弱いなら弱いままで。
ここ数日、ひとりでうちにやって来た甥っ子(6歳)の世話に追われていた海燕です。
エネルギーにあふれる子供の相手ってほんとうに疲れますね。
わが家に滞在しているあいだ、ほぼぼくがメインで子守りをしていたので、甥が帰宅したあとはスイッチが切れたようになりました。疲れた!
ちなみに本人は初めは小声で喋っていたものの、慣れるにつれて大きな態度になり、しまいには「あっち行け!」とかいいだすまでに。いや、ここ、ぼくの家なんだけれど。
そのうち「バトルごっこしようよ。ぼく、仮面ライダー全部とウルトラマン全部ね」などといった迷言も飛び出すありさま。お前は何をいっているんだ。
最後は上機嫌で帰ってくれたのが救いですが、そのあいだプライベート時間がないのはしんどかった。世のパパさんママさんの偉大さが身に沁みます。いや、ほんと、偉いなあ。
まあ、楽しかったけれどね。
さて、それとはまったく関係ありませんが、「最近オタクとして生きるのがつらい」という匿名記事を読みました。
この手のタイトルに対しては「辛いならやめれば」としか思わないぼくなのですが、この記事は論旨の展開がちょっとだけ面白かった。
つまり、オタクとオタク文化の政治的な「正しくなさ」が耐えられないという意見なのですね。
具体的には『涼宮ハルヒの憂鬱』はセクハラだとか書かれています。
はっきりいっていまさらな話ではあるし、具体的な指摘にはツッコミどころもあるのですが、まあ、そういう考え方はありえるだろうな、とは思います。
厳密に見ていけば、それはオタク文化なんて問題含みに決まっている。
ライトノベルであれ、ウェブ小説であれ、差別的な表現なんていくらでも見つかることでしょう。
この記事自体は実に他愛ない内容に過ぎませんが、現代のオタク文化に差別性があるという指摘そのものは否定できない一面があると考えます。
しかし、だからといってこの文化が堕落した良くないものなのだ、とはぼくは考えないのですね。
結局のところ、それもまた人間の一面である、と考えるからです。
昔からの読者の方は、ぼくが『らくえん』というエロゲを好きなことをご存知なことでしょう。
このゲームはムーナスという名のエロゲメーカーに就職した主人公を描いているのですが、そこではオタク文化のダメな側面がこれでもかというほど語られます。
ひっきょう、オタク文化のことを語るとき、そのポルノ性を否定することはできない。
オタク文化とは欲望の文化なのであって、どうあがいてもお綺麗な表現だけで表し切ることはできないのです。
しかし、『らくえん』はだからオタクであることが辛いなどといいだすことはありませんし、シニカルに「それはしかたないことだよね」と訳知り顔をしてみせることもしません。
「欲望の文化」としてのオタク文化を正面から見据えた上で、そこに人間の人間らしさを見るのです。
上記記事ではオタク文化を「果実」と「クソ」に分けて、前者を肯定し、後者を否定しています。
オタク文化にはいい側面もあるけれど、政治的におかしい部分もあって、悩ましいといういい方ですね。
しかし、ぼくにいわせればそうやって良いところと悪いところに分けて考えられるほど問題は単純ではない。
オタク文化であれほかの文化であれ、「偉い思想にのっとって書かれた素晴らしい作品」と「そうではないくだらない作品」を分けて、前者にだけ価値があるのだとする時点で、何かが間違えている。
そうやって清と俗を分けた段階で、人間の本質を見落としているのだと感じるのです。
むしろ、
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