弱いなら弱いままで。
湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』を読んだ。読後、ぽんと膝を叩きたくなるような、納得の一冊だった。最近読んだ何十冊かの本のなかでも、特に優れたもののひとつだと思う。未読の方にはオススメしておく。
本書のなかで著者が主張していることはタイトルに集約されている。つまりは「わかりやすいヒーローはいない」「ヒーローを待ち望んでいるだけでは世界を変えることはできない」ということである。
この本ではその「ヒーロー」として橋下徹大阪市長が名指しで取り上げられているのだが、それなら単なる橋下批判の書なのかといえば、そうでもない。著者はあくまで重要なのは橋下徹を生み出した「土壌」なのであり、最終的には橋下個人には興味はないといい切る。
著者によれば、現代はだれもがあまりに忙しく、民主主義に必要なコストを払うことができない時代である。人々はあまりに時間に追われていて、何が必要で何が不要なのか、だれに政治家としての適正がありだれにないのか、的確に判断することができない。
だからひとり凛然と不正(とその人が考えるもの)に切り込んでいく「ヒーロー」が要請され、また悪役としての「既得権益」が見出されていく。
しかし、考えてみれば「既得権益」とはじっさいには「悪の大金持ち」や「楽をして儲けるずる賢い小悪党」とは限らない。ある人によって「既得権益」と名指されたお金は、その受給者にとっては「生きていくためにどうしても必要なお金」かもしれないし、そうではないとしても「最低限余裕のある暮らしをするための大切なお金」かもしれないのである。
だから、そこではどうしても「うんざりするほど手間のかかる利益の調整」が必要で、それこそ政治の本来の役割なのだが、いまの時代はその長い時間がかかるプロセスを見ていられないほどの「焦り」が国民の側にあり、だから「ヒーロー待望論」が蔓延する。
しかし「ヒーローを待っていても世界は変わらない」。それどころか、より悪化していく。それが本書の趣旨である。いってしまえば、ヒーロー待望論の裏にある、「既得権益打破」が何を意味しているのか想像してしみようともしない想像力のなさを避難しているとも受け取れる内容だ。
だが、重要なのは、そういった人々を「想像力がない」といって批判するだけで済ませてしまうこともまた問題なのだ、ということなのだ。その「想像力がない」という批判はおそらく正しいかもしれない。しかし、「正しいことをいうだけ」ではものごとは動いていかない。
あるいは「正しいことなのだからその通りにならないのは世の中のほうがおかしいのだ」と考えるひともいるかもしれない。しかし、その人がそう考える時、全く正反対の立場で同じことを考えている人もいるかもしれない、と考えないのでは、それこそ想像力がないことになってしまうだろう。
いかにも自明に思えること、無条件に正しく思えることを主張する時こそ、「独善」というトラップに落ち込まないよう注意しなければならないということ。これはさまざまな問題についていえることである。
たとえば原発廃絶を訴えるひとにとって、その主張は「どう考えても正しい」ことなのだろう。あるいはそれはその通りなのかもしれない。しかし、それでもなお、「利害の調整」は必要なのであり、「そのための対話」は不可欠なのだということ。
単純に原発が邪悪な何者か(それこそ「既得権益」)によって動かされてきたと考え、それを打ち破ることだけを考えるのなら、もはやそこに対話は成立しない。ただひたすらに正義と正義が延々と互いの主張を述べ立てるだけになるだろう。
どんなに自明な正義も、それを新たに社会に組み込もうと思えば、そこに「利害の調整」が必要となる。あるいはそれはいかにも妥協めいていて、卑劣に思えるかもしれないが、そのやり方を拒否するのであれば、それこそ「ヒーロー」を待望するよりほかなくなる。
沈没していこうとしているように見える日本で、それでもなお、「ヒーロー」にすべてを委任することを拒否するならば、どうすればいいのだろうか。そう考えさせる一冊である。少なくともぼくは橋下日本など見たくないのだが、あなたはどう思うだろうか。
コメント
コメントを書く停滞している社会にヒーロー=独裁者が期待されるのはよくあること。
日本だと独裁者=伍長閣下のイメージが強いけど、古代ローマの独裁官のように期間を決めて全権委任する
制度は有事には一考に値すると思うけどな
ヒーロー=独裁者って言われると銀英伝のゴールデンバウムを思い出すわ
髭の伍長もそうだけど、改革初期はマジでヒーローなんだよな