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<ビュロ菊だより>No.58『アメリカンスナイパー(正規完成稿)』
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<ビュロ菊だより>No.58『アメリカンスナイパー(正規完成稿)』

2015-03-24 23:50

    ゲーム的な書きなぐりの初稿



    それへの追記と予告


     

    また、蛇足ながら2月2日の段階で書いた「テロリズム」に関する論考



    *「テロリスト」の部は後半です

     

      を経まして、以下を完成稿として下さい。書籍に収録予定と成ります。非常に長文です。

     

    「アメリカンスナイパー」

     

     ~「グラントリノ」の反転形としての、イラク西部劇第一作~

     

     

     

     この映画を「アメリカ合衆国の依存症としての、反復を止められない<戦争>と向かい合った、シリアスなメッセージ(後遺症のチェイン/戦争に「英雄」など存在するのか?/真の善悪とは?という根源的問い、等々)を持った作品である」としたがる人は非常に多いと思いますし、なぜその人がそう思いたがるか?というメカニズムも良くわかるのですが、ワタシの立場は真逆で、この作品は「とうとう出ちゃった痛快イラク西部劇第一弾(困ったなあ。面白いだけに)」です。

     

     その理由は、この映画の、時間軸的に言うと開始からほぼ終盤までの間が、反戦/厭戦/社会派映画などではまったくなく、過去ハリウッドが量産してきた<戦争アクション娯楽作>、中でも特に、<久しぶりに「蛮族(ネイティヴアメリカン→ナチスドイツ→アフガン戦争までのイスラム教徒等々)」という「敵」を殺す正当性を与えてくれる、血湧き肉踊る「痛快西部劇」>であるからです。

     

     と、いうか、この映画は、ヒステリー患者もしくは二重人格者、もしくはアルツハイマー病初期患者の様にして、終盤で一転して顔つきが変わるという特性を持っており、オチからエンドロールまでは、いきなり「アメリカ合衆国の依存症としての、反復を止められない<戦争>と向かい合った(後略)」のトーンになります。

     

     と、今、映画を時間軸で切って、あたかも「前者(開始から終盤まで)の方が時間的に長いので、だから(量的/多数決的に)痛快西部劇なのだ」とでも言っているように誤読されそうですが、まったく違います。

     

     言うまでもなく、映画全体の主張というものは量的には還元され得ません(偶然、量的な還元と合致する作品もあるでしょうが)。

     

     むしろ、この作品の「重く暗いトーン」は、実時間こそ短い物の、作品全体への支配力として「実話である」、そして「果たしてその実話といえば、端的に悲劇的で、英雄万歳な方向とは真逆な、重さによって、深く考えさせられるものである」という強度を持っています。オセロゲイムで言えば、角をおさえているような事だとも言えるでしょう。

     

     既に概ね公開を終えているのでネタバレしますが、300人近くのイラク人を狙撃に殺し、敵兵に悪魔と呼ばれながら、自国では英雄であった主人公は、自らの帰還後、PTSDによって精神のバランスを崩した多くの帰還兵(同僚知人限定とかではなく、イラク帰還兵であれば誰でも)を、自分の唯一の神技である「狙撃」を使い、森の中で2人っきりになって、狙撃(というより、映画で観る限り、狩猟などに近い銃撃ですが、ワタシの定義では、狩猟は動物を対象にした狙撃ですので、大差はありません)を教える事で、精神のバランスを取り戻させる。という、個人的に編み出した治療を行ってゆく、という凄まじいリアル(実話に対してリアルさを賞するのは一見無意味もしくは矛盾ですが、そんな事はありません。この部分は、「よしんば事実でなくとも」すんげーリアルです)を見せます。

     

     が、勿論これは素人治療ですので、危険極まりなく、案の定(これはワタシの私感ではなく、映画では明らかに「うわあ、こいつ危ない。こ、こ、殺されちゃうよ、、、」という誘導を行っています)、治療中の錯乱事故によって、「患者」に射殺されます(そのシーンは描かれず、字幕だけで説明されます。また、奇しくも本作公開中に、「犯人=患者」は無期懲役刑が言い渡されました)。

