『策謀の結末』での治療=祓魔の作業は、一貫して体技として描かれていたのが重要だったと思います。(あらかじめ、菊地さんのラジオデイズを介して)あの回ではコロンボがかつてないほど走り回って長距離を移動するらしいことを知っていただけに、その前後にある酒づきあいやダーツや即興詩吟誦も含めて、知能合戦だけではなく体技を通してあの2人は共同で穏やかな境地に達する、というのが素晴らしく思われます。素人の私は注意して観ないとあまりピンときませんが、内気功の心得をお持ちの菊地さんは、コロンボがやっていることの体技性に関して膨大な情報量を受け取っておられるのかもと思います。
さらに関して言えば、『策謀の結末』はラストシーンの絵面が白昼である点も新しいなと思いました。「魔が祓われる瞬間」が真夜中ではなく白昼にくる。というのも、前述したエクソシズムモチーフの脱構築として見事です。『アベンジャーズ』第1作目の真昼の市街地でのアクションシーンが、当時のUSA市民たちにとっては9/11の外傷記憶からの立ち直りと・同時に『ダークナイト』的な「暗ければえらい」タイプの価値観からの脱却の両方を意味していた、みたいなことですね。コロンボはあの回で決着がついてから「今回は危なかった。〔ネタバレ要素なので省略〕してなかったら気づけなかったかもしれません」みたいなことを言いますが、あれは虚脱状態にある犯人への気遣いというより、ガチの焦燥と疲労を安堵交じりに漏らしているのだと思います(ご指摘の “「インテリで文学的な方が患者」という設定” も、実在する医者と患者間の幸福な関係性としてのリアリティはもちろんのこと、脱マッチョイズム・脱ポテンシャリズム的な表現としても美しいですね)。これも含めて、『刑事コロンボ』シリーズは治療=祓魔の作業が体技でもあることを見せてくれますし、その特性は精神分析の臨床と同じくらい音楽の演奏にも近いのかもしれませんね。
(ところで、この返信を書きながら、「世を徹しての看病、夜警」を意味するカトリック的観念である vigil の語が脳裡をよぎっていたのですが、あっこれが vigilantism の語源なのか、と今更気づきました。コロンボはもちろんLAPD?所属ですが、犯人=患者のために昼夜問わず接近する姿が vigil(antism)っぽい。このへんにも私が『策謀の結末』にエクソシズムっぽさを感じた理由なのかもしれません。)
>>9
これは内気功とも外気功とも直接関係はありませんが、コロンボにはキャラクター造形の一環として、かなり演舞的な、大きなムーヴを持ちます。これは流石に英語圏でも指摘がないですけど、一番近いのはミッキーマウスです(そういう意味では、「うちのカミさん」がミニー・マウスになるわけですが笑、このミニーは姿を現しません)。
「ファンタジア」がすんなり成立したのは、「ミッキーの蒸気船」から幾星霜、ミッキーマウスの動作が、そのまま魔法使いの弟子としてはめ込みが可能、とウォルト・ディズニーの天才が直感したからだと思いますが、コロンボをフェアリー扱いする研究はいっぱいあるけれども、ミッキーマウスとコロンボが、具体的にかなり似た全身の動きで(あと、これも重要ですが、どちらも目が動きません)魔法をかける、という相同性があるのは、それこそあらゆる宗教に結印的な「動作」があること、これが歌舞伎の見栄のような「所作」に移動するのが、むしろ秘密=ドグマの保持であること、と結びついている事を示していると思います。コロンボには所作がありませんが、動作があり、ドナルド・トランプは所作だらけですね笑。
また、全69話中、解決時刻が夜であることの方が少なく(かなり図式的にゴシックを表現してしまうので)、また「とうとう夜が明ける」話が、特別編の1話しかなく、意外と昼景が多いんですけど、「策謀の結末」は、オーシャンビューの大ウインドゥだという点=デブリンが睥睨している「世界」に、コロンボが間を割って入ってきて、陽光を背に受ける形になっているのは重要だと思います。
僕はヴィギランティスムは、医療法も薬事法も介さない精神分析治療も包摂する観念だと思います。国家=警察=憲法を使わず、法を執行する、という感覚は、コロンボがロス市警の警部補でありながら、私立探偵と同じ意味を持たされている(フィクスされた上司や部下がいない)、という点で、ご指摘のとおりではないかと思います。