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こんな記事を読みました。
女性YouTuberが渋谷の繁華街で自分の胸を揉ませる動画を投稿し、非難を浴びている。『フリーおっぱい』と題された企画の内容は、街で道行く人々に声を掛け、自分の胸を揉ませて世界平和を唱えるというもの。世界で流行した『フリーハグ』を模した企画と思われるが、安易に見知らぬ人に胸を揉ませてまで再生回数を稼ごうとするそのやり方に、インターネット上では《そこまでして有名になりたいのか》、《一度投稿した動画は永遠にネット上に残る。後から後悔しても遅い》など、辛辣な意見が飛び交っている。
https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12156-37327/
うん? いや、おかしくね? おかしいと思うのは地上でぼくだけなの? だって、「フリーおっぱい」がダメなら「フリーハグ」だってダメなのでは?
フリーハグが愛と平和
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うーん、この海燕さんの意見、現在の自分にはイマイチ賛同できません。
そりゃあフリーハグにもセクシャリティの問題は少なからず絡みますし、行動的にフリーおっぱいとどれほど差があるのかという問いも出てくるでしょう。
ですが、やっぱりそこにはロジックで割り切ることのできない感情的な問題があると思うんですよ。ハグにもおっぱいモミモミにもそれぞれ象徴的な意味合いがあって、それらは一朝一夕ではなく長い時間をかけて醸成されてきた、ある種の常識とも言うべきコモンセンスなわけです。そしてそういうものの積み重ねや連なりを、人類は“文化”と呼称して育んできたんだと僕は考えます。
あるいはこれが新たな文化への挑戦行動という見方も確かにできるでしょう。ですが新境地への挑戦というものが例外なく困難や偏見が待ち受けることは、これまでの人類が何度も実証してきています。現状としてこの行動は、そういった逆風真っ只中なわけです。
よほどの絶対悪でない限り、どんな試みも頭ごなしに否定されてはならないとは思いますが、現状としてこの行動が日本において“そういう目”で見られることは致し方ないかと。それが日本という国であり、文化です。
問題はこのユーチューバーが何をしてきて、何を訴え、今後何を為してゆくのかでしょう。それが多くの賛同を集められれば、あるいはメキシコから始まった「ノー・パンツ・デー」ようなキテレツ文化も根付くかもしれませんね。