     

     何というキツさ。言葉を失う程(長い長い本稿の結論は最後に出て来ますが、ここでフライングしてしまうならば、こに「キツさ」は、実際問題、「大した事無い」とワタシは思っています)。これによって、前述の通り、オセロゲイムで角でも取ったような感じで、フランス料理で言えば、フルコースが長過ぎて、帰ってから憶えているのが最後に食べたデザートとコーヒーの味だけ。といった強度によって、本作は重い後味を残します。

     

     また、ダメ押しのように、ラストはドキュメントフィルムを使用した「英雄を悼む」出棺のモーニングパレイドシーンが挿入され、エンドロールでは「黙祷」を意味であろう(ワタシはマスコミ試写で観て、上映前に配給会社の宣伝部の方が「最後はイーストウッド監督曰く黙祷である(ので、スピーカーの故障ではない)」旨、マイクで説明していたので、極めて高い可能性で「黙祷」を意図したものであることは間違いありません)、無音の状態が1分間以上続きます。

     

     こういった諸要素によって、本作を「アメリカ合衆国の依存症としての、反復を止められない<戦(以下略)」と決定して疑わない人々に対し、ワタシはバカとまでは言いませんが、様々な精神的な疲労により、詐欺にかかりやすい危なっかしい状態にある人々である、と断ずるに些かの躊躇もありません。詐欺に会ってからでは遅い。自己チェックは怠らない様にしましょう。ワタシもそうします。

     

     と、その構造は後述するとして、先ずはなにより、前半が<痛快西部劇>である根拠を列記します。ほとんど本編総ての解説に近く成るので、未見の方は読まないで下さい。

     

     

    1)本作の(恐らく)世界共通のトレイラー(トレイラーは配給先ごとに変える場合もありますが、少なくとも日本のテレビと映画館とインターネット上に流されたものと、アカデミー賞の授賞式で流された物は同一でした)は、こういうものです↓

     

    <自爆テロギリギリの方法で、旧式のランチャー砲を抱えて友軍に向かって走る子供をスコープで捉えた主人公が、「ううう。止めろ。その武器をすてろ。じゃないとオレは、、、おまえを射殺しないといけない」とばかりに逡巡する>

     

     この、人道的な煩悶は、本作を「アメリカ合衆国の依存(後略)」という評価に導くに余ある効果を見た者に与えますが、結論から言うとこの少年は射殺されます(ここは非常に重要なので、第一稿段階でワタシは「射殺されるか、あるいはされませんが」と敢えて濁しましたけれども)。

     

     まあそれはしょうがない、何せ戦時、しかも女子供も敵兵化する中東戦争ですから、そういう事もあるでしょう。しかし、驚くべき事に、「このシーン」は、「本作の白眉である重要なシーン」でも何でもなく、「ちょっとしたフックの挿話」に過ぎません。

     

     例えば、それ以後主人公が、しばらく狙撃が出来なくなってしまうとか、女子供の狙撃が続いて精神が参ってしまうとか、狙撃のたびにその少年の記憶がフラッシュバックする。といった描写は一切ありません。

     

     繰り返しますが、このシーンは、単なる「ちょっと盛り上がる挿話」に留まり、その後の主人公は得意の狙撃でどんどんイラク人を躊躇無く殺して行きます(因みに、子供を殺すシーンはこれだけです)。「あんときゃ、、、子供はね、、、さすがにね、、、でもしょうがないよね、、、、蛮族(この映画に「敵兵/イラク兵」という言葉は一切出てきません)は女や子供を戦争に使うからな、、、許せん、、、次の派兵(「ツアー」と言うのですが)ではもっと狙撃してやる」ぐらいの感じです。

     

     このトレイラーと本作を見比べて「あのトレイラー詐欺だったよなあ」と思わない人間は、ヒステリー性の記憶失調であると思われます。

     

     日本語に「おためごかし」という素晴らしい言葉があり「御為倒し」と書き、英語だと「ONLY PRETENSE」等といいますが、これこそ近年稀に見るおためごかし予告編です。

     

     予告編だけご覧になった方、これ信じられますか?

