さて――さて、さて。ぼくはいつも、物語を書きたいと思っている。より具体的には、何か一本、面白い小説を仕上げてみたいと願っている。

 しかし、その願いは叶ったためしがない。いつも構想の段階では光っているように思えるアイディアをひねり出せるのだが、じっさいに書いてみると、哀しいかな、まるでダメだったいうことに気づくのだ。

 いつも思う。いったいぼくに欠けているものは何なのか? 「才能」というひと言で表してしまえば簡単だが、それではその「才能」の正体とは何なのか? そして、具体的にどうすれば欠落しているものを補うことができるのか?

 一生に一度でいい、胸躍る傑作を書いてみたい! そう願ってやまないぼくとしては、この哲学的に深淵な問題を考えつづけてきた。

 多くの人がいう。物語を作ることはむずかしいことではないのだと。なぜなら、物語とは、何らかの神秘的な天才の産物でしかありえないのではなく、いくつかの「パターン」の組み合わせに他ならないのだから、と。

 じっさい、これはかなりのところまで理論化されている話だ。何らかの点で「面白い」といえるストーリーは、構造にまで分解してみればさほど独創的なものではない場合がほとんどなのだ。

 あるいは文学的、ないし芸術的に斬新な作品はそのような「パターン」に縛られていないかもしれないが、そういう作品は物語的な意味では「面白くない」。すれっからしの批評家にはウケても、大衆を魅了することは叶わないだろう。そういうものなのだ。

 で、こういった「物語作りの作法」についても、たくさんの本が書かれている。それを書いているのはたとえばハリウッドの脚本家であったり、ベストセラー作家であったりするが、かれらが口をそろえていうことはひとつだ。「物語にはパターンがある。パターンを学べ」。

 これは信じるべき話だと思う。じっさい、尾田栄一郎でも宮崎駿でも、あるいは村上春樹でも、真の意味で「新しい物語」を生み出せているわけではない。

 たとえば『ONE PIECE』は構造的にはアルゴ号の「金の羊毛」を探す旅、あるいは『西遊記』の経典を求める旅、そうでなければ『宇宙戦艦ヤマト』の「コスモ・クリーナー」をめざす旅のリフレインだ。

 この場合、「金の羊毛」とか「コスモ・クリーナー」とかは、ヒッチコックがいう「マクガフィン」というやつで、ようするに何でもいい。大切なのは抽象的な構造であって、具体的な装飾ではないということ。

 たとえば、『Fate』における「聖杯」などは、典型的なマクガフィンである。あれはべつに聖杯でなくても良いのだ。極端な話をするなら、それがドラゴンボールであってもまったく同じ機能を果たす。

 だから、これらのパターンを学び、うまく組み合わせれば、どんな物語をも作り出すことができる、とハリウッド脚本家やベストセラー作家はいう。なるほど。

 しかし、ここでぼくは思うのである。たしかにそうだろう。物語のパターンを学べば、それなりの作品はできあがることだろう。だが、それでは、この世の中に山ほど詰まれている凡作の山は何なのか?

 だれでも物語作りの方法論が書かれたマニュアルを勉強し、それを身につけることができるはずなのに、じっさいにできあがった作品のクオリティに天地の差があるのはなぜなのか、と。

 うーん、なぜなんでしょうね。ひとついえることは、「表現力」が違うということだ。絵や文章、音楽、あるいはコマ割り、そういった部分のクオリティの差によって同じストーリーでもまったく違った作品になる。そういうことはある。

 なので、いくら物語が完璧でも、表現のレベルの差によって違いが出て来るということは当然のようにも思える。とはいえ、この話にもぼくはいまひとつ納得がいかない。

 表現力は一定以上のものがあっても、ストーリーの面白さがいまひとつという作品も山ほどあるからである。表現力だけでヒット作が出せるなら、小畑健のマンガが打ち切りになったりするはずがない!

 やはり一流のストーリーを生み出すことは大変な作業なのだと考えるべきだ。そもそも「面白い物語」とは、どのようなシロモノなのか?

 それについて、ぼくはこのように考えている。「受け手の感情をつよく揺り動かす物語こそ、優れて面白い物語だ」と。

 これが文学作品なら純粋に知的な喜びを与えるだけでも傑作とみなされるかもしれないが、エンターテインメントとしての物語は、受け手のエモーションを刺激する必要がある。

 それでは、どうすれば受け手の感情を動かせるのか? そのためには、シンプルなやり方だが、やはり「感情移入できるキャラクター」を用意し、その人物の情動に共感してもらうという方法が有効だろう。

 ディーン・クーンツの『ベストセラー小説の書き方』を初め、多くのマニュアルにも書かれていることだ。それでは、具体的にどのような形で感情の波を生み出すべきなのか?

 これについては、バーモント大学コンピュテーショナル・ストーリー研究所のアンドリュー・レーガン研究員のチームが「六つの形に大別することができる」と主張している。

 具体的なことはGoogleってほしいが、このチームは物語に関するビッグ・データを研究した結果、それらが以下のような形に分けられることを発見したのだという。

・ 『地下の国のアリス』(ルイス・キャロル)など、立身出世物語に見られる、感情値の「一定して継続的な上昇」型

・『ロミオとジュリエット』(ウィリアム・シェイクスピア)など、悲劇に見られる、感情値の「一定して継続的な下降」型

・ヴォネガットが説明した穴の中の男の物語のような感情値の「下降から上昇」型

・『イカロス』(ギリシャ神話)など、感情値の「上昇から下降」型

・『シンデレラ』(グリム童話等)など、感情値の「上昇⇒下降⇒上昇」型

・『オイディプス』(ギリシャ神話)など、感情値の「下降⇒上昇⇒下降」型


 これはある程度、納得がいく話だ。ほんとうに六つに分けられるのかどうかはわからないが、たしかにこのように感情がアップダウンを繰りかえす作品こそ、優れた物語といえるに違いない。

 新海誠監督は映画『君の名は。』を制作する際、感情グラフを作ってシナリオ作りの助けにしたという。その結果、素晴らしい作品ができあがった。

 この場合、感情がアップダウンを繰り返しながら、ダウンで終わる作品を悲劇、アップで終わる作品をハッピーエンドと呼べるだろう。

 で、ぼくはさらに考える。この「感情のアップダウン」の、その「振り幅」が大きければ大きいほど、物語はドラマティックになるはずだと。

 一般的にいって、「一貫して上昇」や「一貫して下降」の物語よりも、上昇したり下降したりする物語のほうが面白いはずだ。で、そのたびに「ものすごくアップし」、「めちゃくちゃダウンする」ような物語こそ、ドラマティックで面白い物語というべきだろう。

 逆にいうと、いまひとつ面白くない物語は、受け手の感情でこのビッグウェーブを描きだすことに失敗している。だから、そうなるようにシナリオを作るべきだ、という話になるのだが、どういうわけか、ほとんどの人はそれに失敗するのである。

 物語作りにも、やはり天才的に上手な人と、下手な人がいる。その差はどこにあるのか? なぜここまでマニュアル化されているにもかかわらず、「稚拙なシナリオ」や「退屈なストーリー」は生まれるのか? 多くの人たちはどこで失敗し挫折するのか?

 続く。