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前々回の記事の続きです。その記事では、泣き叫んでいる子供は幸福になれない、と書きました。それでは、どうすればいいのか?
あたりまえの結論ですが、大人になるしかないということになります。泣き叫ぶことをやめて、現実と折り合いを付け、成熟すること。ところが、これがむずかしい。そもそも大人とは何なのか? ここでアドラー心理学の話が出て来ます。
『嫌われる勇気』の大ヒットで日本でも非常に有名になったアルフレッド・アドラーの心理学。ここではその続編である『幸せになる勇気』から引用させてもらいましょう。
この本は前作と同じく「哲人」と「青年」の対話によって成り立っているのですが、この箇所で「哲人」は「青年」に愛について優しく語っています。
哲人 愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である。愛によってふたりは、幸福なる生を成し遂げる。それではなぜ、愛は幸福につながるのか? ひと言でいえばそれは、愛が「わたし」からの解放だからです。青年 わたしからの解放!?哲人 ええ。この世に生を享けた当初、われわれは「世界の中心」に君臨しています。周囲の誰もが「わたし」を気にかけ、昼夜を問わずあやし、食事を与え、排泄の世話さえしてくれます。「わたし」が笑えば世界が笑い、「わたし」が泣けば世界が動く。ほとんど、家庭という王国に君臨する独裁者のような状態です。青年 まあ、少なくとも現代においてはそうでしょう。
ここから、「哲人」は自立とは「自己中心性からの脱却」であることを語り、そして、自立して大人になることとは「愛されるためのライフスタイル」を捨てて愛することを選ぶことであることを語っていきます。
そうです。愛すること。それによって人は「わたし」の檻(ナルシシズム)から抜け出て、「わたしたち」のための人生を送ることができるのです。
それは、世界の中心という玉座から降りるということです。世界が自分の思うままに動かないという現実を受け入れること。そして、それでもなお、他者を愛しつづけること。
それは、自分が他者のために犠牲になるということではありません。それは、喩えていうなら「あなた」のために生きるということでしょう。そうではなく、「わたしたち」の幸福を求めて生きることが重要なのです。
そして、その「わたしたち」の範囲は、全人類、全存在にまで広げていくことができるでしょう。この世に存在するすべての存在を深く愛することができるとき、人は、自分は幸福だということができるに違いありません。
それは「わたし」の欲望が充足されるというだけのこととは決定的に違う。人はだれかを愛し、貢献することによって「わたしたち」を主語とした人生を送り、そして泣き叫ぶ子供であることから抜け出すことができるということなのです。
しかし、そうはいっても、大人になることは、特にこの現代社会では、簡単なようでいて、意外にむずかしい。何といっても、優れて近代的な社会とは「人が子供でいてもかまわない社会」であるからです。
ですが、それでお、なお、ぼくたちはみな、泣き叫ぶ子供から成長して大人になるべきだと思います。人はそうやって初めて、幸福になることができるのだから。
碇シンジ少年のように「みんなもっとぼくに優しくしてよ!」と叫んでいるうちはほんとうの意味では大人にもなれない。そうではなく、「自分はどう人に優しくすることができるか?」と考えるべきなのです。
たぶん、そういうことを自然にできる人間を「モテ」というのだろうな、と思うのですが。ぼくが好きな二村ヒトシさんとか、宮台真司さんの議論も、すべてはここに結集していきます。
「愛されることを求めるのではなく、承認され、肯定され、誉めそやされ、ちやほやされることを願うのではなく、自ら愛すること」。それが人をナルシシズムの小部屋から解放するたったひとつの鍵です。
その時、人はだれかの痛みを自分の痛みのように感じ、だれかの哀しみを同じように哀しむことになるでしょう。しかし、そのかわり、だれかの歓びを自分のことのように歓ぶこともできるのです。
とはいえ、あくまで「わたし」にこだわることをやめるとは、何とむずかしいことなのでしょうか。ぼくはちょっと自信がないかもしれません。やっぱり、愛されたいよね……。
ですが、皮肉なことに、「愛されたい」と望んでいる人ほど、ほんとうの意味では愛されません。自ら愛する人こそが愛を手に入れていくのです。
以前に話した恋愛工学の話もここにつながっていくのですが、とりあえずこの話はこれで終わりましょう。
愛されることを待つのではなく、自ら愛すること。むずかしいよね。でも、それこそが人を救うのです。
ぼくはそう信じます。
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