     

     

    2)本作では、主人公の兄(ワタシは初稿で「弟」と間違えましたが、追記に書いた通り、たった今現在も、「そんなもんどっちでも良いね。この映画にとって(そしてそこもヤバい)」と思っています。主人公がものすげー肉体改造によってバカでかい獣のようなルックスであるのに対して、兄貴は普通の中肉中背なので、「弟」にしか見えなかったのかも知れませんな)が、戦争トラウマによって出征できなくなります。心を病んだ「弱い」兄による「戦争は愚だ」的なお決まりの「無力な正論」もありますが、残念ながらこれ、100%主人公には届きません。

     

     そして、前述の通り、これこそ結構な重要なのですが、兄は出征出来なくなった段階で映画から姿を消し、例えば狙撃の為に怪物化してしまった主人公と対比されるであるとか、英雄である主人公との最後の確執を見せる、とかいった描写はビタ一文ありません。ただただ、途中退場するのです。連続テレビドラマで、撮影スケジュールによって途中降板する脇役のように。

     

     幼少期に、父親に兄弟で狩猟の訓練を受け、「弟でありながら兄より才能がある」という、マッチョ国での悲劇(余談ですが、天才ジャズピアニストであるビル・エヴァンスの兄もまたジャズミュージシャンで、弟に最初の音楽の手ほどきした兄は、弟の天才と自分の無能をはかなんで自殺しました。ビル・エヴァンスが生涯引きずった大きな傷です)から始まったこの兄弟の描写は、人間ドラマとしてかなりの旨味があるでしょうに、恐らく、敢えて深入りせず、深入りしないどころか「出征出来なくなったら兵士は終わりなんだ」ぐらいのドライさで、前述の通り、兄は映画から消え、直接的な影響力も全く残しません。「うおー。兄ちゃんこれで消えちゃうんだ」とワタシは軽く驚きました。

     

     主人公が「愛」を持って強く執着するのは、才能を見いだしてくれた父親でも、兄でもなく、第一には妻、第二には仲間の兵隊です(これも結構な重要事ですが、敢えてさらっと書きますと、どちらにも性欲があるからだと思われます)。ラスト、前述の「素人療法の開発と実践」が、「子供の頃、兄弟で森に行った」事を直接暗示するシーンはありません。主人公が素人療法に執心する理由は、ものすげく大切で大好きな(ガチンコのホモソーシャル)同じ部隊、友軍の仲間の死を弔う事が第一で、第二は、戦争という非常にキツい仕事、そのリスクによって病んでしまった人々に対する自分なりの善行(イラク人に対する贖罪ではなく)、といった感じです。

     

     と、ここまでは、特に未見の方がテキストだけ読んで「それってオマエの解釈だろ(勿論その通り、それを書いているのですが)、ゴリゴリに誘導的なシーンが無くても、ボディブローみたいに効いてる。って事はあるだろうよ」と仰るかもしれません(一般論的にはそういう事はあります)。しかし、では、これはどうでしょうか?

     

     

    3)敵兵がマンガです。うー恐ろしい工業用のハンディドリルで、子供の頭に穴を穿って殺そうとする悪のシリア人(実在の人物かどうか不明)、そして主人公の好敵手として登場する、シリア軍に雇われた(メイビー)中東人である名狙撃手、こちらは完全に架空の、つまり、西部劇を盛り上げる為に投入された悪役キャラで、主人公は果たしてこの好敵手とスリル満点の対決をし、最後には「勝利の一発」を、あろうことか「マトリックス」とそっくりな、CGを駆使した画面によってドーンと出して拍手喝采。という塩梅です。

     

     こんなアクション映画みたいな超かっちょ良いシーンを「反戦派」の人は見過ごしたのでしょうか?だとしたら、影の薄い兄を弟と間違えるよりも兆倍の蒙昧さではないでしょうか?

