坂爪真吾『男子の貞操』読了。
坂爪さんの本はこれで『セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱』、『はじめての不倫学』に続いて三冊目になりますね。
立て続けに読み耽っているのはそれだけ面白いからなのですが、この本も期待に違わずすばらしい内容でした。
海燕、絶賛。
ただ――ただね、本の内容を素直に一から十まで受け入れることはできない自分があることもたしかです。
理屈で考えれば書かれていることは正論だと思うのだけれど、感情が受け入れを拒絶する。
どうにも納得がいかないというか、あまりにも理想論ではないかと思ってしまう。
具体的にどのようなことが書かれているのか。
まず、著者は「僕らを射精に導くのは「誰の手」なのか?」と問いかけます。
そして、こう答えるのです。それは自分の手などではなく「お上(かみ)の見えざる手」なのだと。
つまり、ぼくたちは「お上」の作り出した規制を破る「タブー破り」によってしか欲望を喚起されないようになっているということ。
著者は書きます。
もし、あなたが「女子高生」という記号に性的興奮を覚えるのであれば、それは、決して、女子高生の裸が、他の年代の女性の裸と違って、特別に魅力的だから、女性構成のセックステクニックが、他の世代の女性よりも上だからではありません。十八歳未満の女子高生との性的接触を、お上が法律や条例によって規制しているからです。「禁じられているからこそ、魅力的に見える」だけの話です。
一理ある、と思います。
より正確には、単に「お上」ではなく、社会全体の倫理や道徳がかかわっているのだろうけれど、大筋としては納得がいく。
ジョン・ヴァーリィに「八世界シリーズ」と呼ばれる遠未来社会を描いたSF小説があります。
その世界では完全な衛生コントロールが実現していて、はだかで歩く人もめずらしくありません。
しかし、そうなるともうだれもはだかなどに性的欲求を喚起されないのです。
それはひとつの「あたりまえの風景」でしかなくなっているわけです。
ひとの欲望は「禁止されることによって燃え上がる」。
その意味で、ぼくたちの欲望はたしかに「お上」によって、社会道徳によってコントロールされているのかもしれない。
著者はそういう「タブー破り型」の快楽は長続きしないものだと考えます。
タブーを破ったその瞬間には興奮なり感動があるが、それは時間を経て冷めていく。ようするに「タブー破り」は簡単に飽きるのです。
そこで、著者はそれに対するもうひとつの欲望の形を提示します。「積み重ね型」です。
それは「特定の相手との人間関係や思い出を積み重ねることで、その相手に対する感情的な信頼を深めていく過程で得られるタイプの快楽」だといいます。
著者はこの「積み重ね型」の快楽を推奨します。
それは「エゴ(利己的)」ではなく「エコ(他者と環境に配慮した)」性生活であり、中長期的に性を楽しんでいくためにはこの「エコ」な快楽を得られるように自分自身を慣らしていく作業が不可欠である、ということのようです。
うーん、正しい。なんとも正しい理屈です。
ただ、なんというかなあ、あまりにも「正しすぎる」論理だと思うのですよね。
ロジックとしてはたしかにその通りだと思う。しかし、それをパーフェクトに実践できる人がどのくらいいるかというと――無理じゃね?と思ってしまう。
たしかに、女性を「巨乳」「痴女」「女子高生」といった記号に分類して、生身の女性そのものではなく、その記号にしか欲望できない性は「貧しい」。
しかし、だからといって「エコで豊かな性」に移行できるかというと――まあ、できる人はできるのでしょうね、というしかありません。
著者によれば、現在、社会にあふれるはだかは本来のヌードとしての魅力や価値を失った「ジャンクヌード」でしかないということです。
そのようなジャンクヌードで「抜く」ことは性差別や貧困の拡大に加担する行為にほかならない。
それなら、どうすればいいかというと、