メルニボネの皇子―永遠の戦士エルリック〈1〉 (ハヤカワ文庫SF)

 と、ここまでの歴史はアルビノに限らず、他の多くの「異形の人々」がたどった系譜とよく似ており、さほど目新しくはない。日本でのアルビノをめぐる様相が独自の展開をしていくのは近代以降のことだ。まず一点目は、戦後のサブカルチャーシーン、とりわけ近年のオタク文化圏における「アルビノ萌え」なる現象である。病者・障害者を見世物にすることはもちろん、話題にのせることすらはばかられる「道徳的な」社会において、病気・障害であるはずのアルビノが、キャラクターとして大量に生産・消費され、場合によっては性的欲望の対象となっているのである。アルビノのキャラクターに萌える人々は、アルビノについて、当事者について理解した「フリ」をして「政治的な正しさ」を確保する。さらに、2次元と3次元の連続性をなくすことで、3次元世界の当事者を不可視化する。こうした2次元のキャラクターに萌えるための巧妙なロジックを用いることで、彼/彼女らは倫理的葛藤を回避しているのだ。

「障害学研究会関西部会第26回研究会」(http://d.hatena.ne.jp/uniqueface/20070210/p1

 アルビノ萌え、か。この文章だけでは何ともいえないのだが、もちろん、「オタク文化圏」の当事者としては言いたいことはある。まずすぐに思いつくことは、オタク文化圏で生み出されたそれらのキャラクターが、アルビノに「見える」としても、必ずしもアルビノと意識されて描かれていないということである。

 近年の「オタク文化圏」では、ほかのキャラクターと差別化するために、まずありとあらゆる髪の色、瞳の色のキャラクターが生み出されている。そのなかに、たまたま、白い髪、赤い瞳のキャラクターがいたとしても、かならずしも「アルビノのキャラクターにしよう」という意図でデザインされているとはかぎらない。

 ぼくが「アルビノのキャラクター」と言われてすぐに思いつくのは、『新世紀エヴァンゲリオン』のヒロイン、綾波レイだ。透き通った髪、赤い瞳、神秘的なその容貌はアルビノの特徴をそなえているように見える。しかし、作中ではだれもレイの外見を気にかけているものはいない。おそらく設定上、彼女はあくまでふつうの日本人の少女なのである。

 上記記事では、「アルビノについて、当事者について理解した「フリ」をして「政治的な正しさ」を確保する」と書かれているが、そもそも大半の消費者は、それがアルビノであるとすら認識していないのではないか。

 そもそもそれがけしからん、という意見もあると思う。ぼくもそう思わないこともない。どこか、ボーイズ・ラブとゲイを巡る問題に近いものがある。作品を作る側は、自分の快楽原則に従って無邪気に作る。しかし、その無邪気さがだれかの反感を買うことがある。差別意識の発露と見られることがある。

 そのとき、その作り手と、そして消費者はどう対応するべきなのか。単純に、すいません、無理解でした、と頭を下げればいいというものでもない。正確に問題を理解することが必要だと思う。この講演の中身を知りたいけれど、無理だろうなあ。

 Amazonによると、天野喜孝の華麗な表紙が付された『エルリック・サーガ』の第1巻『メルニボネの皇子』が発売されたのは84年11月のこと。同じくアルビノの美男子を主人公とする『ファイブスター物語』第1巻の発売は86年だから「エルリック」のほうが若干早い。

 ただし『F.S.S.』の元ネタになっているテレビアニメ『重戦機エルガイム』は84年2月放送開始。こちらにはオルドナ・ポセイダルという、アルビノっぽい悪役が出てくる。

 また、萩尾望都のSF長編『スター・レッド』の発表はその数年前。この作品には赤い瞳に白い髪の火星人が登場する。

 いずれにしろ「オタク文化圏」におけるアルビノの耽美なイメージは80年代あたりから始まっていると思しい。

 もちろん、『エルリック・サーガ』そのものの発表はそれよりずっと古く、60年代のことである。しかし、海外におけるエルリックはもっとグロテスクなイメージだから「オタク文化圏」における「アルビノ萌え」と直接結び付けて考えることはむずかしいように思う。

 80年代という時代性が鍵なのだとすれば、「オタク文化圏」におけるアルビノのイメージは、むしろ同時代のロックアーティストあたりから来ているとも思えるのだが、さて。