     

     劇中、主人公だけでなく米兵はみな敵兵を「蛮族」と呼んで、西部劇とベトナム戦争を繋ぐ、「敵兵をリスペクトしない態度」を一貫させます。それはそれで事実なのかもしれず、あまつさえ、そうした「まるで映画の西部劇のようなメンタリティでイラク人を殺戮した」という事がイラク戦争のリアリズムなのかもしれません。

     

     もしそうだとしても、それはいくらでも「反戦的」に描く事が可能でしょう。しかし、マンガのような残虐な悪役ドリル男(狙撃で射殺されます)、アクション映画として盛り上げる為に、「史実」に「加えられた」悪のライバル、に続き、ラスト近く、所謂「とうとうキレて出撃(この映画は、正面からの白兵戦のシーンがほとんどないので、つまり双方向的なテロリズム映画であって、従来的な「戦争映画」とは違うか、或は、現在の「戦争」とは、こうした物である、というメッセージを持っています)」の、つまり「堪忍袋の緒が切れるトリガーシーン」はどういうものかと言えば「天井から鎖でつながれ、残虐な拷問の果てに死んだ仲間&拷問によって切り取られた指だの手首だのの器官/部首がぎっしりつまった拷問室の一角を発見」という、「ランボー/怒りのアフガン」もかくや、というほどのエゲつない描法で描かれています。

     ワタシはマスコミ試写会場(新宿のシネコンでしたが)で「やっちゃったよダメだよこれはさすがにイーストウッド(笑)」と爆笑しました。「興奮しすぎるよ(笑)。単にめちゃカッコいいだろ米軍(笑)」

     

    (4)とはいえこの「病理」は、逆説的に正しくアメリカのトローマを示しています(追記で嫌がらせのように執拗に書きましたが、「PTSD」という言葉と現実を重々しく神妙に使いたがる人々はキチガイとは言いませんが、物を知らない、ナルシシストの鬱バカです。アメリカはフロイドをオモチャにした結果、現在はラブロマンス等の劇映画の、主人公の心理的動機づけなどに使用方面を限定しているので、まあ許しますが、「パスト・トラウマチック」の「チック(tic)」は正規の接尾語ではありません、「乙女チック」とか「ロマンチック」等と同類の俗語で、形容詞を名詞に転じさせ学術用語にしたり、「的な」という形容詞に変化させる正規の接尾語は「ic」であり、「メタリック」「エレクトリック」「アトミック」「ロジック」「リリック」などに使用されます。「共産主義的な」という言葉を「コミュニズミック」というか「コミュニズムチック」というかの違いで、「トラウマチック」というのは「トラウマっぽい」ぐらいの事、つまりはカジュアル俗転で、ワタシが、こんな略称をーーー症状ではなくーー重たがってる奴は暗いルシシストのバカだという根拠がコレです。「トラウミック」が正しい。とまでは言いませんが「傷心(或は喪失、等々)鬱状態」ぐらいで十分な事を、何を大袈裟な。というより、「PTSD」という概念で扱われるトローマは厳密にはトローマではないです。トローマはこのカッコが抜けたら説明しますが、本人に「あれがトローマだった」と述懐されるものではありません。説明が長くて申し訳ありませんが、本稿の意図の中核を成す部分ですのでご了承を)。

     

