・『ロミオとジュリエット』(ウィリアム・シェイクスピア)など、悲劇に見られる、感情値の「一定して継続的な下降」型・ヴォネガットが説明した穴の中の男の物語のような感情値の「下降から上昇」型・『イカロス』(ギリシャ神話)など、感情値の「上昇から下降」型・『シンデレラ』(グリム童話等)など、感情値の「上昇⇒下降⇒上昇」型・『オイディプス』(ギリシャ神話)など、感情値の「下降⇒上昇⇒下降」型
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マニュアルは失敗や破綻しないためのものだからでは? 面白い物語ってのはそういう要点外さすに躍動してたり、逆にマニュアルを破っても崩壊してない物語だと思う。水戸黄門や暴れん坊将軍が前者で後者は羅生門や藪の中? なろうで考えれば水戸黄門なんかはチートが各人に分散してて(必殺仕事人とかも)、暴れん坊将軍はワンマンチート、羅生門はチートはないし英雄もいないが作者が伝えたいことだけに絞ってると思う。
・面白い話を作る為のマニュアルがある
・マニュアル通りに作っても面白くない話も出来る
・同じマニュアル通りの話でも表現力に差があるのではないか
・けれど、マニュアル通りで表現力があっても面白くない話も出来る
・逆に面白い話からマニュアルを考えてみる
・感情移入できるキャラと感情の波を用意する必要がある
・その為のマニュアルがあるしその通りに作るのだけど失敗する
・それはなぜなのか つづく
まさにJPOPだなと思いました。
どうしてなんでしょうね。面白いです。
自分が面白いと思うストーリーの要素
・予想外の展開になること
・その展開に納得できること
君の名はで言えば、時間軸がズレていたことは予想外であり、入れ替わっていた間に時間について言及してなかったので納得できた。
この記事に書かれていることは足切りされないための方法ではないかと思う。
アリスだけ引用枠から外れてるのが気になる。
お初です。
既に出ている通り、マニュアルというのは物語の体裁を整えるためだけのものでしょう。
昨今の面白いという形容すら漠然とした主観に頼っている表現なのですから、それをマニュアル化するなんてできようはずもない。更には「面白い=売れる(人気が出る)」ではないってことですね。
氏の作品も面白いと思ってくれる人はいらっしゃるのではないでしょうか?
まず品質と面白さは双方を内包するコンテンツや逆に一方だけしかないもの、両方欠けるものなどがそれぞれ存在することはあっても、品質=面白さではないという前提が必要
何故なら面白さというものは相対的かつ主観的な要素であるが故に作り手だけで作られるものじゃないから
質やレベルは客観的な物差しだけでもある程度計れるからそれを高めるためのノウハウやマニュアルはいくらでも作れるし創作者一人で完結できるけど、仮にそれが高かろうと低かろうと同時にそれにより面白さや受ける・売れる・流行ることとが100%一致することはない
要は面白さを評価する、それを面白いと評価するためにはその作り手以外の誰かによる物差し、要は観客が必要だから
結局今みたいに馬鹿の方が圧倒的に数が多いうえにうるさい世の中じゃ残念なことにそういう連中を客とみなしてそこに広がったものが結果的に面白いということになるのであって、それは必ずしも上質だったりレベルが高かったり個人個人の感想印象感情として必ずしも好きであったりする必要性も必然性もない
んなもん簡単でしょ
マニュアルを作り上げた人たちが面白いものをほどんどつくってしまったから
後から来た人はそのマニュアルをみても先人のマネごとにおさまってしまうからね~
面白いブロマガが書けるのに面白い物語は書けないとはこれ如何に
会員の皆さんが海燕さんの主観を語る当ブロマガを面白いと感じるのは、海燕さん自身が「感情移入できるキャラクター」として成立しているからではないでしょうか?
もしかするとスレイヤーズや化物語のような一人称型の物語が性に合っているのかもしれませんね
面白いかどうかで言うなら、極論で言うなら「相手の感性に合うかどうか」これに尽きると思いますよ?
とある人は原作よりも二次の方が好きで見てるという、これは原作よりも二次の方がその人の「感性」に合っているからと言うわけですよ?
後、マニュアルは「基礎」とか「基本」であって「答え」じゃないからとかかな?いわゆる「技術書」とか「取り扱い説明書」みたいなものだと思うけどね?
ヒッチコックの「サイコ」ではトリュフォーが「作中に同化できるような感じのいい人物が誰もいない」という指摘に対し「そんな必要なかった」と回答している。よって感情移入できる人物の有無は面白さの決定的な理由ではない。
個人的に思うのは、面白さの原点って「普通に生きていて気付かない世界(に対する視点)、真実性(リアリティではあなく生き方、真理とか)」だとおもう。
人が思う価値観、テーマは万人にそう違いはないし普遍的でいいが、そこからどう「普段目にする世界、誰かが描いた視点から分岐させるのか」。それをどうマネジメントして料理するかという構築力が表現力そのもの。話題の「デススト」もそう。基本はただのお使いゲーだし、言ってしまえば敵もよくある幽霊退治だが、ゲームの注力したシステムとテーマに対する個々の素材の貢献度が他と格段に違うから面白い。芳文社系もそうで「けいおん」「ゆるキャン」もその趣味に対する視点、(そういう趣味を誰かに正当性を主張できるような)真実性がある
「鬼滅の刃」「ワンピース」も当てはまる。尾田栄一郎の趣味は落語とかつての仁侠映画。その人とはなんなのか?というあの時代の泥臭い真実性を色濃く反映させたから(特に初期の)キャラのセリフが一つ一つ重かった。
さらに言えばそういった構成力は芸術的嗜好から生み出されるものなので「NOT ARTY」という言葉をうのみにするのも間違い。むしろ的確なモチーフでなるべく分かりやすく伝える手段として芸術はあるものだし、芸術とエンタメ的誇張の揺らぎのなかでこそ面白さは生まれる。それはヒッチコックの「映画術」を読めば間違いではないと思う(そもそもアートを知らない人間がどうしてアートか否かを判別しようというのか甚だ疑問だけど。)
つまり、面白い話を描きたきゃエンタメじゃなくて、芸術(特に文芸)理論と人間哲学を徹底的にやれ。
因みに「SAVE THE CAT」を参考にするのはやめとけ。
こういう技法書読むときはどういう人か調べるんだけど、最低脚本賞でラジー取ってるし名誉挽回している作品はなかった。またスピルバークが作品買ったとか言ってるが当時は脚本バブルで「とりあえず買っとけ」の状態。2000~3000万ドルがざらの環境で200万ドルの価格で売買。あとは分かるな?あの技術本しか売れてない。そしてそれは「技法書の中ですごく簡単に読める」から売れたのであって正当性があるかどうかは別。あと「フォレストガンプ」をバカの勝利、とかでくくっちゃう阿呆。(ありゃ「グレイテストショーマン」や「アルジャーノンに花束を」と一緒で純粋な「人間の尊厳の賛歌」が肝だ)