     昔日、というより、まさにこのイラク戦争当時、ワタシが愛する、スマートでユーモア溢れる、諧謔と頓知とナンセンスの徒であるデイブ・スペクター氏が、シリアスなテレビ番組で、アメリカのイラク派兵反対派の論客に「ベトナムと同じでは?」「大量破壊兵器が出てこなかったらどうするつもりだ?(結果はご存知の通りです)」といった発言に、日頃の諧謔もかなぐり捨てて顔面を真っ赤にし、口角泡を飛ばしながら「いやあ、だってねえ、サダムっていう人は、自分の反対派の人間を、生きたまま、生きたままですよ。シュ、シュレッダーにかけてバラバラにするのを笑って観ているような人間なんですよ!!そんな奴を許せますか!!」と叫びだし、ワタシの目頭を熱くさせたものですが(「あああ、俺の、、、俺のデイヴもやはりアメリカ人か、、、」)、この「古式の道具を使い、残虐な殺し方をする人間は、近代兵器で征伐しないといけない(してもいい)」という頑健なロジックは、西部劇の基本構造の母体になっています。「オノで頭の皮を剥き、弓を射ってくる、英語を喋らない蛮族インディアンを、正義のピストルやライフルで英雄のガンマンが成敗するのは痛快である」

     

     この、整合性を完全に失った、神経症の症状としか言いようのない、病的な自己正当化を物語構造を組み込んでいる作品は、どんな粉飾を施そうと原理的に西部劇です。

     

     入植時から100年を待たずして、彼等はそれまでむしろ友好的であったネイティヴアメリカンの人々と、彼等の精神的な共生者であり、食用と家畜用を兼ねた聖なる存在であるバッファローを、西部劇で描かれる数百倍の残忍さと卑劣さによって殺戮し、帝国を築きました。アフリカからの奴隷輸入に関しては、逸脱にしても長過ぎる事が目に見得ているので省略します。 
     

     

     その発狂せんほどの罪悪感は抑圧されたまま、我らがデイヴにまでパスされているのです。これをトローマの100年単位のパスと言わず何というべきでしょうか。トローマは自己申告として述懐出来るものではありません(現在、症状が治まっているならば別ですが)。

     

     トローマは抑圧されて死角に隠れ、「どうして自分はこんなおかしな行動をしてしまうのだろうか?」その不条理な行動の、反復の原因であり、可視化されているのであれば、症状は完全に消えているか、消えかけている筈です。

     

     ですから「PTSD」というのは、トローマを「あれがトローマでね」と述懐させる(現在は、誰もがそうやってトローマという語を使います)為のカジュアライズであって、まあ「tic」くっつけてるから許そうか。程度の臨床上の造語で、やや誇大にいえば、アメリカの上から目線&嫌な切実さ。を強く感じます。

     

     <戦争など有史以来ずっと続いている物で、戦争参加者がどれほど讃えられようと精神を病むというのは、貴様等の国で、貴様等が発明した事でも何でも無い。貴様等がやっているのは、抑圧のしすぎによって、狂った合理化を起こし、人類普遍の属性を、自分たちの財産とすべく、執着的に繰り返しては、興奮したり反省したりしているだけのマッチポンプであろうアメリカの白人共よ>とワタシは思います。

     

     「アメリカンスナイパー」は、「ガチで西部劇なんかやったら世界世論が黙っちゃいない。やるならスタローンとかシュワちゃんに任せるか、マンガチック(MANGA+「TIC」)なロシアやアラブゲリラ相手にやるしかない」というご時世に、「代理食なんかじゃねえぜ。何せこいつぁ実話だぜ」というガンマンの、久しぶりのガチンコ正義の発砲で、長らく鬱病的にしおれていたマッチョなアメリカ男のポテンツに火をつけたという側面が、驚異的な興行収益に結びついたのは間違いありません。

     

     ただしかし、本作は、ここまで書いてもまだ、「反戦/厭戦」派にもそれなりの言い分がありそうです。

     

     冒頭で述べた通り、映画の後半は、DVがやめられず、正義の拳で弱者(女子供)を殴り殺しかけた男が、自分から泣きながら謝る、ヒステリックな情動奔流(反転)にも似て、かなりダークだし、「悲劇的な結末は実話」という、オセロの角も取っています。

     

     ただ、本作は、少なくとも20世紀的な戦争映画の系譜からパースペクティヴするならば、相当新しい、双極性チックというかアンドロジーナスチックというか、「ドンパチ+懺悔」といった構造で、観る物を翻弄します。どちらかが、どちらかのデコイ(疑似餌)であり、どちらかに本当のテーマがある。といった作りではないです。かなり斬新と言えるでしょう。

     

     ワタシのPCスキルが高かったら、エクセルか何かを作って、チャートをこしらえるでしょう。戦争映画というのは「ドンパチ←→反戦」「実話←→オリジナル脚本」「アメリカの自尊心←→自虐心」「殺戮シーン最大←→最小」等々、多くのパラメーターによってチャート化する事が可能です。

     その中には「反省←→ふんぞり返り」といったパラメーターも存在します。

     

     アメリカはこのパラメーターだけでも、交代制、もしくは周期性とも言うべき形で、懺悔=反省を「戦争映画」という娯楽の構造の中で保持し続けてきました。

     

     多く西部開拓時代を描いた「西部劇」は、存命の当事者が存在しないという前提で量産された、おそるべき痛快な娯楽で、ここまでお読み頂ければお解りの通り、抑圧を抱え、常に手が血塗れているアメリカ人のカタルシスたるや想像を超えた物があったでしょうし、そんなシャブのような事をして、後から冷静になれば、とんでもない罪悪感が襲ってきますから、バックラッシュとしてこれは多く反省します。

     

     クリントイーストウッドは、映画史上、この「痛快西部劇」と「アメリカの反省」を、少なくとも作品別には、見事に両立させて来たほとんど唯一の監督です。フィルモグラフィには手ひどいサディズムというフェティシズムに結実する、罪悪感と反省の入れ子構造が例外無く見て取れます。

     

     なかでも「反省」側が全景化して作品を支配した、「グラントリノ」は、「アメリカンスナイパー」と真逆の意味での「現代西部劇」の傑作で、主人公のガンマン(現在の所、イーストウッド本人の最後から二番目の主演作。主人公は朝鮮戦争での殺人を、現在でも拭い難い罪悪感として抱いたまま生きている)は蛮族(ここでは郊外に住む「モン族」という少数部族の移民)からの夜襲やレイプといった蛮行の数々を成敗する為に、全員をブチ殺すと見せかけて、全員からブチ殺され、過去のアメリカの「健康的な栄光」である名車「グラントリノ」を、蛮族から翻って仲間になった少年に託します。

     

     これほど見事に構造化された「反省=贖罪」の映画はありません。ワタシは、イーストウッドは次ぎに何処の進むのか、もう引退してもまったくおかしくない。と思っていました。

     

     そしてその後、イーストウッドが代表であるマルパソは、新人監督や若手俳優を起用しながら、「グラントリノ」ほどではない、良い湯加減の、あるいは、かなり大掛かりな感動作を作りながら、イーストウッド個人の作家性/オブセッション/フェティッシュは後景化させ、「ジャージーボーイズ」などは音楽映画として非常に高いクオリティでありながら「まあ、イーストウッド、現場に来てDチェアに座ったの5分っしょ」といったノリでした。

     

     しかし本作は、「反転したグラントリノ」として、最後の最長老ガンマン(ご存知の通り、現役監督の中でも最長老に属します)でありながら、最も贖罪したい、サディズム持ちの老マッチョとして、唯一無二の問題作を作り、生涯で最も大きな興収を上げました。

     

     アカデミー賞授賞式で、司会のニール・パトリック・ハリスは、最近の司会者平均である、ちょっとキツめのブラックジョークを連発しましたが、感動的なオープニングソングに続いてこう言います。

     

    「候補者の皆様、おめでとうございます。作品賞候補の8作品だけで6億ドル超の興行収益を上げました。そのうち、「アメリカンスナイパー」1本で3億ドル超(大拍手)関係者の皆さん、おめでとうございます(大拍手の中、イーストウッドの老人顔破顔一笑が抜かれる)。来乗客の収入で収益を換算すると(両手で客席右半分を指し)、客席右半分で作品賞候補7作品分。一方、「アメリカン・スナイパー」は(と、一瞬、「残りの左半分全員」というギャグを言う流れで、両手を客席左半分に向けながら、一転)オプラ1人で十分だね(えええええー。といった感じの引いた笑い)」

     

     という、なかなかキツいギャグをかまし、笑いが凍り付いていると見るや、「え?、、、だって、、、、お金持ちでしょ?(笑)」といって会場大爆笑。黒人女優のオプラ・ウィンフリーを(軽~く。程度ですが)キレさせました。

     

     このギャグのブラックさの質量は今年のハリウッド映画界全体を俯瞰する上で非常に重要なのですが、本稿には直接関係ないので、詳しい事は各自調査して下さい。「アカデミー賞の受賞式ってけっこうエグいねー」と思いを新たにされると思います。

     

     

     とさて、ここまで8000字近く書いて来た事は、単なる事実の羅列です。「西部劇」を含む(あるいは「含まない」とする立場もふまえた上での)「アメリカ戦争映画史」について書き始めたら、書籍一冊分になるでしょう。前述のチャートは、その本に収録されるのが望ましいでしょう。

     

     「西部戦線異常なし」「ジョニーは戦場に行った」「フルメタルジャケット」「プライヴェートライアン」「エイリアン2」や「インデペンデンスデイ」、また、ノスタルジー&トリビアになりますが、あの水野晴郎氏をして、水曜ロードショーの解説で「こんな映画は制作されない方が良かったですね。こんな風にアメリカが西部劇を貶める必要は無いです。やってはいけません」と、ものすごいコメントをさせた「ソルジャーブルー」(カスター将軍を、狂喜の殺人鬼として、第七部隊を殺戮軍とし、正義のインディアンが討伐するという、アメリカ映画史上もっとも自虐的な「反・西部劇」。水野氏が地上波の人気番組で、別人のように酷評するという極端な行動に出たのは、「氏がアメリカ市民警官の資格を持つポリスフェチであること」を知るまで不条理な程でした)、そしてあの「地獄の黙示録」でさえ成し遂げなかった、「最高の痛快娯楽ドンパチとドン詰まりアメリカの鬱病的な戦争由来ダークネスの平然としすぎる程平然としたキメラ」こそが「アメリカンスナイパー」であり、ここまで長々と書いて来た通り、この作品の監督がイーストウッドである必然性と強度は、「ジャージーボーイズ」比較で3億倍に達するでしょう(老人性のボケも含めて。です)。

     

     ギリシャ演劇からハリウッド映画まで続く、映画の物語的ではなく、テーマ的同一性の破綻は、香港映画やインド映画のような周縁国から出て来て這いましたが、世界的なハリウッドヒット作にも及んで訳です。そこにはイーストウッド個人が孕むアメリカの双極性や、それを一皿に盛って出してしまうアルツハイマー性によるものでしょう。

     

     

     

     

     ワタシの私感、つまり批評はここからですが(もうクタクタだという方には申し訳ありません。三ツ矢サイダーでもどうぞ)、その前に、さらっと(4)を加えさせて下さい。「ええええ?まだ、、、、」などとグッタリされる事なかれ。

     

    (4)本作に流れる、中途半端に情緒的なピアノの調べがあります。それは、ほとんどの方が聞き逃しているのではないでしょうか?この、「中途半端に情緒的で、素人臭く、だからなのか、やや弱めの音量で流れているピアノ曲」の作曲と演奏は誰でしょうか?

     

     そう。クリントイーストウッドその人です。

     

     マルパソに音楽家が雇えない筈がありません。「深い問題意識に根ざしたシリアスな作品」に対し、いくら弾けるからといって、自分でピアノを弾くでしょうか?移入してみて下さい。

     

     楽器の演奏に関して、音楽家であるという特権性を振りかざしてしまうのはアンフェアですが、どんなに暗く重いトーンであろうと、アマチュアが楽器の演奏を行っている時の主観は、間違いなくはしゃいでおり、躁状態と幸福感に満ちています。

     

     ワタシはこの作品を、イーストウッドが躁状態、つまりノリノリで作ったとしか思えません。「とうとうピアノ弾いちゃったよ(笑)ノってるねえ。シリアスくんたちにもっと大きな声で教えてあげなよ、自分の不安や傷をなでるのに忙しくて気がつかないから彼等」

     

     

     

     と、気がついたら1万字を超えていました。もうみなさんヘトヘトでしょうから、評価基準の羅列に対し、ワタシの評価自体は最速で済ませてしまいましょう。

     

     すごく変わった二種盛りのワンプレートランチ。カレーライスと苺ショートが乗っていたとします。「どっちが強い?」と聴かれたら、答えは3種類です。

     

    1)苺ショートのが強い

    2)カレーライスのが強い

    3)わかんない、俺ムチャクチャだから混ぜて喰っちゃった。

     

     勿論この回答に唯一絶対の正解はありません。苺ショートが強かった人は糖分や甘味に極端に飢えているか、カレーが嫌いで、口に入れられなかった人でしょう。カレーが強かった人は、大体その逆でしょう。その日の体調によって変わるかも知れません。

     

     しかし、(3)は(1)と(2)に比べれば少数だと思われます。そして、ワタシだったら、間違いなくカレーです。カレーのが強い。つまり、このたとえ話ではカレーが西部劇です。いくら隣に苺ショートがあっても、それはどっちかと言えばカレーの皿です。

     

     ただ、苺ショートのが強いという人の存在も、どっちも同じであるという人の存在も認めます。その人々には、隣にカレーが盛ってあっても苺ショートのが強く感じる根拠がある筈です。グダグダの人にも、それなりの理由がある筈です。

     

     日本人の平均が、「PTSD」「迫り来る戦争不安」「あらゆる不安」「あらゆる鬱」「破滅恐怖」「ネットでイライラしている」「シリアスが偉いと思っているというおかしな権威主義」といった栄養の偏りに依って生じる味覚の失調によって、苺ショートのが強いとする事に、ワタシは異論はありません。失調が重症であればあるほど、「苺ショートしか見えない」という状態に近くなるでしょう。3億ドルの興行収益をもたらした、物凄い数のアメリカ人には、どういう自己セッティングによって、どっちがどのぐらい強く感じているのでしょうか?

     

     繰り返しますが、ワタシは「あんた良く見なよ隣カレーだよ!!バッカじゃないの!!」と驚いたり、嘲笑したりする気は全くありません。「重症だな日本人」と思うだけです。

     

     とはいえ、この店は明らかにカレー屋で、苺ショートは、業者から適当に入れてもらってる、雑なデザートです。こう断ずるのは何故か?カレー(西部劇)の方は、物凄く丁寧に、楽しんでノリノリで製作されているのに対し、苺ショート(反戦)は、「実際にそれが事実だから」という前提を単に(カレー屋がケーキを業者からぱっと発注する様に)取り入れている、それ以上でも以下でもない上に、主人公の死に方は、戦争に参加した者の平均的な死に様から見れば、際立って悲惨とはいえないからです。

     

     あらゆる戦死者、戦後自殺者、戦後自殺者に巻き込まれた者達の死に様を知れば知るほど、主人公の死が、勿論悲惨で悲痛なものではあれども、ぼちぼち程度である、或は、見方によっては、かなり英雄的で殉死的な、「良い死に方(余り良い表現とは思いませんが、論旨の為に敢えて書きました)」である事を雄弁に物語っています。「一応メニューに入れとくか」のデザートの甘さが、もう有り難くてあり難くて。ああケーキ美味しい。という方、あなたは弱っています。詐欺に注意して下さい。ワタシも気をつけます。

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    ビュロ菊だより
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